9.ホタテとアスパラのレモンバター炒め


 休みのはずが急遽決まった打ち合わせを片付け、昼過ぎにようやく家に戻ると、ミシマは朝と全く同じ姿でそこにいた。


 ベッドの片隅で壁に身を預け、タオルケットに丸まったままスマートフォンでずっと動画を見ている。一気に観てしまいたいドラマがあるけれど、じっくりと観られる余裕が無いとここ最近嘆いていたが、ようやく一気観する気持ちが固まったようだ。


 皺だらけのベッドの上にはトレーが置かれ、蓋付きのタンブラーとレモンサワーの缶、そしてポテトチップスが一袋載っている。わざわざ取りにいくのも面倒だったのだろう。横着の極みだ。


 部屋の片隅にぴったりと収まって、まるで家具の一つのようになってしまった彼女を横目に僕は荷物を下ろした。トレーの上に敷き詰められた完璧な怠惰の塊を見ていて、自分も何か食べたくなってきたが、彼女のドラマ視聴を邪魔するのも悪いので、代わりに何かないか冷蔵庫を開けてみる。

 そこで、すっかり中の食材が消えていることに気がついた。今日の夜用にと冷蔵解凍しておいたサーモンもすっかり消えていた。


 もしかして、と思った時にはもう遅かった。慌ててキッチンを見るとシンクには食器が漬け置きすらされず無造作に転がされ、ゴミ箱にはお菓子や冷凍食品の袋がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

 すっかり空っぽになった冷蔵庫の中で、きっちり一ダース分冷やされているレモンサワーの缶たちを見て、僕は頭を掻いた。


 食欲の爆発と情緒の乱れ、そして彼女の好みにぴったりとハマったものが現れた時だけ発現する没頭癖が重なってしまうと、時々こういうことが起こる。こうなると無理やり動かそうとしても反応すらしてくれなくなる。

 冷蔵庫を閉めて少し大きめにため息をついてみたが、彼女からは何の反応も得られなかった。


「ミシマ、スーパーに行ってくるけど、何か欲しいものある?」


 ダメ元で声をかけてみたが、ベッドの上にすっかり置物のように固定された彼女から返事はかった。いつもそれなりに大切な理由であれば一旦手を止めて答えてくれることもあるのだが、今日はそれすらもしたくないようだった。


「適当に買い出し行ってくるから、欲しいものがあったら連絡して」


 これ以上何を言っても意味がないだろう。返事のないミシマをそのままに、僕は財布を持つと、彼女を置いて部屋を出る。


 外に出てから、ふと自分の服装を見て、そういえば着替えることすら忘れていたことに気がついた。せっかく帰宅したのに、かっちりとしたジャケット姿のままこれからスーパーに行くと思うと、少し気が滅入った。


 ミシマと付き合うようになってからこの時折やってくる現象に、はじめこそ無理に割り込もうと躍起になっていたが、それも長い付き合いの中で「どうしようもないもの」として仕分け、気がつけば今では「そういうもの」だと割り切るようになった。

 そうやって、共同生活の中で一つ一つ仕分けていった結果、互いの丁度良いところを構築できたのが今だ。


 でも、本当にそうなのだろうか。


 この関係が果たして健全かどうか、ふとした瞬間に疑問を感じる時がある。ぴったりと閉じていたはずなのに、一度開いてしまうとそれはもうどうしようもない不安に変わってしまう。



 平日の午後ともなると外も人気はなく、真向かいに立ち並ぶ分譲住宅は特に静かだった。それでも、売り出し始めに比べたら随分と生活感を感じられるようになった。等間隔に停められたSUV、ミニバン、それぞれの住宅によって特徴の違う植栽たち、玄関前に立てかけられたストライダー、軒下に自立して停められた原色系のマウンテンバイク。置き去られたゴム製の縄跳び。


 全く同じ間取りと外壁で取り揃えられた住宅は、人が住むことでそれぞれに特徴が生まれている。それらをひとしきり眺めてから僕は踵を返し、一人スーパーマーケットへと向かう。


 僕の家からスーパーマーケットへ向かう道は細く、対向車がすれ違えるギリギリくらいの裏路地のような道だ。


 一本横に出るだけで、車幅と歩道が十二分に確保された道があることも手伝って人気はほとんどない。それこそ分譲住宅に住む家族や、僕のような賃貸住まいの人間とか、随分前からこの街を知っている高齢者くらいが利用するくらいで、基本的にはいつ通っても落ち着いている。


