10.火を焚べる

 冷蔵庫の残りを覗くと、運良く使いかけのベーコンと生卵、そして冷凍しておいた食パンが二枚出てきたので、トースターに二枚突っ込んでから、フライパンに油とベーコンを転がす。


 こんがりと広がる香ばしい匂いが広がる中で、しかし僕たちに会話はなく、ただ粛々と儀礼を済ませるかのような静謐さが部屋の中を満たしていた。


 こういう時に限って、雨は降らないんだなと思う。窓の外に見える晴天と分厚い入道雲の塊は、抗いようもなく夏だった。


「リョウヘイはいつ迎えに来るんだっけ」

「え、ああ。三十分後には着くと思う」


 ミシマは答えながらもどこか上の空で、はっきりとしない表情のまま僕にそう答えた後、再び窓の外を眺めていた。ぼんやりとした様子とは裏腹に黒い略喪服に身を固め、首元にはパールを巻き、背筋をぴっちりと伸ばしたまま、正座を維持している。


 毎年この時期になると、僕の知る彼女が他人のように見えてしまう。たった一瞬の過去に翻った彼女の姿を見るたびに、僕はあと何回、自分が知らないミシマを見なくてはならないのだろうと思う。


「ショウくんは、やっぱり来ないの?」


 不意にかけられた声に僕は顔を上げた。彼女は依然として窓の外を眺めている。姿勢のよい略喪服姿のまま。


「行けないよ」


 僕はそう返してから、卵をフライパンに割り入れる。黄卵が二つ落ちて、熱で震えている。珍しい双子の黄卵をそっと切り離すように菜箸で左右に分けると、その間にもう一つ卵を割り入れた。


 でも、果たして僕は行けないのだろうか。時間をおいて去来する返答に対する疑念が僕の胸をざわつかせる。行けない、ではなく行かないの間違いではないのか。


「そもそも僕はマサトさんに会ったことがないし、ミシマとリョウヘイにとっては大切な出来事なんだろ」


 こんな時だけ澱みなくスラスラと言葉を吐ける自分が嫌になる。今、僕が口にしている一言一言が明確な敵意を持って彼女を傷つけていることを知っていながら、それでも収められないでいる。


 残念そうで寂しげで、突き放すような僕の言葉にどこかショックを受けているような彼女の表情を見て、僕の胸にも糸くずのように小さなささくれがちくりと痛みを放つ。これは放っておいてはいけないものだと気がついていながらも、それでも僕が果たして彼らの中にどう立ち入って、どのように振る舞えばいいか見出せないでいる。


「そうだよね、ごめんね」

「謝ることなんてないんだよ、ゆっくりしておいで」


 一つ一つ丁寧に、彼女の体にナイフを突き立てていくような、そんな気分だった。どうして僕は何の罪もない彼女を傷つけているのだろう。むしろミシマこそが傷み、損なってしまっているのに、どうして僕がこうして傷んでいるような態度でいるのか。僕だって、共犯者のようなものなのに。


 そうこうしているうちに玄関のチャイムが鳴った。窓の外には一台のミニバンが停まっている。濃いブルーの艶がかったボディには見覚えがある。ヤサカ家の車だ。


 ミシマが無言のまま立ち上がると、玄関の戸を開けた。


 そこには神妙な面持ちのヤサカが立っていた。普段のようなラフさも、仕事の時のようなパリッとした空気もなく、ただただ疲れたような顔をしたヤサカが、全身黒いスーツで立っていた。


「よう」


 口数少なく彼は僕に向かってそう声をかけると、次に出迎えてくれたミシマに目を落とす。


 彼女はヤサカをじっと見つめた後、唇を軽く噛むと彼に抱きついた。恋人のようなハグではなく、慰めを求めるような、兄妹同士の幼いハグだった。

 彼もまた抱きついてきた彼女を離すことなく背中に手を回して、頭を撫でた。


「ミシマのこと、借りてくぞ」

「うん、気をつけて」

「お前は……いいか」


 ヤサカは言いかけた言葉を呑み込む。僕も彼のその様子に深く頷く。言葉こそ交わさなかったが、それだけで互いの意思は一致したと思う。ただ、納得はしていないようだった。彼は視線で訴えるような何かを僕に送っていたが、僕は目を逸らしてそのメッセージを拒絶した。


