8-1.追慕


 ヤサカはメーカーの営業として働いている。


 詳しい仕事内容は聞いていないが、業界でもそれなりにシェアを持っている音響機器を販売して回っているらしい。成績は時期やその時の環境によってもまちまちだが、彼がノルマの話を酒のつまみに愚痴っているところを見る限り、切羽詰まっている様子はなさそうだ。


 ただ、営業故に取引先からやってくる理不尽な連絡に振り回されることも多く、約束事にも遅れて来ることが多い。


 現に今も彼は遅刻中だ。


 待ち合わせ時間の不安定な彼に合わせる為、僕たちは一軒目だけは決まった店を予約するようにしている。はじめのこの取り決めをしておいたことが功を奏して、店で悩むような話をしたことが無い。


「ヨドノくん、また一人なんだ」


 ビールと通しを僕の前に置きながらキヌエさんは呆れたように言った。

 彼女は僕とヤサカが待ち合わせの場にこの場所を選んでからの仲で、もう数年近い付き合いになる。何気なく決めたダイニングバーだったが、ヤサカがこの店の自家製ソーセージを気に入り、それからはいつも決まって初めはビールとソーセージと、頼むものまで習慣づくようになっていた。


 このルーティンが崩れたことはなく、大抵僕が先に来て待ち始めるとキヌエさんがそれに合わせてソーセージの下準備を始めるようになるくらいになっている。

 とはいえ、キヌエさんとは友人までの仲では無い。せいぜい名前と、仕事の愚痴を聞いてくれるくらいで、僕とヤサカの関係も、その先にいるミシマの存在も彼女は知らない。


「ヤサカくん、いつも大変よね、定時で上がったことなんてないんじゃない」

「営業ってそういうところが理不尽ですからね」

「まあ、取引先とコミュニケーション取ってなんぼだものね。働いた分だけ数字になる分余計にね。ヨドノくんは絶対に選ばないでしょ」

「よく知ってますね」


 僕の返答にキヌエさんは笑い、再び厨房に戻っていった。

 届けられたビールと通しに口をつける。ただのピーナッツと思っていたが、オリーブオイルとガーリックで軽く炒められていて、これがまた酒にぴったりの絶妙な味わいになっていた。


 しばらくビールを飲みながら一人外を眺めていると、雨はいよいよ本降りになってきていた。

 ヤサカとの約束のついでに久しぶりの出社をしたら「珍しいですね、雨が降るんじゃないですか」なんてトニムラに冗談を言われたが、どうやら現実になってしまったようだ。


 予報外れの雨に小走りになる人々を眺めていると、その中の一人が店に転がるように駆け込んできた。ヤサカだ。

 彼は突然の雨に酷くやられていて、細身のシルエットにぴったりと合わさった空色のオーダースーツの袖口がびっしょりと濃い色に濡れていた。気休めにもならないハンカチで濡れた髪と顔を拭いながら彼はまっすぐ僕の席にやってくる。


「いつも悪いな、定時ぴったりに電話かけてきたバカ客がいてさ」

「いつものことだから気にしないよ、仕事お疲れ」

「私も慣れちゃったみたいね、ヤサカくんの来る時間予測出来ちゃった」


 ジャケットを壁に掛けてヤサカが座るのと、いつものソーセージと彼の分のビールが届くのはほぼ同時だった。想定していた時間ぴったりだったことがよほど嬉しかったらしく、キヌエさんは機嫌良く料理を置くと鼻歌混じりに去っていった。


「キヌエさん、俺が間に合ってなかったらどうするつもりだったんだろう」

「その時は焼き直してたんじゃない。来なかったら来なかったらで常連の誰かに買わせるつもりだったかもね。どうせみんな食べるだろうって」

「乱暴な売り方だよな」


 そう言いながらも早速ソーセージに手をつけているヤサカを見て、僕はビールをもう一口飲んだ。ナイフで切り分けてからその一端をマスタードと一緒に口に入れ、それをビールで流し込み、彼は旨みをひとしきり堪能すると深く息を吐いた。


「ああ、良かった。この為に生きてる」

「細やかな幸せだ」

「こういう細やかな幸せが、日々積み重ねるのが大切なんだ。シュウも食えよ、冷めるぞ」


 彼に促されるままに僕も自家製ソーセージに手を付ける。厚めの皮と、その奥からたっぷりと滲み出る肉汁とスパイスのバランスがいつも通り絶妙で美味かった。間を置いてやってくる辛味に合わせてビールを飲んだ時の満足感がたまらない。


「ここのビールとソーセージなら何十年と食える」

「胃もたれでも起こさない限りね」

「突然アルコール虚弱体質にでもならなければ大丈夫さ、シュウは毎日のようにミシマと飲んでるから何の問題もないだろ。むしろ毎日レモンサワーで飽きないものかね」

「まあ、それは飽きっていうよりは思い出だからね」


 彼は僕を一瞥した後、ビールグラスを一息で空にする。次の頼むぞ、と急かすような言葉に慌てて僕は彼と同じものを頼む。どうやらスタウトにしたらしい。


「アイツもそろそろ忘れたら良いのに」

「そのままリョウヘイにその言葉を返すよ。僕と飲む時はビールのくせに、ミシマと会う時は必ずワインだろ」

「まあ、どっちもどっちか」


 そう言ってヤサカはスタウトのグラスに手を付ける。深く煮詰めた飴色のように黒いビールがあっという間に消えてていく。

 ヤサカは人並みに酒が飲めるが、とはいえザルというわけではない。それなりに飲めばそれなりに酔う。今日のスピードはあからさまに早かった。仕事か、プライベートか、何か厄介ごとでもあったのだろう。