 住宅と住宅の合間にひっそりと陰のように存在するこの道が僕は好きて、いつもこの道を利用している。特に物思いに耽る時には便利で、今日みたいにミシマがうまく機能していない時は、散歩を理由に一人この道を歩いて過ごしている。


 僕もミシマのように部屋の中で上手に一人になれたらいいのだが、残念ながら僕は彼女ほど丁寧に自分以外をシャットアウトできない。


 以前彼女と喧嘩をした時に、一度だけ同じように塞ぎ込んでみたことがあったけれど、それもあっという間にミシマによって解されてしまった。あの時は確か、ミシマが料理を作り始めて、その匂いにすっかり釣られてしまったのだ。

 ほうれん草とポテトと卵で作ったキッシュの甘い匂いには勝てなかった。


 結局あの時は、食欲に折れて僕が謝ったのだ。


 他愛のない喧嘩だったし、僕に非はなかったと思っている。ただ、あの時二人で食べたキッシュがあまりにも美味しくて、そんなことすらどうでも良くなって終わってしまった。


   ○


 スーパーにたどり着いてまず考えたのは、レモンサワーに合う料理と、その食材についてだった。あの時食べたキッシュのように、彼女を振り向かせる何かを作ってみようと思ったのだ。


 一体どんな料理がいいだろうか。入り口のカゴを取って野菜コーナーを眺めていると、不意にアスパラガスの山が目に入った。根本から先端まで、濃淡のグラデーションが綺麗にかかったそれらが箱の中で背筋をぴんと伸ばして並んでいるのを見て、僕はこれだと思った。それからすぐ近くに並ぶエリンギを手に取り、次の海鮮コーナーへと向かう。さっぱりとした中に何か甘くて味の濃いものが欲しいなと考えていると、丁度店員がホタテを入れているところが目に入った。


「いらっしゃいませ、甘みと歯応えが自慢の新鮮なホタテが入荷しました。どうぞ手に取ってご覧ください」


 あらかじめ決められた完璧な案内に思わず感心して、僕はホタテを手に取るとカゴに入れた。並べたばかりのホタテをカゴに入れた僕を見て、店員は小さく会釈すると、再び残りのトレーに目を向け、冷蔵コーナーに補充しながら全く同じ声量と口調で案内を続けた。


「いらっしゃいませ、甘みと歯応えが自慢の新鮮なホタテが入荷しました。どうぞ手に取ってご覧ください」


 寸分も違わないその案内を何度か聞いたあと、僕は海鮮コーナーを後にする。

 それから適当に付け合わせにできそうな食材と、使い切った記憶のある調味料、朝食のパン。そして彼女が常に切らさないように備蓄している好みのレモンサワーの銘柄を半ダースカゴに入れた。

 これで彼女が少しでも反応を示してくれるといいのだけれど。


   ○


 レジを済ませてスーパーを出ると、想定外のことが起こった。

 店の出口に、ミシマが立っていたのだ。


「やあ、シュウくん」


 サンダルに、いつものオーバーサイズシャツの部屋着と短パン姿で、すっぴんを誤魔化す為の縁の大きいメガネとマスクを身に着けた彼女は、バツが悪そうに目元を細めてそこに立っていた。


 一体何に対して罪悪感を抱いているのだろう。明らかに慌てて出てきたことが分かる姿で、それでも平静を装う彼女の姿がなんだかおかしくて、思わず僕は笑ってしまった。


「笑うことないじゃない」

「いや、だって、そのカッコで強がるのは無理があるよ」

「無理なんてしてない」


 笑う僕を見てマスクを外した彼女は、恥じらいと不機嫌さを含んだ表情を浮かべ、下唇を噛んだ。その様子を見て僕はまた笑った。


 ひとしきり笑ったあと、彼女に手を差し出す。

 彼女は不貞腐れながらもその手を取った。離れないように、隙間をぴったりと埋めるみたいに絡まった彼女の手を、僕は強く握り返した。


「ねえ、何買ったの?」

「アスパラとエリンギとホタテ」

「いいね、つまみに良さそう」

「さっきネットで調べたんだけど、レモンバター焼きにするとかどうかな」

「それ、最高」


 繋いだ手をブランコを漕ぐみたいに揺らしながら、僕とミシマは家路を歩く。


 一人で歩いてきた静かな道を、ランドセルを背負った子供たちが駆け抜けていく姿が見えた。もう下校時刻になったのか、分譲住宅に住む子供たちが、溌剌とした様子で、重たいランドセルを物ともせず駆けていく。