 二人はそれ以上何も言わず、ヤサカマサトの法事へと向かっていく。

 静かに手放された玄関の扉が小さく軋みながら閉じて、やがてラッチボルトのガチャンという冷徹な音だけが大きく響いて、やがて僕は一人になった。


 たった一人投げ出されたようなどうしようもない孤独感が僕を侵食する。


 それでも、足は動かなかった。


 窓の外から響くタイヤのスパイクする音とエンジンの駆動する音を聞きながら、僕は立ち尽すことしかできなかった。



   ○


「じゃあ、行けばよかったじゃないですか」

「そんな単純な話じゃないんだよ」

「だって、死んだとはいえ元恋人の墓参りに未だに行ってるってことでしょう。確かに断りづらいですけど、そんなに落ち込むならそろそろ断ち切ってくれくらい言いましょうよ」


 ニトムラの遠慮のない言葉たちに僕は何も返せなくて、押し黙ったまま窓越しに外を眺める。


 盆の真ん中の時期だからか、高速道路はとても快適だ。合流車線とサービスエリアにさえ気をつければ速度を維持したまま走り続けられるくらいだ。


 ニトムラは愛車のジムニーにキャンプ用具と僕を積み、オートキャンプ場に向かっている。カーステレオからは彼の好きな選曲が流れ、曲が掛かるたびに鼻歌まじりに速度を上がる。


 彼からキャンプの誘いを受けたのは、ミシマとヤサカが部屋を後にしてまもない頃だった。まるでこちらの予定を見透かすかのようなタイミングに、始め僕は彼の監視を疑ったが、彼曰く僕を誘おうと思ったのは突発的で、まさか都合よく恋人が不在になったタイミングだとは思いもよらなかったらしい。


 僕は、彼の誘いに二つ返事で返した。

 どうせ明日までミシマは帰ってこないし、今日一日あの部屋に居続けたら、それこそ気がどうにかなってしまいそうで、むしろ救いのような連絡に感じられた。


「でも、キャンプ用具とか何も持ってないけど」

「心配しないでください。俺のお下がりもありますし、最近じゃレンタル用品も豊富ですから。手ぶらで行ったって楽しめますよ」


 トニムラはいつもの鼈甲のメガネをかけ直す。


「それに、僕にも積もる話が結構あるんですよ。せっかくだから先輩らしく後輩の愚痴と趣味に付き合ってくださいよ」

「それ、普通は部下に言うものじゃないか?」

「いいじゃないですか、先輩はそういう誘い方絶対しないでしょ」

「それは、そうだけど」

「自分のプライベートな話も嫌ってるんだから、せめて後輩からのプライベートな愚痴くらい聞いてくださいよ。それに、ヨドノさんに言ったってどうせ漏れないでしょ」

「そんなに人付き合いが下手だと思われてたのか」

「いや、逆ですよ」


 そう言ってトニムラはアクセルを踏み込み、隣に座る僕に向けて笑いかける。


「先輩くらいですよ、あの会社で信頼してるのは」


   ○


 オートキャンプ場に着くなり、彼はジムニーから荷物を次々と取り出して一つ一つを丁寧に組み立てていく。

 ラゲッジスペースから出てくる荷物たちを涼しい顔をして捌いていく彼の姿を見て、彼が意外とアウトドア気質であることに正直意外さを感じていた。行動派であることは勿論知っていたが、どちらかと言えば友人とコミュニケーションを取ったり、人間関係を楽しむタイプだと思っていたから、ソロキャンプを嗜んでいるとは思わなかったのだ。


「テント、最近新しいの買ったんで、ヨドノさんは古い方でもいいですよね」

「いや、手ぶらできてるから何も言えないよ。トニムラに任せる」

「そう言ってもらえると話が早いです」


 少し大きめの手提げバッグを二つ転がし、ある程度レイアウトを決めるとバッグからテントの部品を取り出して、手際良くシートを広げていく。広げたテントにポールを差し込み、軽快なリズムをペグ打ちを済ませ、そこから更にシートを被せてペグを打つ。