 スタウトをあっという間に空にして間髪入れず次のビールを彼は頼んだ。注文時にキヌエさんにアイコンタクトでチェイサーを頼んだが、上手く伝わっただろうか。


「ああ、そうだ。見合いすることになったんだよ、俺」

「見合い?」


 ヤサカは頷く。


「親父がうるさくてさ、相手を見つけられないんならこっちで探すって言い始めて、半ば強引な見合いが決まった」

「リョウヘイ、恋人いたのいつだっけ」

「いつだったかな。まあいても全然続かないし、お前にも、ミシマにも報告したことなかったしなあ。盆も近いんだから良い報告してやれってさ。全く参ったよ」

「盆か」

「そう、盆」


 それだけ言い終えて、僕とヤサカは互いに黙ったままビールに手を伸ばす。焼きたてのソーセージと通しのピーナッツをつまみながら、ただ黙々と酒を飲む。側から見ると相席している一人飲みたちのように見えそうなくらいだった。


 その沈黙の中、最初に口火を切ったのは、僕の方だった。


「それ、ミシマには言うなよ」

「言えるか。というかそっちはどうなんだよ、お前らが進んでくれてたら別に隠すことはないんだよ、俺も」

「変わらないよ、何も」

「……お前なら、ミシマを変えてやれると思ったんだけどな」

「そういえばミシマもミシマで、仕事先の客に孫を紹介されたらしいよ」


 ヤサカが目を見開いてこちらを見る。


「紹介?」


 僕はビールを飲みながら頷いた。


「顧客の中に相当気に入ってる客がいるらしくて、孫の嫁に来ないかって、仕事場に孫連れてきて言われたらしい」

「それ、ミシマはなんて言ったんだ?」

「知らないよ、彼女の仕事先で偶然聞いただけなんだ」

「ミシマの仕事先?」


 訝しむヤサカの目をなるべく見ないように、僕はグラスを見つめながら応えた。


「行ったんだ。ミシマの働いている店に。彼女がイベントで不在にしているタイミングにこっそりね」

「なんでまたそんなことを」

「知りたかったんだよ、僕が知らないミシマを。職場に行けば何か見えるんじゃないかって思って。でも全然収穫はなくて、結果手に入れたのはさっきの紹介話だけだった」


 呆れた、とヤサカはため息をついて椅子に深くもたれかかった。


 酔いが少し回ってきたのか、頬に薄らと赤みが差し始めている。ちょうど良いタイミングで水を持ってやってきたキヌエさんからグラスを受け取り、彼はそれを一息に飲み干し、もう一度深く息を吐いた。


「まあ、ミシマにとってそれが幸せになれる道なら、それも良いのかもしれないな」


 彼の言葉に僕は押し黙る。彼はそんな僕を見て少しショックを受けたような顔をした。それから取り繕ったように笑うと、少し強めに僕の肩を叩いた。


「冗談だって、シュウはよくやってくれてるよ」


 彼の励ましを無視するように、僕は黙ってビールをもう一口飲んだ。


 ヤサカは、僕の様子を見て取り繕って笑うのを辞めると、再び酒を飲み始めた。


「お前には本当に感謝してるんだよ、シュウ。俺じゃどうやってもミシマをあんな風には笑わせられなかった」

「断りきれなかっただけだ。それに、断念する勇気も無かった。そうやって気がついたら何年もミシマと続いてしまった」

「そんなことない。今のミシマは、シュウとの関係を心地よく思ってる。それに、お前もミシマのことを想ってくれている。このまま二人でいてくれるなら、俺はもう十分なんだよ」


「マサトの代替がやっと出来たって?」


 彼の名前を口にした途端、彼は口を閉ざした。


 今日、何杯目だっただろうか。酔いが回ったせいで、気持ちに歯止めが効かなくなっている。これ以上はいけないと、いつもならブレーキをするところでそのブレーキがうまく掛からない。彼の前でその名前は禁句だとわかっているのに。


「ミシマは今も、マサトへの気持ちを抱えてるし、忘れることもできてない。僕といても、どこかで彼の存在が出てくる。それに、リョウヘイに対する気持ちもね。今も彼女は君とマサトと、三人の思い出の中にいるんだ。そこに、僕はいない」

「なんだ、お前」


 ヤサカはとても驚いたような顔をしていた。言い終えてから、言葉が過ぎたことを僕は後悔していたが、彼はそれについては全く咎めず、むしろ予想の外側にある言葉を僕に投げかけた。


「全て見てほしいんだな、ミシマに」


 その言葉に、僕は返す言葉が何も思いつかなかった。


 そんなことはないと、自分なんかにそんな権利はないと、そう言えば良いだけなのに。

 否定の言葉すら出てこないほどに、彼の口にしたものは呪縛のように僕を蝕んでいた。

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