「三時過ぎになると学校から帰ってきた子たちで賑やかになるの、私好きなんだよね」


 ミシマのその言葉に僕は頷いた。


「分かる。なんか、いいよね」

「私シフト制だから平日一人で暇してる時は、窓からあの子達が遊んでるのをお酒飲みながら見てるんだよね。みんな、目の前の出来事を全力で享受して、今ある楽しさとか前向きな感情を発散していて、そんな姿を見ると、自分はすっかり大人になっちゃったなあって思うの」


 そう言ってミシマは歩幅を少し広げ、スキップをするみたいに緩く跳ねるように歩き始める。オーバーサイズの部屋着のシャツが揺れて、時折彼女の輪郭を縁取った。短パンから伸びた太腿は白くて、柔らかな曲線を描いて足先まで伸びている。


 最近のミシマは、丸くなった。


 悪い意味ではなく、健康的になったという意味でだ。


 初めて出会った頃のミシマは、病的なまでに痩せていた。ほとんど骨と皮だけのような姿で、今と同じオーバーサイズのものをよく着ていたから、より痩せて見えた。

 死なない程度に食事はしているようだったが、それでも血肉を作れるほどの栄養を作るまではいかず、最低限の生命活動を維持するためのような食生活をしていた。


--あなたも、あぶれた人?


 初めてかけられた声を、僕は今も思い出せる。彼女と付き合うきっかけになった一言目。


 あの日、ミシマについた一つの嘘から、僕たちの関係は始まった。


 今では彼女は僕の隣でこうして、健康的な姿で歩いている。時折僕につっかかることも、勢いのままに僕を言い負かすことだってできるくらい、彼女は健康的になった。


 そろそろというか、分水嶺に近づいてきていることを最近感じている。

 癒えて一人でも生きられるようになったミシマも、自立して歩けるようになって、その先を考える時期が来たのだ。安定した生活を求めて生物たちが環境を変えるように。僕との関係も、環境も、変化が必要になってきている。


「ねえ、ミシマ」

「何、シュウくん」

「僕たち、付き合ってもう随分経つでしょ。四回目の記念日も近いし、せっかくだし、どこか美味しいご飯でも食べに行かない?」


 僕の誘いに、彼女はにっこりと笑った。

 彼女の笑顔を見て、僕は深く頷く。


「決まりだね、八月の末くらいに予定が合う日があったでしょ。あの辺りでどうかな」

「うん、八月末なら、大丈夫」


 彼女は盆を過ぎていればきっと快諾してくれるだろう。

 そんな予想も含めた提案だった。我ながら性格が悪いと思う。


「色々とさ、ゆっくり話したいことがあるんだ」

「シュウくんって、そんなにおしゃべりだったっけ」


 からかうように笑うミシマの太ももを繋いだ手で軽く押すと、彼女はあはは、と声をあげて笑った。


「大事な時くらい、僕だって喋るさ」

「へえ、大事なことなんだ」

「そうだよ、面と向かって話したいことだよ」

「じゃあ、覚悟しておいた方がいいかな」


 繋いだ手を解いて、少し先まで歩いて行ったミシマがくるりと翻り、僕を見た。

 眼鏡を外し、髪をかき分けて笑う彼女の隣に追いつくために、少し歩調を強める。


 普段は陰の落ちている道に西陽がすっと差し込むように入ってくる。その光は目の前の彼女を白く照らす。

 機嫌良く笑う彼女を見ていて、僕はふと、あの日店先で聞いたことを思い出す。


 イガラシという顧客の紹介に、彼女はもう返事をしたのだろうか。


「さあ、家帰ってレモンサワー飲みながらご飯食べよう」


 僕はミシマの手を取って再び歩き出す。彼女はすぐに僕の歩幅とリズムに合わせて、隣を一緒に歩いてくれた。

 ちらりと見ると、彼女は機嫌良さそうに口元に笑みを湛えている。


 西陽に染まった分譲住宅の前で、学校帰りの子供たちが各々好きな遊びを楽しんでいるのが見えた。

 趣味が合えば共有し、気分でなければ自分の世界にとっぷりと浸かる。子供ならではの壁も遠慮もない距離感に少し羨ましさを感じながら、繋いだミシマの手の指と指の間に自分の指を潜り込ませて、離れることのないようにしっかりと繋ぎ直す。


 ミシマもまた、僕の手をしっかりと握りしめてくれた。


 それだけで今は十分だった。


 その先は、夏の終わりに、僕が全てを彼女に話した後に決めよう。

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