 慣れた手つきであっという間に二つのテントがそこに現れる。彼はそこにシュラフを投げ込み、次にチェアとテーブル、焚き火の用意を始めた。


「あ、食料とかも買ってあるんで、それだけ持ってきてもらえます? クーラーボックスにビールも入ってるんで、準備できるまで適当なものつまみにして待っててください」


 隣り合うように置かれたチェアを指し示すと、彼は再び作業に没頭していった。僕は言われた通りに食材をジムニーから引っ張り出し、テントの傍に置いてクーラーボックスからビールを一つ拝借するとテント前のチェアに座って缶を開けた。


 彼は焚き火用のガスや網を用意している。一見するとどれが何の部品かも分からない機材たちを迷いなく手に取り、何度も繰り返し楽しんだパズルを今また埋めていくように組み立てていく。


 ビールを飲みながら顔を上げる。周囲にも同じような車とテントの群れがあり、その周囲を森の木々が取り囲み、その先には富士の大きな山が晴天の青い空の中で雄々しく立ち望んでいる。圧倒されるくらい近いその姿を他のキャンパーたちがそれぞれ写真に収めていく姿を見て、僕も真似するようにスマートフォンで写真を撮った。


 それにしても、こんなにもキャンプを楽しむ人々が多いとは思わなかった。到着するなり「出遅れた」と呟いていたトニムラの気持ちも分からなくない。互いに距離を取りつつ、それぞれが思う絶好の位置に自分のテリトリーを作らないといけない中で、この混雑具合は確かに致命的だ。幸い、丁度テント二つ分を立てられるスペースを見つけたので難は逃れられたが。


 景色を見ているうちにあっという間に飲み切ってしまったビールを地面に置いて、僕は深く息を吸う。



 なんとなく、ここはとても呼吸がしやすかった。



 いつも感じている息苦しさとか、胸の内の泥のように溜まった不安が溶けていったようで、とても身体が軽い。


「どうですか、大自然の空気は」


 焚き火をつけ終えたトニムラがビールを片手に隣のチェアに座る。僕の飲み干した缶を見ていたのか、彼は二本目を僕に手渡すと、無遠慮にその缶に自分の缶をぶつけて飲み始める。喉を大きく動かしてビールを飲み下していく彼の豪胆な姿を見て、僕もそれを追うように二缶目のビールを開けた。


「なんか、楽だ」

「分かります。なんか楽なんですよね」


 そう言ってトニムラは再びビールを呷る。


「やってることなんてシンプルなんですけどね。ただ自然のある中にテント張って飯食って帰る。それだけ。なのに、時々こういうところで深呼吸するだけで、気持ちが晴れるんですよね」

「これが自然の開放感ってやつなのかな」

「みんな、頭でっかちになりがちだから、時々こう言うところでちっぽけになりたいんじゃないですかね。まあ、俺もそんな感じで今ここにいるんですけどね」

「ちっぽけ」


 僕が繰り返すと、彼は頷く。


「自分の部屋でも、仕事場でもなんでもいいんですけど、自分を取り巻く環境とか時間の中にいると、どうやっても自分を中心に考えちゃうんです。だって自分の人生の主役は自分だから、俺という主役が幸せになるには、目の前の問題を解決するにはどうしたらいいのか、なんて毎日考えて、主役であることに対する重圧に心のどこかでやられちゃうんですよ。だからこういうところに来てちっぽけになって、ちょっとでも気持ちをリセットするんです」


 彼の言葉を聞いて、僕は再び周囲のキャンパーたちを眺める。皆、思い思いに自然を楽しんでいる様子が見られた。勿論その中には家族連れもいるが、子供たちと一緒に子供のようにはしゃぐ彼らの姿を見て、トニムラの言葉もあながち間違いではないのかもしれないと思う。


