7.雨が聴こえる


 その日の雨は、酷いものだった。


 テレビの天気予報は記録的な雷雨を予測し、あくまで予測でしかないその報道を裏打ちするように早朝から窓の外で雷鳴が鳴り響いた。


 屋根と窓を激しく打つ音で目が覚めてしまった僕は、横で眠るミシマを起こさないようにベッドを出ると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップにたっぷり注ぐと一気に飲み干した。就寝前に設定した冷房はちゃんと機能しているようだったが、湿度と気圧のせいで部屋中じっとりとした空気が漂い、気だるい感覚で満たされていた。


 気分転換に飲んだ筈のミネラルウォーターでも変わることのない不快感にうんざりしながら、クーラーを除湿へと変え、もう一杯水をコップに注いで窓際に座る。


 梅雨が明けたというのに、雨は依然として降り続けている。


 定期的にやってきては街を深く濡らし、ペトリコールが町中を満たしていく。あの独特な匂いは嫌いではないが、夏のじっとりと張り付くような湿度と合わさると、不快感の方が強くなった。


 午前五時を指し示すスマホの画面を見てからもう一度窓の外を眺める。深く沈んだような青の街に大粒の雨が降り注いでいる。窓の外は厚い雲で覆われているが、それでも明るかった。


 まるでサファイアみたいな青だ、とまず最初に思ったのは、恐らく先日ミシマが働くあの店に行ったせいだ。

 金色のペンダントを選んだ後も彼女はアフターフォローとばかりに会話を続けていて、その時に見つけたサファイアについて彼女は語ってくれたのだ。


「世界四大宝石なんて言われるくらい、有名な宝石の一つですね。深い青なんですけど、奥底まで見通したくなるような、でも奥底まで見通しきれないような、そんな深さを感じる美しさが、サファイアの魅力です」


 彼女は宝石について語るのが好きなのだろう、プレゼントを探すフリをしていた僕と会話していた時よりも饒舌で流麗な語り口で宝石を語っていた。定型的に感じられた接客トークよりも、この時の方が彼女は魅力的に見えた。


「そういえば、ルビーって分かりますか?」

「あの、赤い宝石のことですか?」


 彼女は頷き、すぐそばのケースからルビーのついた指輪を取り出す。細く華奢な指輪に小さなダイヤモンドとルビーが交互に並べて埋め込まれている指輪だった。彼女曰くハーフエタニティというらしい。シルバーとダイヤモンドの白い輝きの中で輝くルビーの赤は、とても際立って美しく見えた。


「そういえば、ルビーとサファイアって、元は同じ鉱物なんですよ」

「こんなに色が違うのに?」


 僕の反応がとても新鮮なのだろう。彼女は嬉しそうに頷くとルビーの指輪の横にサファイアのペンダントを並べて置く。


「コランダム、っていう鉱物に含まれている元素によって色が変わるんです。面白いですよね、ちょっと含まれているものが違うだけで赤になるのか、それ以外の色になるのか。こんなにも違うなんて」

「他の色ってことは、サファイアもルビーもいろんな色があるんですか?」


 彼女は首を振る。


「ルビーは赤だけです。特定の元素がコランダムに加わることで深く赤く染まったものだけをルビーと言って、それ以外はサファイアなんです。だから、薄い赤だとレッドサファイアとかピンクサファイアなんて言うんですよ」


 含まれているものが違うだけで、名前が変わる。僕は改めてルビーとサファイアの色をまじまじと見つめる。


「ルビーの希少さも、色んな顔を見せてくれるサファイアの多様さもどちらも綺麗で、こういった色んな顔の違いを見られるのが鉱物の素敵なところなんです。同じものでも土地とか、生活とか、着ているものとか。そういう違いで魅力のあり方が違ってくるような、うまく言えないんですがそんな顔の違いがとても面白くて、個性を感じられるんです」


 僕が顔を上げると、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。


「すみません、蘊蓄ばかり語ってしまって」

「いえ、とても面白いですよ。まさか宝石にこんな違いがあったなんて知らなかったので、とても面白いです」

「そう言ってもらえると、とても嬉しいです」

「あの、ナガツキさん」


 左胸に取り付けられたネームプレートの名前を呼ぶと、彼女は不思議そうに首を傾げた。

 どうして彼女の名前を呼ぼうと思ってしまったのか、その時はうまく説明がつかなかったが、多分、僕はあの時、彼女のことをとても気に入ってしまったのだと思う。


「ナガツキさんの好きな宝石は、どんなものなんですか?」

「私……ですか、そうですね」


 彼女は合わせた手の指先を口元に当て、視線を店中のショーケースに向ける。

 しばらく悩んだ後、低い声を唸るように漏らし、もう一度目の前のルビーとサファイアの宝石に目を向けた後、ぽつりと呟くように言った。


「パパラチアサファイア、です」

「パパラチア?」


 彼女は頷く。彼女にはその宝石の姿が想像の中で見えているのだろう。顔を上げた彼女の瞳は、宝石のように美しく輝いていた。


「すごく希少で、綺麗なサファイアがあるんです。蓮の花みたいに綺麗で、澄んだピンク色のサファイア。三大奇石なんて名前で呼ばれることもあるくらい特別で、このお店なんかじゃとても見られないくらい高価なんです」


