11.放物線の先へ
結婚するんだって。
ミシマは開口一番そう言った。
恋人との三度目の別れを終えた彼女はひどく憔悴しきっていて、肌は荒れ、輪郭も骨ばって見えた。
彼がこちらにいたとされる期間、彼女が着続けていた喪服にはすっかり皺が寄り、袖口から伸びる二つの細い腕は皮膚が張り付いたように細くなっている。
まるで、死人のようだ。
人は、たった数日でこうも変わり果てるものだろうか。身に宿した活力の全てをごっそり持っていかれて、それでも死ねなかった燻った魂だけが還ってきたように、彼女の身体からは生きるために必要なものが殆ど失われていた。
そんな彼女の姿を見ていられず、僕は目を逸らすと一言だけ、「そうなんだ」と答えた。
ヤサカの結婚話は、元からあり得ると思っていた話だった。元々そのきっかけの縁談を僕は彼女よりも先に知っていたし、何よりもヤサカの親御さんのことを考えると、いつかはそういう日が来ると思っていた。
ヤサカは予め整えられたマッチングの場に立ち会い、そして殆ど確定事項のように親族達に囲われた場で、首を縦に振っただけだ。そこに愛という不確かな絆が微かでも築かれたかどうかは正直定かでない。ただ、少なくとも彼の両親たちは、心底安堵したことだと思う。一人失った分、もう一人は幸せにできたのだから。
その考えに果たして本人の想いがどれほど含まれているかは分からない。ただ、一方的であれそこには確かな愛情があった。ヤサカは、その愛情に応えただけだ。仮に反故にしたとして彼らは弟の意思を尊重しただろうが、彼は敢えてその愛を受け入れることにした。
「私、もうマサトくんに会いに行かない方がいいかな」
「どうして?」
「リョウくんも、お父さんもお母さんも、マサトくんを思い出にしようとしてるのに、私がいたらそれができない」
喋り続けるミシマに、僕は口を閉じて相槌だけを打つ。聞いているのか、聞いていないのか、彼女にはどうでもいいことなのか、ミシマはこちらを見ることなく続ける。
「リョウくんが縁談を受けたって話、すごく盛り上がってた。マサトくんの思い出話よりもずっと。なんならリョウくんの話の方が多かったくらい」
彼女は目元を拭うと、取り繕った笑みを浮かべて僕を見た。
「もうみんな、前を向きたいんだろうね。その為のきっかけがリョウくんで、あの時の後悔も、罪悪感も、全部忘れて、幸せになりたいんだろうなと思ったら、じゃあ、私はどうするのが正解なんだろうって、分からなくなっちゃった」
「リョウヘイ達は、幸せそうだった?」
「お祝いだったよ。ようやく身を固める気になったかって、お父さん嬉しそうだった。式の時は、マサトもきっと来てくれるなんて言ってさ」
ミシマは絞り出すようにそう言い終えると、シャワー浴びてくると言って浴室へと消えていった。乱れた髪をそのまま、限りなく死に近くなった彼女の姿を見送ってから、僕はベッドに転がる。
開け放った窓の外からは今日も変わらず子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。いつも通り変わらないその朗らかな声とボールが弾む音を聞きながら天井を見つめる。
不意に、シーリングライトから五センチほど左に黒いシミがあることに気がついた。あれは、前からあったものだったろうか。普段気にしたこともなかったそのシミを見つめていると、心なしかそれがゆっくりと広がっていく錯覚を覚えた。何度か瞬きをするとそのシミは元のサイズに戻った。
--ヤサカマサトの話を、果たして僕が受け止める必要があるのだろうか。
天井のシミのようにじんわりと脳裏に浮かぶその言葉が、天井のシミと同じように僕の胸の中で広がっていく。これまでも時々感じていた言葉だ。僕が気にしないふりをして先送りをしていただけで、その疑問は恐らく、彼女と付き合うようになった頃からずっとあったものだった。
はじめはミシマが救われるのなら、それで良かった。彼を悼みながら、それを隣で支えていけるのならば、と。いつかそれで前を向く彼女の姿が見られたらと思っていた。
--必要とされたいヨドノさんと、抱かれていたいミシマさん。その関係を何ていうか、ヨドノさんは知っていますよね
脳裏でトニムラの声が遠慮なく僕に囁く。
--知ってるよ、共依存ってやつだろ。
--じゃあ、それが共依存だったとして、ヨドノさんはその先どうしたいんですか。
トニムラの声が僕の耳元で囁いた。それがあまりにも鮮明で、思わず僕は起き上がって周囲を見回した。いるはずなんてない。今の声は僕のイメージで、ただの自問自答でしかない。自分で自分に問いかけたくなくて、思いつく中でその言葉を口にしてくれそうな人を探して、当てはめただけだ。
