5.化粧
「明日泊まりだから、よろしくね」
焼きたてのトーストと目玉焼きを僕の前に置きながら、ミシマは言った。
大きな店外催事の応援が決まったらしい。
レストランとその付近の大きな宴会場を使って開かれるイベントに彼女の上顧客が来るのだという。普段は催事ごとを嫌う客が今回はやけに乗り気とのことで、結果彼女が二日間アテンドして回ることが決まった。
ミシマの顔を見ると、目元がよりくっきりと、はっきりとしたものになっている。カラーコンタクトを入れて瞳の縁取りをして、化粧も普段に比べて陰影を深くくっきりと付けている。ゆるやかに巻かれた髪が、彼女の仕草一つに対してふわりと肩の辺りで柔らかく揺れている。
いつもは気楽に過ごせるからと眼鏡姿でいたいと言っている彼女が、わざわざカラーコンタクトを入れている。デートの時も、外出の時も、常に自分が楽で、一番好きな姿でいたいと言っている彼女が、ここまで外向けの服装に身を固めていると、なんだか夢を見ているような気分になった。
「お客さん、大きい買いものがありそうなの?」
「そんな筈ないんだけどね。別に引き合いも無いし、お付き合いで買うにしてもそんな高額をパッと決めるタイプでもないから。それにイガラシさん、パーティなんて大嫌いだっていつも言ってたんだけどな」
そう言って彼女は不思議そうに首を傾げている。いまいち今回の呼び出しが腑に落ちていない彼女を横目に、僕はトーストを一口齧った。
ミシマはジュエリーショップのスタッフをしている。
家からバスで十五分ほどの中規模くらいのショッピングモールまで出勤し、そこで一日を過ごす。冷やかしが殆どの中で購買意欲を感じる客を見つけ、いかに気持ちを乗らせるかが勝負の世界だと彼女はいつも言う。仕事に嫌気が差したり、向いていないと自信を失って退職か異動か、人員の増減が激しく、人の入れ替わりも激しいそうだ。
そんなノルマ重視の厳しい職場だが、案外ミシマはその仕事が合っているようで、彼女から仕事の愚痴を聞いたことはほとんどない。
「イガラシさんって、どんな人?」
「女の人。孫がいるんだったかな。結構高齢だけど気のいい人なんだけど、昔色々あったらしくて、人間関係はすごく絞ってる人。ちょっとした娘娘みたいに思ってもらってるみたいで、よく遊びに来てくれるんだよね」
彼女の飄々とした様子と、その風貌からは想像できない丁寧で細やかな気配りと程よい距離感を保ってくれる会話にファンも多いようで、わざわざ彼女の出勤状況を事前確認してくる客もいるそうだ。彼女の言うイガラシという女性も、その一人なのだろう。
不安定なシフト勤務ながらもノルマからルーチンワークからそつなくこなし、残業もせず、日々ブレのない生活を送っている。
彼女曰くシフト勤務の都合の合わせづらさから人間関係の悩みも多かったようだが、週の大半を在宅ワークで過ごし、家でのんびり過ごすことを好む僕とは、色々と合致しているようで、今のところ大きな諍いは発生していない。
「ミシマって、そんな大きなお客持ってるんだ」
「あ、シュウ君私のこと馬鹿にしてる」
「いや、滅多にそういうイベントに行くことが無かったからさ」
彼女の言葉に慌てて首を振ると、ミシマは冗談だよと笑みを浮かべた。
ストッキングに足を通し、ネイビーのスカートとジャケットを身につけて、すっかり臨戦体制となったミシマの姿を見て、僕は思わず深く息を吐いた。
「私、人と話すのは好きだけど、人の多いところは苦手でしょう。お客さんもそういうところに共感してくれる人が多いみたいで、だからか誘っても食いつき悪いんだよね」
「波長が合うんだ」
「確かに、そうかも」
ミシマは嬉しそうに頷く。
「そういえば、シュウ君に仕事の時の服装見せたことなかったっけ」
「ここまでちゃんとしてるのは初めてかな」
「どう? 素敵?」
ミシマは僕の前で次々とポーズを取る。白くて細い身体に、白いブラウスとネイビーのジャケットとスカートの組み合わせはとても似合っていた。ブルーベースを意識した化粧の作り方も見事で、僕には彼女が何か別の、ミシマではない誰かのように感じられた。
どこまでも作り込まれた完璧な女性。
それが今僕の目の前に立っている。
「とても綺麗だよ」
「ほんと? 嬉しい」
「うん、すごく綺麗だ」
