4.ガラス玉の顛末


 ヨドノ君って、無害そうな感じがいいよね。


 この評価は、今も変わることなく僕の傍をついて回り、ある意味では好意的に、ある意味ではレッテルのように機能していた。


 親が二人とも真面目で、堅実な性格だったこともあるのだろう。

 教育も性格と同じように丁寧で、ガラス玉でも扱うかのように、ヒビを入れないように、輝きを曇らせないようにと育てられた。それ故に世の中に馴染んでいくには少し純度が高すぎた。

 小・中学生くらいの学友たちはこの純度の高さに特に敏感で、思春期を迎えた男子グループの性に対する話題でも「お前にはまだ早い」と蚊帳の外にされることが多かった。


 成長していく異性の体つきに対する興味はあったし、友人だったものがお互い何か別の関係に変わっていくという、これまでとは違った関係性への羨望も勿論あった。けれども、その経験にたどり着くには、僕にはクリアすべき壁が多かったのだ。

 そのせいで、僕の恋愛経験は随分と遅れた。その分仲の良かった女子は多かったし、学生として過ごす上で不便はなかったけれども。告白は一度も成功したことがなかった。

 僕の告白を断る理由によく言われたのは「そういう目で見ていなかった」「良い友人だと思っていた」という言葉だ。

 果たして彼女たちの目に僕という存在はどのように映っていたのだろう。もう少し粗雑で、性別の壁を感じさせるような、異性を感じさせるようなアピールをすべきだっただろうか。


 大学に上がって、ようやくその呪縛から解き放たれた今も、当時の自分の異性との関係性について思い出すことがあるくらいだから、それなりにトラウマのようにはなっているのだろう。


 分かっている。今隣で笑っている彼女からしたら他愛のない話だ。

 それでも僕はこの言葉を言われた途端に、彼女とは一生ないと諦めてしまう。

 彼女の発言で醒めてしまった僕は、そこそこのところで切り上げて帰ろうと思い、レモンサワーの残りを飲み干そうとグラスを手に取る。


「いや、無害そうな奴ほど案外だろ」


 顔を上げると、そこにはヤサカがいた。

 十数人が騒ぐ飲み会の、それも対角線上に座っていたはずなのに、いつの間にか彼は僕たちの向かいにいた。


「お前も何をそんなおっしゃる通り無害ですから安心してくださいね、なんて顔してるんだよ。言われっぱなしでいいのか?」

「え、あ、いや、別に言わせておけばいいから」

「言わせておけば、って?」


 一緒に動揺していた筈の彼女は、その言葉ですっかり気分を害したようだった。もうここからどう弁解しようと意味はないだろう。でも、元はと言えば話しかけてきたのは彼女だ。草食動物のような存在を見つけて、傷つけられることも、食われてしまう可能性もない存在を肴に自尊心とリキュールでできた酒を飲んでいただけだ。


 ちらりとヤサカを見ると、彼はニヤニヤと僕を見て笑っていた。この光景を明らかに楽しんでいる彼の姿を見て、今目の前で起きている出来事が全てどうでも良くなった。

 この日の当たり障りのないやりとりが、果たして将来何に変わるだろう。それならいっそめちゃくちゃにしてしまった方が、まだ気が晴れる。

 僕は飲み慣れていないレモンサワーを一気に飲み干し、意を決してヤサカに向かって言った。


「あのさあ、油断させないと食うものも食えないでしょ」


 その時の僕の精一杯の言葉と、完全に気分を害した相手との顛末を、ヤサカは今でも酒を飲むたびに弄ってくる。僕としては二度と触れられたくない話題だったが、彼はそれも含めて敢えて話題に出してくるのでタチが悪い。


 まあ、良かったことと言えば、この時の破れかぶれの一言を口にしていなかったら、ヤサカとは悪友になれていなかったかもしれない。そういう意味では、僕にとっては貴重な出来事だった。


 これが、僕とヤサカとの初めての出会いだ。


   ○


「あー、やっぱりこの話好きだわ」

「そんな言うほどかな?」


 隣で涙が出るほど笑うミシマを見ながら、僕はハイボールを呷る。

 もう何度目か分からない僕とヤシマの出会いの顛末を肴に、彼女は自分のグラスにレモンサワーを継ぎ足して美味しそうに半分ほど飲み、つまみの明太子の燻製を口の中に放り入れてむぐむぐと満足そうに食べている。