「都会疲れってヤツですよ。聞こえ方は洒落て聞こえますけど、ほら、俺たちの住んでいる町とか環境ってすごく狭いから、それだけかかる重圧も重たいんです。同じ量でも小さなコップと洗面器なら、入る量もかかる水圧だって変わる。だから俺は、自分を救うためにこういうところに時々来て、リフレッシュするんです」


 そう自分を語る彼の横顔は、普段よりも生き生きとして見えた。見間違いではないのだろう。なぜなら彼は意図的にそうなろうとしてここに来ているのだから。自分を殺さないように、生命活動の一環としてこの広大な環境に移動してきている。


「なんてカッコつけてますけど、要するに気分転換してるだけです。友人に一度誘われてから結構自分に合ってることに気がついて。それに俺、ハマるとどこまでも掘っちゃうんで、気がついたら車もアウトドアできそうなものにしちゃってました」

「いや、立派だと思うよ。僕にはとてもじゃないけどできないから」

「だと思ったんで、連れてきました」

「遠慮がないな」


 僕の言葉に彼はなぜか嬉しそうに笑う。


「だって、ヨドノさん、このままいったらどっかで死んじゃいそうだなって思ってましたから」


 彼の言葉に顔を上げた。

 トニムラは穏やかな顔をこちらに向けていたが、目は笑ってはいなかった。


「俺、ヨドノさんの事情は全く知らないですけど、時々思うんですよ、それ、ヨドノさんが抱えるものなのかなって。なんか余計な荷物まで背負ってないかなって心配になります。ほら、ヨドノさん器用だし仕事も結構早いから、そういう人ってその分抱える必要のないものを抱えがちだから」

「そんな風に見えてたのか」

「俺の友達で、抱えすぎておかしくなったヤツがいて、ヨドノさん、そいつとどこか似てるんですよ」


 彼の言葉を聞いて、僕はビールを一口飲む。


 僕は、抱えすぎているのだろうか。こうして改めて考えると、その振り返り方をしたことはなかったかもしれない。ただ目先の物事に一生懸命だっただけなのだけれども、確かにそれは僕の主観であって、周囲からするとどこか噛み合わない歯車のようだったのかもしれない。


 自分をちっぽけな生物の、集団の一人として過程した時、確かに僕は周囲に比べて必死に走っている。その場に留まり続けたら、安定した環境に身を置くのが怖くて走り続けていた。新しい負荷を求めて忙しなく動き、今の環境に適応することに必死になることで自分を守ってきたのではないか。


 押しつぶされそうな自分を振り返るのが嫌で、深く物事を考えることが怖くて。


「なあ、トニムラ。僕はどうしたらいいんだろう」

「どうなりたいんですか?」

「それが分からないんだよ、ただ必死に生き過ぎて、周りの歯車と一緒に日々が安定して回るように必死で、周囲の歯車として上手く回るようにだけ考え続けてきてしまったから」

「どうなんでしょうね」

「何かアドバイスくれるかと思ったんだけどな」


 トニムラは困った顔で笑い、首を横に振る。


「無理ですよ、俺自身毎日悩むことばっかりです。そんな俺がヨドノさんに最適解をぶつけられるわけないじゃないですか」

「それもそうか」

「俺にできるのは、自分のリフレッシュ方法にあなたを巻き込むことくらいです」


 夕飯の準備をしましょうか、と彼はビールを飲み干して潰しながら立ち上がる。ヨドノさんはそのまま座っていてくださいと念押しされてしまい、彼の言葉に甘えてチェアに深く座り、目を閉じた。


 普段から吸っている筈の空気が、やけに澄んでいて、呼吸をする度に冷たい空気で膨らむ肺に心地よさすら感じられた。目の前で燃え盛る焚き火の水分が弾ける音と、ざわざわと擦れ合う草木の音と、遥か遠くから囀る鳥の声が聞こえる。


 雑音、と言えば雑音になるのかもしれない。ただ、普段聴いている人工的なものと違い、自然が鳴らす雑音たちは、僕たちの存在を気にすることなく、ただ己の為に音を鳴らしているようだった。


