3.鼈甲と鴨葱
ほら、最近流行ってるアレなんでしたっけ。
クライアントの口癖のような言葉を聞きながら、僕は彼女の言葉を無言でテキストに書き連ねていく。とにかく流行っていて、目について、手に取ったお客さんがSNSに上げたくなるようなデザインが良い。明確な目的のない言葉たちの並んだテキストは、羅列している筈なのに空白がやけに目立って見えた。
恐らく、入社して三、四年ほどだろうか。
長い育成期間を終えて、ようやく仕事を任せられたことで張り切っているのだろう。だがその想いが空回りしていることに、当人は気がついていない。相手の口から出てくる言葉に「会社をPRしたい」という想いはなく、ただ、成果を上げたい、自分の力を職場に知らしめたいという気持ちだけが一人歩きしてしまっている。
本来重要なPR用の新商品の話は出会い頭に渡されたオリエン資料をさらう程度で終わってしまった。
「ええ、ええ、仰りたいことはとても分かります」
メモを取る僕の隣で、営業のトニムラはにこやかに彼女の言葉に相槌を打ちながら会話を進めていく。だが、鼈甲の洒落た丸眼鏡に隠れた目はこれっぽっちも笑っていない。
彼は、これから彼女自身に起こるであろう挫折を冷静に分析し、その後の自分に起こる対処を想定して動こうとしている。
トレンド感が必要なのは十二分に分かった。後はクライアントの彼女が好む要素と、会社の色さえ分かれば、十分成立するだろう。判断者は彼女ではなく、その先に待つ上層部の承認だ。十中八九彼女の要素は最終的にほぼ断ち消え、その時に割を食うのはこちら側だ。
ミーティングが始まる前に、多分二つラフを上げてもらうことになると思いますと彼は言っていた。明確な話は聞いていないが、どちらがダミーかは流石の僕にも理解ができた。
滅多にあるわけではないが、営業と同席する機会で僕は、できるだけ黙りすぎないよう一言二言くらいは会話するようにしている。第三者の、それもクリエイター目線の言葉が入るとクライアントの信頼にもつながることが多々あるからだ。
だが、トニムラに同行する時は基本黙って聞き役に徹するようにしている。
彼は自分のペースを邪魔されるのを嫌うし、自分の領分に踏み込まれるのを嫌う。恐らく今日僕を連れてやってきたのは、相手のタイプを考えてのことだろう。
営業を中継役とか、そういう考え方をしていると判断したタイプにはこれが一番良いのだと、以前彼は言っていた。
実際彼女はよく僕に視線を向けて喋る。ほとんど応対しているのはトニムラなのに、要所を抜き取ってメモに残していく僕に向けて彼女は要望を並べている。 なるほど彼の目論見通りだ。
打ち合わせは時間ぴったりに終わり、クライアントも想いを伝え切って満足したのか、朗らかな顔で帰って行った。
○
「ヨドノさん、無理言ってすみませんでした」
車に戻ると彼はエンジンを掛けながらそう言った。そして起動したカーナビとスマホを接続し、住所を登録していく。会話とは裏腹に迷いなく打ち込まれていく次のアポイント先を眺めていた僕は、にこやかに笑って座席に体を埋めた。
「気にしないで。外に出るのが嫌なわけじゃないから」
「良かったです。ほら、うちのクリエイティブって対面嫌うから。まあ、在宅できるって言って採ってるからそういうタイプが集まりますよね」
「まあね」
彼はアクセルを踏み込み、出発する。途中の道で先ほどのクライアントが歩いている姿が見えたが、彼は一瞥もせず次の目的地へ向かう。一瞬彼女と目が合った気がしたが、気のせいだと思うことにする。
「今日のとこ、俺が何年も担当しているんです。で、最近新しく配属してきた子に代わったんですよ。まあそれは別に良いんですけど、全く噛み合わなくて」
「まあ、あれだけフレッシュだとね、トニムラとは真逆だだろうし」
「いや、まあ、そういうのは仕方ないんですよ。自分も営業なんで担当交代なんてよくあることだし、タイプを変えないといけないのなんて日常茶飯事ですから」
