6.金色のペンダント


 車体の強い揺れを感じて、閉じていた目を開けた。

 降りる予定のバス停まで、あと一つのところで目が覚めたらしい。家を出てまだたった十五分だというのに、いつの間にか寝てしまっていたようだ。


 一瞬だけ訪れた深い眠りのせいか、身体に疲労感が張り付くように残っていた。寄りかかっていた窓から剥がすように顔を上げて隣を見ると、小学生くらいの少年が黙々とタブレットでゲームをしていた。反対側の席に座る子連れの一人があぶれたのだろう。横で眠る僕に目をくれることもなく、彼はずっと液晶画面に夢中だ。


 隣に座る少年を見てひどくがっかりしている自分に気がついて、ようやく僕は隣に誰が座っていて欲しかったのか、そしてどんな言葉を想像し、求めていたのかに気が付いた。


 この一瞬で寝るなんて、夜更かしのしすぎじゃない、なんて。


 そうやってからかうように僕を笑う彼女が帰ってくるまで、まだ一日以上ある。


「次は--」


 アナウンスと共に電光板に表示されたバス停を見て、僕は停車ボタンに手を伸ばす。すると少年が左手を伸ばし、僕をの目の前を横切るとそのまま割り込むようにボタンを押した。隣の席に座る母親が強めの口調で叱っているが、少年は知らん顔のままゲームに戻っていった。

 そのふてぶてしさに少し呆れ、同時に羨ましくもなった。誰の目も評価も気にしない、自分が圧倒的な何かであると確信したその姿勢は、今の僕が持ち得ないもので、この先も持つことのできないものだったから。



 バスを降りて顔を上げると、広大なモール施設がすぐ目の前に広がっていた。規模感で言えば中くらいで、大したことなんてないとミシマは言っていたが、それでも十分なサイズだ。余裕を持って設置された立体駐車場は、平日だというのに満車赤いランプを表示している。


 中に入って情報過多に陥りそうな乱雑さで立ち並ぶテナントを通り過ぎ、壁面に取り付けられたタッチ式のマップを覗き込む。マップにはファッション、食品、カフェ、飲食店、インテリアなどのテナントがざっくりとした色付けでカテゴリ分けされていた。

 現在地点から指差しでミシマの働いているジュエリーショップを見つけ、ルートを頭に入れると僕は再び歩き出した。


 ミシマがいない日だからこそ、ミシマとは行くことのできない場所に行ってみようと思い、頭にまず浮かんだのが職場だった。こんなことをしていると知ったら彼女は不快に感じるかもしれない。それでも僕はこの得体の知れない衝動を抑えることができなかった。


彼女の働くこの商業施設に、一度だけ行きたいと言ったことがあった。今とは違って、純粋に行ってみたくて提案したのだが、ミシマはそれをとても嫌がった。

 これだけ広い空間なら、店員と恋人が私服で紛れていたって案外気づかなそうなものだが、やはり実際に働いている人間でないと分からないこともあるのだろう。


 行き交う人の流れを乱さないように、僕は流れを見極めて歩き始める。群れの中に混ざって歩いていく姿は、さながら大移動する動物の群れのようで、僕はまた彼女の教えてくれた言葉を思い出した。グレート・マイグレーション。


 群れの中にいるということは、こんなにも障壁がないものなのだろうか。他愛のない話をしながら歩く家族の群れ、カフェの新作ドリンクを手にデートを楽しむ女子高生の群れ、付き合ったばかりのような、手が触れるか触れないかのあどけない距離感で歩く男女。どれもが個々の集まりで、その集まりがまた同じ方向に進むことで群れになる。それぞれの安寧の為、不安を溶かす為に、孤独に放り出されることを彼らは必死に防いでいる。


 なら、僕はどうだろう。


 今、こうして歩く僕は、この多種多様な人群れの中で、果たして群れの一部となれているだろうか。


「シュウくんは、そういうのじゃないでしょ」


 僕は思わず振り返る。振り返った先に、聞き馴染んだ彼女の姿はなかった。

 いつか彼女の言った言葉が聞こえたように感じただけだった。

 再び前を向いて、僕は歩き始める。


 僕は見てみたかった。リョウですら見たことのない彼女の痕跡を。

 『ヤサカマサト』が見ていたかもしれない彼女の姿を、一欠片だけでもいいから。


   ○


 彼女の働く店は、想像より小さくて狭かった。


 宝石やアクセサリーを売る店といえば、質の良いカーペットが敷かれていて、美術展示品のように高額な商品が置かれていて、玄関には厳重な扉やドアマンのような存在がいる。

 足を踏み入れることすら躊躇いそうな程、敷居が高いイメージだったが、彼女の働く店からはそんな高貴さからは程遠く、どちらかというとアクセサリーショップに近い印象だった。