 先日ヤサカが出張帰りに立ち寄って置いていった土産を彼女はいたく喜び、急遽昼下がりから酒盛りは始まった。


「だってさ、売り言葉に買い言葉だったとしても、食うものも食えないなんて、そうそう出てこないもの」

「そんなこと言ったって、パッと思いついたのがそれなんだから仕方ないだろ」

「あー、面白い。やっぱりシュウ君はここぞって時にやってくれるね、それで結局女の子怒らせて帰っちゃって、リョウくんと連絡先交換して終わったところも含めて好き」

「そりゃそうでしょ、こんなので持ち帰れるわけないよ」


 ミシマはひとしきり笑ったあと、二口目でレモンサワーを空にした。


「えー、私はアリなんだけどなあ」

「それは、今の関係があるからでしょ」

「えー、そうかな」


 そうよ、とミシマは僕の背後に移動すると、後ろから手を回して僕を抱く。

 白くて細い日本の腕は、陶器みたいに滑らかで、少しでも力を入れたらあっという間に亀裂でも入ってしまいそうだ。

 首筋に彼女の頬が触れる。アルコールが入って少し上気した温かな肌の感触が、じわりと僕の輪郭を滲ませる。


「シュウ君、本当に優しいしねえ」

「どうして?」


「だってさ、私のこと、壊さないじゃん」


 そう言って彼女は僕の首に思い切り両手を絡ませた。すきあり、と笑う背後の彼女からレモンのほろ苦い香りが漂う。喉元にぎゅっと彼女の二の腕が触れるたびにうまく息が吸えなくなって、僕は無我夢中で彼女の両腕に手をかけて抵抗する。


 この細腕のどこにそんな力があるのだろう。しっかりと固定された腕はびくともしなくて、僕は酸素を求めて必死にもがく。


「ちょっと、ミシマ、息が、できない」

「優しいけどさ、優しいばっかりでいると、いつかこうやって簡単に殺されちゃうよ。壊すのが好きな人だって世の中たくさんいるんだから」

「なに、言ってるんだよ、やめろよ、苦しいから」



「やめて欲しかったら、下の名前で呼んで」



 その声を聞いて、僕は彼女の両腕を力づくで引き剥がし、咳き込みながら振り返る。ミシマは、振り払われた両手を振りながら、諦めの色が滲んだ笑みを浮かべた後、肩をすくめてから僕の肩を足で軽く蹴る。


「この無害オトコめ」


 彼女のその言葉に、僕は何も言えなかった。


 彼女はベッドに腰掛け、窓の外に目を向ける。部屋をあっという間に埋め尽くした静謐さの中を、子供の無邪気な笑い声が泳ぎ去っていく。登下校の時刻になって、あの向かいの分譲地に住む子供たちが帰ってきたようだった。


「なんてね」


 彼女はそう言っておどけて見せると、ベッドにごろりと横たわった。首を絞められたことと、彼女が口にした一言が静寂と一緒に溶けていくと、気持ちが緩んだのか、恥ずかしいくらい大きな音でお腹が鳴った。

 彼女はそれを聞いて吹き出すように笑うと、ご飯にしようか、と言った。


「つまみばっかりだったし、ご飯にしよう。今日はシュウ君作ってね」


 彼女に言われるがままに僕はキッチンへと向かう。ミシマは僕の後ろにぴったりとついてくる。彼女は僕の腹に手を回し、シャツの下の素肌を撫で回す。

 恐らく、最後の一言を今になって後悔しているのだろう。


 酔いが回って、嫌なことを一つ一つ思い出していって、やがてヤサカに会えなかった日のことを思い出し、そして最後に、未だに壁のある僕に苛立ったのだと思う。


 ミシマは何も悪くない。悪いのは僕だ。

 最悪の環境を少しでも抜け出したくて、やっと辿り着いた最果てが僕なのに、その僕の中にまだ壁がある。何年も順調な関係を続けているのにも関わらず。

 彼女からしたらたまったものではないだろう。


 いつかはミシマと溶けて混ざりたい。そう思っているのだけれども、やっぱり未だに僕はミシマと溶け合う勇気が出ないでいた。


 ヤサカと、ミシマの間に起きたこと。


 ヤサカと、僕の間に起きたこと。 


 そして、ミシマと僕が出会ったこと。


 それら一つ一つがちゃんと解消されない限り、僕たちの関係は整理できるものではない。そんな思いが、今も僕とミシマの関係を邪魔している。


「ねえ、ミシマ」

「なあに?」


 彼女は見上げるように顔を上げる。丸くて、柔らかな印象を感じさせる彼女の顔立ちを見て、僕はそっとその頬を撫でた。彼女はくすぐったそうにしたが、抵抗はしない。


「冷凍庫にさ、鰹のたたきがあるよ。少し解凍する時間がかかるけど、それにしよう。ついでにもうちょっと飲もう」

「賛成」


 彼女は嬉しそうに頷き、僕の元を離れてベッドに飛び込んでいった。いつの間に冷蔵庫から補充したのだろうか。既にレモンサワーの缶を右手に持っている彼女を見て、僕はなんだかおかしくなって笑った。


 こんな煮え切らない僕を愛してくれるミシマのことが、僕は好きだった。

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