でも、ああいうのはちょっと違うんと思うんですよ、と彼は不満げに言葉を漏らす。正面の信号が黄色になったのを見て彼はゆるやかにブレーキをかけ始める。恐らくアクセルを踏んでも十分に抜けられるくらいのタイミングだったが、こういう時、彼は迷わずブレーキを選ぶ。
「彼女、あの会社の特長とか、環境に惹かれて本当に入ってきたんですよね?」
「まあ、そうじゃなかったら選ばないだろうね」
「目先のトレンド感に寄った言葉しか言わないの、おかしいですよ。あの会社がどんな売り方をしてきたのか、どんなやり方で今までを積み重ねてきたのか。そういうのって会社に歴史があれば、必ずある筈じゃないですか、それが今日、一言も出てこなかったのが少しショックで」
信号が青になって、彼がゆっくりとアクセルをかける。滑るように滑らかな走り出しと対比して、彼の口調は次第に熱くなっていく。
「前任者も浮かばれないですよ、あんなの」
「新しい空気なんて得てしてそういうものでしょ。会社のネームバリューに憧れて入ったんじゃなくて、そのネームバリューを背にして色々やれると思っている人は結構いるからね。虎の威を借る狐みたいな」
僕の言葉に彼は頷く。環境の良さを求めてやってきた筈なのに、その環境を変えたがることは、果たして正解なのだろうか。彼の言葉はようするにそういうことだ。
リスペクトの下に行われる破壊と再生と、ただの破壊は違う。理由なく破壊された破片たちをただ集めたって歪になっていくだけだ。
昔からよく言われる「守破離」とはよく言ったものなのかもしれない。基礎を固め、新しいものを取り入れて独自に昇華させていく。そうやって新しさは生まれてきたのだから。
今回のクライアントには、残念ながらその「守」が無かった。
彼はそう嘆いていた。
「うちの窓の外さ、出来たばかりの分譲住宅が見えるんだよ」
「分譲住宅ですか?」
「そう、それなりの世帯が一気に入って、色々変わるかな、なんて思ってたんだけどそんなことまるでなくて、今も退屈な街なんだけど」
「はあ」
彼はなんとも言えない返事を漏らす。僕は構わずに喋り続ける。
「何かが変わるんだと思ったんだ。それなりの数の人が生活圏に入ることで、窓の外から見える景色も、街の空気も、これまでと少し変わるんじゃないかって」
−−グレートマイグレーション。
ミシマの口にした言葉が脳裏をよぎる。
何かを変える為ではなく、生きるために、危険と隣り合わせの中をただひたすらに歩き続ける、まさしく命をかけた野生動物たちの大移動。
「トニムラみたいに、実績や想いを引き継ぐ人間もいれば、生きる為に、生きられる環境を探し求める人もいる。今日の彼女は後者だろうね。自分が生きるためであって、環境にリスペクトする余裕なんてない」
僕の言葉を聞いて、トニムラは座席に深く座ってアクセルを踏み込んだ。そういうもんですかね、と呟きながら、どこか寂しそうな彼の眼鏡の奥の目に向けて、そういうものだよと僕は返す。
「俺も、いつかはそうなっちゃうんですかね」
「トニムラが?」
「俺だって生活の為に仕事してますから。今はまだ若いから好き勝手できますけど、いつかは家庭持ったりするかもしれない。そうなったら、僕も適応することを選ぶんですかね」
「まあ、あんまりそうなった姿は想像できないけどね」
茶化さないでくださいよと彼はムッとする。素直な彼の言葉に思わず僕は笑ってしまう。悪かった悪かったと謝ってみたが、すっかり臍を曲げてしまったようで、彼は口元をきゅっと結んだまま運転に集中してしまった。
僕は窓の外の景色に目を向ける。
車は関内駅を過ぎて、大岡川を渡り、新横浜通りをまっすぐに突き進んでいく。横浜駅に近づくに連れ街は先ほどとは別の意味で賑わってくる。観光客、ビジネスマン、近所の住民、講義をサボった学生。
彼らもまた、生きる上でより良い環境を目指してこの街にやってきたのだろうか。