 彼女は目を細めて、うっとりとした表情で嬉しそうに語る。


「もちろん、勉強のためとか、見学で見たことはあります。でもいつか、一生に一つでいいからあの宝石を私のものにできたらって……私の目標なんです」

「そんなに希少なんですか?」

「滅多に見られませんし、私みたいな一般人にはとてもとても。今も生きていくのに精一杯ですから」


 そう言った彼女は、とても寂しそうに笑った。


「宝石って、奥深さや高貴さも勿論あるんですが、簡単には手に入らないからこそ、魅力的なのかもしれません」

「ナガツキさん、お会計終わりましたよ」


 別の店員から渡されたキャッシュトレイを受け取り、お待たせしました、と僕にカードと明細の説明を始める。スイッチが切り替わったのか、そこから彼女はすっかり普段の仕事のごく一般的な仕事に準じる彼女に戻っていった。


「あの、いつか買えるといいですね」


 カードを受け取る時にそう言うと、ナガツキはにっこりと笑った。


 その時の笑顔の意味を、僕はなんとなく知っていた。


   ○


「起きてたんだ、シュウくん」


 振り向くと、ミシマがベッドから起きていた。気だるそうに背中を丸め、項垂れるように首を垂れ、閉じかけた目を擦っている。


「ごめん、起こしちゃったかな」

「雷の音で起きた。ひどい雨だね」

「僕も同じだよ、雷のせいでね」


 窓辺からベッドの縁へと移動して、まだ寝ぼけたままの彼女の隣に座った。


 ベッドの揺れをきっかけに崩れるように寄りかかってきたミシマを受け止め、僕は彼女を支える為に腰に手を回す。肌触りの良い寝巻きの感触と、その奥に潜む柔らかな彼女の身体と少し高めの体温が、そして彼女という存在の重さに、ミシマジュンコという存在感じて、僕は少し嬉しくなった。


 彼女はここにいて、僕は彼女の恋人として隣にいる。僕は彼女のことを愛している。満たしたいと思うし、満たして欲しいとも思っている。



 でも、彼女はどうなのだろう。



 本来、彼女は僕と恋人になる未来にいなかった筈だ。

 微かに錆の浮いた歯車を見逃して、ほんの少しだけ回転が遅れた結果生まれた、ある種バグのような世界で彼女は生きている。彼女の中には僕では埋めることのできない欠片があって、その埋め方を今も手探りで探している。


 僕という型ではぴったりと埋めることのできないそれを、一体どうすれば僕で埋めることが出来るのだろう。


 ヤサカマサトも、そしてヤサカリョウヘイも手元から零れ落ちていった彼女に残された寄り添える相手が、何のつながりも持たない僕で果たして良いのだろうか。


 隣でこうして身を預けられている時も、想いに任せて彼女を抱いている時も、当たり前のように生活を過ごす中でも、この気持ちはふとした瞬間に湧き上がって、今この状況を享受してしまっている自分が嫌になることがあった。

 お前はただ都合よく損なった相手の欠片の中に住まわせてもらっているだけの、形の合わない歯車でしかないと、そんな想いが時々僕の胸を刺すのだ。


 ミシマの名前を呼ぼうとする度に何度も現れるその罪悪感に引き止められ、今も僕は彼女の名前を呼ぶことができないでいた。


 いっそ何も知らないままミシマとは会えたら良かったのに。


 マサトという過去も、ミシマを僕に託したヤサカのことも、何もかも記憶から拭い去って、ただ彼女に対する想いだけで生きられることができたなら、どれほど幸せだっただろう。


「シュウくんは眠くないの?」

「もう少ししたら寝ようかな。雨の音がひどくて寝直せそうになくて」

「じゃあ、少し抱き合っていようよ」


 彼女がその言葉を言い終える頃には僕はとっくに布団に押し倒されていて、隣には彼女の笑顔があった。


 鼻先が触れそうで触れない、指一本分あるかどうかくらいの距離でミシマの瞳がじっと僕を見つめている。薄い茶色がかった虹彩の奥に雫を落としたみたいに深く黒い瞳孔があった。彼女の艶やかな瞳を見つめると、その奥に僕のシルエットが薄く映っているのが見えた。逆光のように影になって映る僕の姿を見て、不思議と安堵感が生まれた。


 僕からの衝動的なキスを、彼女は拒むことなく受けてくれた。


 啄むような、幼い子供のようにたどたどしいものだったけれど、彼女は薄く目を閉じたまま、そのキスを何度も受け入れる。


 抱きしめた彼女の柔らかな衣服越しの肌の感触も、僕を受け止めてくれるこの唇の感触も、吐息の匂いも、全部大切で、愛おしかった。


 彼女の満ち欠けを僕という欠片で解消できているかはともかく、少なくとも僕は、彼女という存在によって満たされていた。


 それなのに、どうして僕は今も彼女の全てを奪い去れるだけの覚悟も力を持てないのだろう。


「シュウくん、大好き」

「僕もだよ」


 ただ一言、彼女の名前を言えば解決するだけなのに。どうして今もそれができないのだろう。


 こうして抱きしめられて、心が満たされている間も、脳裏では彼らの名前がノイズのようにチラつく。


 雷鳴は依然として鳴り響き、激しい雨は窓を強く打ち、眠りを妨げるように声を上げ続けている。


 ミシマに抱かれている間も、その雷雨は鮮明に僕の心を打ち続けていた。


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