 壁面に沿って並ぶコの字型のショーケースと、中央は離島のように小さなショーケースが敷き詰められ、さらに中央のケースの上に低価格帯のピアスやペンダントが無造作にぶら下がっている。


 流石に不用心過ぎやしないかと思うが、ちょっとしたアクセサリーはこの方が客寄せにもなるのだろう。勿論、それなりの価格のものはショーケースにしまわれ、鍵で施錠されている。ただ、それでもショーケースの中は店員の手製のポップキャプションや造花で彩られており、その雑多さがまた僕にはギャップだった。


 手前のの商品を見るふりをしながら奥に目を向けると、高齢の女性が背中を丸くして店員と他愛のない話を繰り広げているのが見えた。それぞれの口ぶりを見るに常連なのだろう。店員の女性は時折トレーに置かれた商品を入れ替え、試着させながらも決して購入を促すことはなく雑談を続け、思い出したかのように試着した宝飾品を見て喜ぶ女性に同調し、彼女を喜ばせていた。


 ミシマもあの女性店員と同じように接客して、商品を売っているのだろうか。

 時折砕けた口調で友人のように話しかけ、笑いながらも目の前の客に費用的にも身なり的にもぴったり合う商品を探っていく。そんな細やかな気遣いと根気のいる接客を。


 あれだけ飄々と、奔放に日々を過ごす彼女がここに立っているということが、僕にはまだ信じられなかった。


「もしかして、お相手の誕生日とかですか?」


 ショーケース前に立っていると、若い女性店員に声をかけられた。

 接客を続ける奥の女性がさりげなく呼んだのだろう。裏から出てきた彼女は身を屈めて僕の顔を覗き込むように見つめ、微笑んだ。


「ペンダントをずっと見てらしたので、何か贈り物かなと思いまして」

「えっと、そうですね……すこし悩んでいて」


 どう返すべきか考えた末に、彼女の言葉に乗ることが一番楽だと気がついて、僕は同調するようにそう言葉を返した。どうせ他愛もない話だ。適当に探すふりをして、どこかのタイミングで離れればいいだけだ。

 僕の言葉に彼女は笑みを浮かべ、慣れた手つきで腰に巻いたポーチから小さな鍵を取り出し、僕が覗き込んでいたショーケースに鍵を差し込む。


「彼女さんは普段どんなものを身につけられているんですか」

「いや、実はあまり彼女がアクセサリーをしているところを見たことがなくて」

「じゃあ、贈るのも初めてなんですね、きっと彼女さん、喜ばれますよ」


 そう言ってにっこり笑うと、店員はショーケースの中からペンダントを数本取り出し、ジュエリートレーの上に並べた。とても洗練された無駄のない動きで整然と並べられたジュエリーは、途端にその高貴さを取り戻したように輝き始める。シルバーと、赤みがかった金色と、純粋な金色の3色。どれも中央にはワンポイントの小さなダイヤモンドが付いている。


「普段着ている服とか、色の好みはわかりますか?」

「普段は丸い眼鏡をかけてます。アルミフレームっぽいやつを。髪は、少し茶色っぽい黒ですかね。服は……どうだろう。ナチュラルな色合いを着ていることが多いかもしれないです」


 僕の頭の中に浮かべた「僕と普段いる時のミシマの姿」を、できるだけシンプルに伝えた。

 不意に、今朝出かけて行った彼女の姿が脳裏をよぎる。これまでのどんな彼女よりもはっきりと、鮮明に思い出せた。彼女の首にはシルバーの色がとても似合う気がした。

 一瞬よぎった彼女の姿を振り切るように僕は普段の彼女を思い出し、それから金色のペンダントを指差した。


「あの、これっていくらですか?」


   ○


 衝動的、という言葉で片付けるには、少し高い買い物だった。

 目の前でラッピングの準備を進める店員を横目に、僕はたった今切ったばかりのクレジットカードを見つめる。貯金はあるし、そもそも普段から出費がないタイプだから、そこまで貯蓄のダメージはないが、それでも衝動的すぎやしないだろうかと思う。


 果たしてこれを渡した時、彼女はどう思うだろう。こっそりとプレゼントを買うならともかく、彼女が働いている職場で、それも彼女のいないタイミングを狙って訪問している。

 自分の店先に並んでいる商品のことなら彼女はすぐに分かるだろう。品質や、言ってしまえば原価だって。


 馬鹿なことするなあ、シュウ君は、と僕が想像するミシマは呆れた顔をしている。


「不安ですか?」

「え」


 目の前で丁寧にジュエリーボックスをラッピングしていく彼女の突然の言葉に、僕は素っ頓狂な声で返してしまった。彼女は柔和な笑みを見せると、話を続けた。


「男性の方って、皆さんプレゼントを買う時とっても不安にされるんです。本当に受け取ってもらえるのかな、身に着けてもらえるのかなって。でもそれって、裏を返せば相手の方の好みとか、受け取り方を熟知しているからだと思うんです」