「ヨドノさんって、そろそろ結婚とかないんですか?」
突然口を開いたトニムラの言葉に僕は少しの間、言葉が出せなかった。
「どうして?」
一呼吸おいてようやく出た言葉に、彼は少し戸惑ったようだった。
「いや、同棲してもう結構長いみたいなこと言っていたじゃないですか。だからそういうの無いのかなって思ったんで」
「踏み込んじゃまずかったですか?」
「いや、変な空気にして悪かったね」
僕はそう言って口角を上げて笑顔を浮かべてみせたが、彼はすっかり地雷を踏んでしまったと思っている様子だった。
実際彼の思うような深刻さはないし、ミシマとの関係も良好だ。ただ、その良好という言葉が果たして、彼の指すような良好かと言えば、少し微妙なところだった。
「僕と彼女は……なんだろうね、さっき僕が言ったような関係なのかもね」
「言ったことですか?」
僕は頷く。
「生きる為に今一番ちょうど良いのが、この場所だっただけなんだよ、僕も彼女も」
○
帰宅するとガスと電気メーターが回っていた。
ミシマの方が先に帰ってきたらしい。外出とはいえそこまで長居をしたつもりはないのだが、それでもミシマの帰宅時間には勝てなかった。
鍵を開けて玄関に足を踏み入れると、出汁と醤油の混ざり合った柔らかで甘い匂いがふわりと広がった。
「あ、シュウくんおかえり」
キッチンでミシマがうどんを茹でていた。
狭いスペースをうまく使って薬味と薄く切り落とした鴨肉を並べ、一つ一つを順番に鍋の中に落としていく。時折だし汁の味を確かめながら細かく調味料を足していく。
「今日は、鴨葱うどん」
手際の良い調理の合間で、彼女は朗らかな声でそう言った。
「夕飯の支度助かるよ、ありがとう」
火のかかった鍋を見つめる彼女の頭を僕は撫でた。
きちんと手入れされたセミロングの髪の間に指を滑らせると、ほのかに柔らかな香りがした。彼女のいつも使っているシャンプーの匂いだ。頭を撫でられた彼女はくすぐったように身を捩らせ、振り向くと僕の頬を指で突く。
「もうすぐ出来るから、待っててね」
「ありがとう」
彼女の横を通り抜けて、僕は部屋のテーブルを見る。使われた形跡はない。すぐそばのゴミ箱にも、いつも彼女が飲んでいるレモンサワーの缶は見当たらなかった。
どうやら今日は我慢できたようだ。僕は安心して荷物を置くとベッドに転がる。
ヤサカと会えなかった日に酒を飲むと彼女は荒れる。それが僕を責めるような、他人に対して攻撃的になるものなら良いのだが、彼女の場合は、自責にかられ、罰を求めるように僕に縋る。
酔いに任せた夜はいつも最悪だった。何度かそういうことがあって、彼女の自罰行為に耐えかねた僕は、これから共同生活をする上での約束に「ヤサカと会えなかった次の日は断酒する」ことを追加した。
幸い、今のところそれはしっかりと守られているようだった。
「シュウくん、今日も仕事大変だったね」
「そんなことないよ、ミシマだって疲れただろ」
ありがと、と彼女はにっこり笑い、それから出来上がった鴨葱うどんを器に流し込む。ローテーブルにクロスを置き、僕たちは向かい合うように座る。彼女が用意したうどんは、甘い出汁と鴨肉の香ばしさを漂わせている。
「鴨肉食べてないな、と思って買っちゃったんだ」
「なかなか食べる機会もないでしょ」
「そう、だから敢えて食べようかなって」
敢えて、の意味は分からなかったが、僕は特にそれに触れることもなく、両手を合わせる。彼女は僕の仕草を見て微笑むと、同じように両手を合わせて目を閉じる。目を閉じた彼女を見届けて、僕も目を閉じた。
「いただきます」
「いただきます」
二人の言葉が部屋に響く。
目を開けると、湯気を蓄えたどんぶりと、にっこりと笑う彼女が見えた。
その笑顔があまりにも痛々しくて、僕は箸を手に取り、食事を始めた。
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