 いや、元々はそういうものなのかもしれない。僕が何かに追われるように生活をしていようとも、仕事をしていようとも、時間も環境も変わらずただそこにあって、ただただ流れていくものでしかない。


 それらを時間という括りで一まとめにして、あたかも自分が動かないと世界は進まない、と考えること自体ナンセンスで、傲慢だ。もし僕が世界に与える影響なんてちっぽけなものでしかないのだとすれば、むしろ僕は、もっと自分本位に生きていいのではないだろうか。


 目を開くと、トニムラはくつろぐ僕に構うことなく食事の準備を進めている。


 ナイフで食材を切りながら、彼のこだわりで揃えられた調理器具たちを鼻歌混じりで扱う姿を見ていると、なんだかひどく自分が寂しい存在に思えて、それから彼に対する羨ましさのようなものが胸の内に滲み出てくることを感じた。


 それらを誤魔化すようにビールの残りを飲み干して、もう一度目を閉じて自然の音に耳を傾ける。


 ミシマは、今何をしているだろう。


 瞼の裏に彼女の姿が映った後、焚き火の弾ける音と共にその姿が消えていった。


   ○


 彼との食事を楽しんでいるうちに周囲はすっかり日が落ちて、空には星が煌めき始めた。水平線に滲む濃紺の空は、あっという間に夕焼けを飲み込み、深い闇に包まれた空の中で、富士のシルエットだけがその存在をはっきりと示している。


「星を見たのなんて、いつぶりだろう」

「街中だと見えないですもんね」

「あんまり空を見上げることもなくなったよ」

「スマホの見過ぎじゃないですか」


 僕の言葉に適当な返事を返し、トニムラは残ったシーフードパエリアを自分の器に残らず移すと別に仕込んであったスキレットを火元に置く。マシュマロとスイーツ、チョコレートを敷き詰めたそれは熱を帯びて甘い香りを漂わせ始める。


「トニムラ、甘いものも好きなんだな。知らなかったよ」

「昼しか行ったことないんだからそうでしょう。俺だってヨドノさんの好きな飯とか趣味とか何も知らないですし」

「そうだよな」


 今まで様々な人と距離を置いて生きてきた。家庭環境がとか、交友関係が上手くいかなかったとかそういうきっかけはなくて、ただただ積み重ねていった結果、いつの間にか自己評価が低いヨドノシュウという存在が生まれていた。



 誰も僕に興味がないと思ったのだ。だから、語る必要がないと。



 でもそれこそが何よりも傲慢で、他者を遠ざけていたものなのかもしれない。



「僕はさ、彼女が失った恋人の代理なんだよ」


 何か、自分のパーソナルな部分について語ろうと思った時、ぽつりと出てきた言葉はそれだった。


 まるで懺悔でもするかのようなその言葉を聞いてトニムラは一瞬僕を見たが、再び顔を伏せると、手元の焚き火に薪を焚べる。


「自殺だった。これは弟から聞いた話だけど、なまじ優秀だった分家族や会社、友人からもよく期待をかけられる人だったんだってさ。

「休まらなそうな環境ですね」


 僕は頷く。


「多分、彼も必死だったんだと思う。仕事に忙殺されて、ミシマとも少し喧嘩っぽくなってたのかな。自分のキャリアとこれからの生活とか、大学を出た途端に積み上がった色んな重圧にずっと耐えていたんだと思う」


 飲み終えたビール缶を見つめていると、トニムラは次の缶を渡してくれた。環境のせいもあるのだろうか、今日は全く酔う気がしない。


「ある日、そんな彼に異動の打診があった。会社からすれば今後のキャリアも含めて期待を込めて、様々な環境を経験してほしいという意味もあったんだろうけど、ただ会社はコミュニケーションを間違えたんだ。今精一杯やっている部署やプロジェクトから外される。何かに負けてしまったと思った彼はだんだん不安定になっていってしまった」