ミシマは小さな歩幅で小走りに駆け寄ってくると、しゃがみ込んで僕にキスをする。唇が触れるくらいの淡い一瞬のものだったけれど、彼女の機嫌の良さはその一瞬だけで十分に伝わった。
「見送るのがなんだか、惜しいね」
「じゃあ今度デートする時は、これくらい完璧にしてあげようか?」
「緊張してうまく話せないかも」
「その時は私がエスコートしてあげるよ」
ミシマはそう言ってにっこりと笑った。
それから時間を見てスマホと鞄を手に取り、最後に浴室の鏡で全身を確認すると、玄関へ向かっていく。棚の奥に眠っていた靴箱から催事用のハイヒールを取り出して、一つ一つにきめ細やかなストッキングに包まれた足を入れていく。光沢のある黒が玄関の白熱灯に照らされて、柔らかな灯りを浴びて光っている。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、気をつけて」
一瞬、彼女が何かを待っているような気がしたが、僕がその理由に気がついた頃には彼女の気持ちはすっかり切り替わっていて、外行きの清廉さのある笑みを浮かべて手を振り、ミシマは出かけていった。
扉が閉まって、僕はしばらく玄関を見つめ続けていた。
一人残った僕のことを忘れたように、玄関の灯りがスッと落ちるまで、ずっと。
○
いつも通り在宅の中で溜まった仕事をこなしていく。
いつも通りメールをチェックして、ラフ案を営業担当者に送り、製品にデザインを起こすものについてはモックアップを作成していく。客先から受けた遠慮のない要望を見て修正作業を進め、新規案件の連絡に対して自分のキャパシティと量感を見てスケジュール返答を行う。
何一つとして変わりのない日々だ。デザインが想像できない、とか上手く組めないみたいなスランプもなければ、キャパオーバーの不安もないし、修正案件も簡易的で、クライアントも、営業も概ね想像した通りのものだと満足してもらえている。
いつも通りで、何も問題はない。
でも、ひどく不安が胸の中に残っている。
空腹のように胸の内側が空虚で、軽い炎症のような、しびれやむず痒さにも似た曖昧模糊とした不安がずっと僕の心を蝕んでいる。
作業をこなしていても、電話で人当たりよく話していても、空腹を感じて昼食を取っても、僕の胸は寂しさを訴え、脳裏には玄関先で別れを告げるミシマの姿が浮かぶ。何かを待って、そして諦めたような瞬きのようなあの一瞬の表情の切り替わりがずっと忘れられない。
完成したデータをクラウドに更新したタイミングで僕はベッドに身体を投げ打った。
今日、出かけていった彼女はとても綺麗だった。彼女はいつもこっちの方が気が楽だと言って、リラックスした服装をしていただけれど、本当は、ああやって自分を着飾るのが好きなのではないだろうか。
下地の塗り方からファンデーション、アイメイク。予め決められたルートがあるかのように迷いない化粧の様子、幾つも折り重なった化粧品の箱から、一度も間違えることなく手に取り、肌に色を乗せていく。その様子を横で眺めながら、彼女の本当はどちらなのだろう、と一瞬分からなくなった。
『ヤサカマサト』の前では、彼女はどっちだったのだろう。
浮かんだ疑問を振り払うように僕は首を振り、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。冷たい水を喉に感じて、ようやく自分がひどく水を欲していたことに気がついた。二リットルの水を一気に飲み終えた後、洗面所で顔を洗い、部屋に戻ると時計に目を向ける。
定時まであと一時間ほどだ。幸いなことに急な案件の連絡もない。
せっかくミシマがいないのだから、一人でのんびりすることも悪くないだろう。たまには一人で外食でもしてみたら、この気持ちも紛れるかもしれない。
仕事終わりの外出を決め、僕は再びラップトップの前に座ると、仕事を再開する。
彼女は今、商談の真っ最中だろうか。わざわざ一人の顧客を二日間もアテンドするということは、会社にも期待されているのだろう。それくらい会社からすれば著名な人物なのかもしれない。
僕は出かける間際に一瞬だけ垣間見た彼女の何かを期待するような目を思い出す。あの時すべきだった正解を僕ははっきりと分かっていた筈だ。でもそれができなかった。今になってあの一瞬のしくじりが胸の奥でささくれになっていた。
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