8-2.追慕


「今日は悪かったな、折角の飯だったのに、不味くなるような話ばかりで」


 店を出る頃には、雨はすっかり止んでいた。雨の後のペトリコールと、湿度を孕んだ生ぬるい風がアルコールで火照った体にべったりとまとわりつく。これでもう少し涼しければ良い酔い覚ましにもなるのに、今僕が感じるのは不快感だけだった。


 ヤサカとはあの後、互いの会話を戒めるかのようにただひたすらに酒を飲んだ。競うように酒を空け、グラスが空になれば次を注文する。キヌエさんに窘められるまで僕たちの酒盛りは続いた。


 そのせいで、彼も会話こそできているが、その表情は赤を通り越して土気色に暗く沈み、ほんの少しでも気を抜けばこのまま崩れ落ちるのではないかと思うほどだった。おぼつかない足元をほとんど意地だけで抑えている。そんな状態だった。


「僕の方こそ、あんなことを言うつもりはなかったんだ」

「謝ることないさ。全部その通りだし、一番お前に負担をかけてることも理解してる」


 あの後、ミシマに関する話題は互いに一切口にしなかった。 

 トイレで席を空け、クールダウンした様子の彼が再び席に戻ると、悪い空気にしたと一度謝り、それからは露骨なまでに彼女の話を避け、他愛もない話題を繰り返していた。僕も友人としてその会話に乗った。

 逸脱を見逃さない、ライン作業のような丁寧で細やかで、それでいて機械的な仕分け作業を行うような、そんな会話だった。


 酒の酔いも進んだところからは仕事の愚痴や久しく会っていない友人の話で花が咲いて、そこからはミシマに関する話題を忘れたように話すことができた。ただ、互いの胸の片隅には、常にひっそりと、潜むようにその存在はいたと思う。


「早く秋になって欲しいな」


 ふらつく体から酔いを追い出すように思い切り伸びをしながら、ヤサカは言った。


「なんで?」

「夏の夜って、じめっとしてて苦手なんだよ。俺、仕事中はジャケット着ないといけないからさ、この時期になると汗が酷くて、スーツがいくつあっても足りない」

「適当に使い捨てじゃダメなの?」


 僕の言葉にこれだから引きこもりは、と呆れて彼は首を振った。


「印象が第一の世界だからな、第一印象で外した奴は話も聞いてもらえないし、信頼も築けない。スーツは着飾るだけでなく、敬意を見せるためのものでもあるんだ」

「へえ」

「分からないだろうな、お前には」

「理解はできないけど、その姿勢に尊敬はするよ」


 僕がそう言うと膝裏に彼の鞄が飛んできた。結構容赦のない一撃だったが、僕は痛さよりもくだらなさの方が先にきて、思わず笑ってしまった。彼もまた、僕の笑い声に釣られて笑い出す。


 夜が更けて、繁華街はより一層明るさを増す。街頭の光がいつもよりも強く輝いているように見えるし、キャッチの人数も多くなった。酔いに任せて上機嫌に街を彷徨く人々がその声に巻き取られるように次々に店に消えていく中を、僕とヤサカは歩いていく。


 街引きの声に巻き取られることなく酔った二人が堂々と歩く姿は、少し目立っていたように感じる。


 ヤサカは笑っていた。僕も笑っていた。笑うこと自体に理由はなくて、酔いをきっかけに出た笑い声に準じた、言い換えれば勢い任せの笑いだった。そして、その理由のないただの笑い声に救われているのも事実だった。


 ヤサカの抱えるもの、僕の抱えるもの、それらは似ているようで、決して重なるものではなくて、いくら会話をしたとして解消されるものではない。彼は彼なりの目的を持ってミシマと向き合おうとしているし、僕もまた、僕なりの方法で彼女と向き合おうとしている。


 ヤサカと僕の間で共通していることがあるとすれば、ミシマを幸せにしたいということだ。


 初めはきっと同じだったはずのその過程も、どこでボタンを掛け違えたのか、今では徐々に噛み合わなくなってきた。それもその筈だ。僕たちは、ずっといつ割れるかも分からない薄氷の上を歩き続けてきたのだから。


「リョウヘイもさ、幸せになっていいと思うんだ」

「俺が?」


 僕は頷く。


「三人の間に何があったのか、僕はリョウヘイから聞いたことしか知らない。でもさ、お前が全部責任を持つ必要はないよ。だって所詮はミシマと、お前の兄ちゃんの間のことだろ」

「そうだったら、良いんだけどな」

「違うのか?」


 ヤサカはポケットに手を突っ込み、電子タバコを取り出すとカートリッジを差し込んで吸い始める。彼が吐いた白い煙と、甘い香料の香りが鼻先を掠めた。


「いや、どうなんだろうな。もうそろそろ、良いのかな」


 自問自答する彼の様子を見て、僕はそれ以上何も言わなかった。


 彼は彼なりに何かと戦っている。いつも僕たちの前に姿を現す時は飄々とした様子なのに、ふとした時に出る彼の不安や弱さを見るたびに、彼はミシマを本当に大切にしていることを感じる。


「ミシマのこと、もう少し頑張ってみるからさ、リョウヘイももう少しだけ、肩の力を抜いたらどうかな。リョウヘイの話を受けた時点で、僕も同じ立場のようなものなんだから」


 彼は吸い終えたカートリッジを携帯灰皿に捨てて、二本目を差し込む。先ほどの甘ったるい香りとは打って変わって、煙からはメンソール系の強いミントの香りがした。


「ありがとうな、シュウ」


 でも、と彼は呟いた。


「これは俺が始めたことだからさ、お前にまで重荷を背負わせる必要はないんだ。なんなら俺たちの話を知らないまま、お前はミシマと付き合うべきだった。だってそうだろ、アイツの過去の男の話なんて知る必要がどこにある」


 彼は煙を吐く。仄かに白い輪郭を残して広がり、香りだけを残して煙は宙に舞い上がっていく。


「焦ってたからかな、俺の最初の間違いは、多分そこだよ」


 ヤサカは消えていく煙をじっと見つめていた。


 煙が舞い上がる夜空を見上げる彼の足元で、雨に濡れた路面が繁華街の賑わいを吸い込んで燦々と輝いている。ビルの照明と、看板のライト。流行りに乗ったネオン文字の蛍光色の輝き、等間隔に置かれた街灯の白色光たち。


 星も見えず、ただただ深い暗闇の広がる空を見上げながら、彼はポケットに手を突っ込み、無言で電子タバコを吸っていた。



 彼は今、過去を見ている。



 深い張り付くような夏の暑さと目の回りそうな酩酊感の中で、あの頃を思い出しているのだろう。



 兄と、ミシマと、ヤサカ。



 三人で過ごしていた頃のことを。



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