「彼女さんとか、家族とか弟さんには相談できなかったんですか?」

「したらしいけど、一過性のものだと思ったらしい。ちょっとしたリフレッシュくらいはきっとすぐに切り替えてまた優秀で、立派な彼に戻るだろうと思っていたんだってさ」

「でも、戻ってこなかった」


 焚き火が大きくぱちんと弾けて、焚べていた薪が崩れていく。


「全部ボタンの掛け違いで、一言何かかける言葉が違えば状況も違ったのかもしれない。むしろ彼自身がもっと弱みを見せられる人だったらこんなことになっていなかったのかもしれない。彼女とか弟から聞く彼の姿からするに、彼はきっと期待を背負い続けてここまで戦ってきた人だったから、綱渡りみたいなもんだったんだろうね」


 周囲からの期待と、優秀な自分という吊り橋をヤサカマサトは渡り続けてきた。助ける側の人間として生きて、けれども誰からも助けてはもらえない。助けが必要だとすら思われない。


 自分に自信の持てなかった僕とは違った意味で、彼は一人で生き続けないといけなかった。


 そんな中、初めて味わった遅すぎる挫折は、その吊り橋を切り落とすには十分なものだったのだろう。差し伸べられる手も取れずに転落していった結果が、死だった。



「亡くなった元恋人さんにとっては、チャンスだったんでしょうね」



 トニムラの言葉を受けて僕は顔を上げた。


 彼はビールを飲みながら続ける。


「かなり疲れたでしょうね、そういう生き方。誰かに期待され続けるってことは、自分でゴールが設定できなくて、その期待が多いほど応えることばかりで自分のことを振り返る時間も作れないでしょうから。挫けたっていうよりは、やっと「優秀で周囲からも自慢の存在」っていう看板を下せるチャンスだったんじゃないですか」

「だから、死んだ?」

「いや、というよりは下す手段が他に見つけられなかったとかじゃないですかね。挫折と感じた瞬間はきっとまだ折れてなかったと思います。むしろ彼はまたすぐ期待の兄貴になる、期待の恋人になる、期待の息子に、友人にと諦めさせてもらえなかったことを受けて、手放せる手段がそれしか思いつかなかったのかなって」


 ナイーヴな話題に持論を言ってすみません、と最後に彼は付け加えると、すっかり焼き上がったデザートを取り分けてくれた。


「俺、食後はマシュマロ焼くんですよね。普段だと甘ったるくてキツいんですけど、どうしてでしょうね、こういうところだといけちゃうんです」

「環境の違いでこんなにも変わるものなんだって、今日初めて知ったよ」


 受け取ったフルーツとマシュマロ焼きは絶品だった。濃厚なマシュマロの甘味を。フルーツの酸味が程よいバランスで中和してくれている。


「食後はこっちがおすすめです」


 そう言って彼は、ビールの代わりにレモンサワーを取り出して僕に手渡した。よく知っている銘柄だ。

 ミシマがいつも飲んでいるレモンサワーのラベルをしばらくじっと見つめた後、プルを引いて一口飲む。レモンの皮を感じさせるほろ苦くて強い酸味と炭酸の喉越しが爽快で、デザートともよく合う味だった。


「一度、彼女と話してみようと思う」

「何をです?」

「色々。僕が代理でしかないって話も、僕がどんな想いでこれまで彼女と付き合っているかも。切り出すなら、思い立った時だろうから」

「ヨドノさん、彼女さんのことをすごく好きなんですね」


 トニムラの言葉に僕は少し動揺する。トニムラはだって、と言葉を続ける。


「じゃなきゃ、代理と分かっていながら隣になんていられませんよ」

「そう、かな」

「これでただの代理役だとは思えませんよ」


 丁度良い話題の切りどころだと思ったのか、彼は一呼吸入れると、それじゃあ俺からもパーソナルな相談を、言った。それから改めてチェアに姿勢良く座り直すと、僕のことをまっすぐに見つめる。

 普段のようなおどけた様子はなく、どちらかと言うと営業マンの時に近い印象を受ける姿だった。


「俺、独立考えてるんです」

「独立?」


 彼は頷く。


「今いる会社にこのままいても、年功序列で繰り上がっていくくらいで先なんて見えてるし、一回くらいなら失敗したって痛くないですから、一か八か、せっかくなら面白く転がりそうな方に行きたいと思って。といっても打算はちゃんとありますし、そこまで無謀な立ち上げじゃないですけど」