「熟知、ですか」


 女性店員は頷く。


「相手の方のことを深く知りたがらないと、不安になんてならないですよ。その人の為に贈りたい。でも自分の知っている姿が彼女の本質なのかが分からない。だから不安になるんです。ヨドノ様の今抱えている不安は、とても素敵で、美しいものだと私は思います」


 そう言って微笑む彼女を見て、胸の内に溜まった何かがほんの少し解けていくのを感じた。彼女の言葉は、購入を躊躇う人のブレーキを外す為の学びなのかもしれない。そんな穿った考えを抱きながらも、同時に、少なくとも今の僕には、とても響く言葉で、ホッとしている自分がいるのも確かだった。


「うまく渡せたらいいな」

「大丈夫です、きっとうまくいきますよ」


 いっそ、思い切ってこのプレゼントを渡してみてもいいかもしれない。

 呆れられてもいいし、本人に責められてもいい。それでも最終的に一度でも身につけてもらえたら、僕は嬉しい。

 隣でいつも笑ってくれる彼女が着けていそうなペンダントを選んだのだから。



「ミシマさん、明日のイガラシさんのアテンドはさせない方がいいと思います」



 不意に聞こえた名前に僕は思わず目を向けた。


 先ほどまで高齢の女性と話していた女性店員と、もう一人の店員が曇った顔で会話をしている。曇った顔の女性は、ミシマが今朝出かけて行った時のようなジャケット姿をしていた。イベントでのミシマの異変を報告するため、慌てて店先に戻ってきたようだった。


「本人は大丈夫だと言ってますが、結構強い紹介のされかたでした。それに、あんな空気の中で高額商品引き合いに回されたら、本人もプレッシャーになります。ミシマさんといくら親しくしているからと言っても彼女は店員です。行きすぎています」

「明日は私も会場に行くし、今回の話と商談とは切り離してお考えいただくよう注意しておくわ。それにしてもイガラシさん、今回に限って案内に乗ったと思ったら、まさかこんな理由だとは思わなかった」



 ラッピングを終えた女性店員が何か僕に言っている。僕もそれに言葉を返して笑う。綺麗に仕上げられたショッピングバッグを受け取り、彼女のお辞儀に僕も会釈する。

 全てが不自然なく回っていた。

 なのに、彼女の言葉も、僕の言葉も、受け取った袋の感触も、その一切が僕の意識から切り離されていた。


 僕の意識は、奥で話す二人の会話に縛られていた。


「まさかイガラシさん、自分の孫をミシマに紹介するだなんて」



   ○


 あっという間に一日が経った。


 仕事を終えてラップトップを閉じると同時に、玄関の鍵が回る音がして、ミシマが現れた。充実感のある二日間だったのだろう。緊張の解けた彼女の顔はすっかり疲弊していて、少し崩れた化粧が怒涛さを物語っていた。


「おかえり」

「ただいま、シュウ君」

「随分と疲れてるね、シャワー浴びる? ごはん食べる?」


 彼女からスーツケースと小物を受け取る。

 ミシマは羽織っていたジャケットを脱ぎ、それから次々と身につけていた服を脱ぎ散らかしていく。ブラウス、スカート、ストッキング、下着、ブラジャー、パンツ、そしてカラーコンタクト。

 ああ、いつもの彼女に戻っていく。武装を解くように一切を脱ぎ捨てる彼女を見て、僕は安堵感を覚えた。


「もう無理。こんな固い格好してたらそのうち人形になっちゃう。シャワー浴びてきちゃうね」


 一糸纏わぬ姿のまま僕を後ろからハグすると、彼女は大きな伸びと共に浴室へと歩いていく。その後ろ姿に、僕は「ミシマ」と呼びかけた。


「どうしたの?」


 振り返ったミシマを見て、僕はしばらく言葉を考えた後、やがて思いついた一言を口にした。


「寂しかったよ」

「私も」


 僕の言葉にミシマは微笑み、近寄って僕の頬にキスをすると、浴室へと消えていった。


 彼女を見送った後、僕はクローゼットを開け、ビニールがかかったまま眠るコートのポケットを探り、ペンダントの入った包みを取り出した。

 彼女の働く職場で、彼女の同僚の接客を受けて購入したトップにダイヤモンドの付いたゴールドのペンダントだ。


 これはまだ、しばらく渡せそうにない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る