「なんか、トニムラならどこ行っても上手くやってそうなイメージあるよ」


 普段から自分の為に打算的に動ける彼を知っているから、独立という言葉も不思議と現実味を感じられた。


 僕やヤサカマサトも、彼のように自分の好き嫌いを起点に物事を考えられていたら、こんなにも息苦しくはならずに済んだのかもしれない。


「それで、ヨドノさんも来ませんか?」


 彼の言葉に僕は驚いて顔を上げた。トニムラの目は真剣そのもので、眼鏡越しにまっすぐ僕を見つめていた。


「デザインとかそういう領域に見識のある人が足りてないんです。俺、ヨドノさんなら信頼できるんで。もし一緒にやれるなら、面白くなると思ってて」

「僕が?」


 彼は頷く。


「ヨドノさん、もっと自信持っていいですよ。貴方は努力できるし、誰かのことをちゃんと考えて動ける人だ。だからもう少し、自分を好きになって生きてもいいと思うんです。勿論独立がそういう生き方かは、正直分からないですけど」

「いや、ごめん、まさかそんな買ってくれるとは思わなくてさ」

「別に今みたいにテレワークで問題ないんですけど、職場が少し変わるのがネックなんですけどね」

「どれくらい?」

「ヨドノさんの最寄りの駅からだと、一時間くらい」

「遠いな」

「年収とかは同じくらい出せる算段です。そこから先は業績次第ですけど」


 トニムラの言葉を聞きながら、僕は自分のこれからを想像してみる。


 仕事が変わり、家も変わる。

 長い梅雨の中、窓辺から眺め続けたあの集合住宅とも別れることになる。ミシマと二人で生活し続けたあのワンルームを引き払って、新しい住居に移り住むということを僕は想像する。


--グレート・マイグレーションだよ。


 彼女があの日囁いた言葉が耳元で聞こえた気がした。


 果たして、その大移動にミシマもついてきてくれるだろうか。


「やっぱり、彼女さんですか」


 トニムラの言葉に僕はゆっくりと頷いた。


「トニムラの誘いは嬉しいし、そういう選択もありかもしれないと思ってる。ただ、この誘いも含めて一度彼女と話す必要があるよ。だから、少しだけ待っていてもらえないかな」

「勿論、今日答えを出さないといけないもんでもないですから。結論が出たら連絡してください」

「トニムラはいつ辞めるの?」

「年末で考えてます。立ち上げまで少しかかりますけど、ちょうどいいかなって思って。少し長めの冬休みでも取ってリフレッシュしようかと」


 彼の用意周到さに驚きながら、決断とは得てしてそういうものなのかもしれないとも思った。


「もしトニムラの誘いを受けるなら、似たような動きがいいね、来月中には答えを出すよ」

「大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫」


 彼に答えた後、大丈夫だと僕は胸の内で繰り返す。ミシマとのことも、ヤサカとのことも、ヤサカマサトとの関係も、きっと話し合えるはずだ。

 僕たちは、ここまであまりにも曖昧な関係のまま生き続けてしまった。



 恐らく、ここが分水嶺だ。



「ヨドノさん、また飲めます?」

「まだまだいけるよ、夜は長いしね」

「よかった、ウイスキーで良いの貰ったんですよ、食後の晩酌まで取っておきたくて」


 酒を取りに行くトニムラを横目に見送り、それから僕は目の前に広がる夜空を見上げる。


 深く青く染まった空には、燦然と星が煌めいている。それぞれがそれぞれ、自分の存在を主張するように強く、時には点滅しながら、その存在を知らせていた。


 焚き火と葉音と、それから冷たくて澄んだ空気を飲み込みながら、僕はトニムラの入れてくれたウイスキーを口にする。

 ハッキリとした味と深く抜けるような香りがとても特徴的で、それがまたこの環境にとてもマッチしていた。

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