シャワーの音が止まって、洗面所の扉が開く。
ミシマは濡れた髪をタオルで拭きながら裸のまま出てきた。喪服に身を包んでいた時もやつれて見えたが、裸になるとより一層その細さが顕著に感じられる。
骨ばった腕と足。胸の膨らみの先で浮いた肋。鎖骨には皮膚が張り付いている。健康的な時の彼女を知っている僕からしたら、明らかに異常な体つきだった。
彼女を見つめる僕を見て、ミシマはうっすらと微笑むと隣に腰掛ける。
「シュウくんがいて良かった」
「どうして?」
「帰る時にね、家にいるシュウくんを想像したの。どれだけ不安になっても、孤独を感じても、私にはシュウくんがいる。私の生活は一人じゃないって思えたから、ここまで帰って来れた」
彼女は僕の腕に触れた。まだ湿り気とシャワーの熱残る生々しい体温に、普段ならきっと僕は興奮しただろう。だが今は胸焼けのような不快さが迫り上がってきて、耐えきれなくなった僕は反射的にその手を振り払ってしまった。
「シュウくん?」
「風邪ひくよ」
僕は目を伏せたままそう言った。しばらく彼女は何かを言いたそうに言葉にならない掠れた声を漏らしていたが、やがて諦めたのか何も言わず立ち上がり着替え始めた。
明確な拒絶による罪悪感と、湧き上がる不快感の捌け口が分からなくて、彼女が着替えている間、僕は拳を握りしめて、立っていることしかできなかった。
その時、重たい空気を孕んだ部屋の静寂の中で、ノックの音がした。
着替える彼女を横目に僕は玄関に向かうとドアスコープを覗き込む。そこには、ヤサカの姿があった。
扉を開けると、彼はいつものカラッとした笑みを浮かべ、「よう」と軽い挨拶と共に部屋に上がった。
「リョウくん?」
「お、ちょうど良かった。ジュンコも帰ってきたところか」
「何かちょうど良いんだ? お前だってさっき帰ってきただろ、流石に休めよ」
「まあまあ、ようやく墓参りも終わってスッキリしたからさ、出かけたいところがあるんだ」
ミシマは複雑そうな表情を浮かべている。
「今からか?」と尋ねると、彼は冷蔵庫を無遠慮に開けてレモンサワーを二つ取り出し、僕と彼女に向かって投げ、そして「今から」と言って彼は笑った。
「海行こう、海。車は出すから」
○
彼の運転する車の後部座席に二人で収まって、無言でレモンサワーを飲んだ。
拭いきれなかった険悪な空気の気まずさを誤魔化すように僕たちは無言のまま缶に口をつけ、時折外の景色を眺める。ミシマも全く同じように窓の外の流れる景色を眺めながら、黙々と酒を飲み続けていた。
「リョウヘイ、どこに向かってるんだ?」
酒にも、沈黙にもうんざりした僕はヤサカに尋ねる。
「海だよ」
「海?」
「逗子海岸。あの辺りの海はいいぞ、飯もおしゃれで美味い」
逗子海岸。僕は頭の中で地名を反芻する。
確かに正午前のこの時間から突発的に行って、それなりに綺麗な海を見るとしたら一番近いのはそこなのかもしれない。だとしても何もかも急過ぎだ。場所が分かっても今度は海に向かう理由が分からない。
「マサトくんが好きだったんだよ、彼、マリンスポーツが好きだったから。逗子の辺りは特に静かでいいって、私もよく連れていかれてた」
釈然としない僕の様子を見透かすようにミシマは補足するように言った。
「その通り。兄貴が好きだったところなんだよ。それに今年、仕事が忙しくて海に行けてなくてさ。ショウも今年は行ってないだろ」
「まあ、うん」
彼の問いに曖昧な返答をする。
実際のところ、ミシマと海に行った自体、これまで一度もない。誘ったことはあったが、彼女は誘いの度に複雑そうな顔をするから、海があまり好きではないと思っていたのだ。プールも同様に乗り気でないことが多く、泳ぐのが苦手なのだと最初は思っていた。
だから、今の話でようやくこの三年間の疑問が腑に落ちた。
彼女は避けていたのだ、ヤサカマサトが好きだった海を。
未だ彼女の中に生きている彼と僕とが重ならないように、彼が塗り潰されてしまわないように。
「海、好きだったんだ」
少し棘のある言葉になってしまった気がする。それでも彼女は少し間を空けてから、小さな声で「うん」と呟いた。
「てっきり苦手なんだと思ってたよ」
「ごめんね」
「なんで謝るんだ」
「うん、ごめん」
ただ謝るだけになってしまった彼女に、これ以上何を言っても仕方がないと思い、僕は窓の外に目を向ける。
その空気を察したのか、ヤサカが軽く咳払いをする。
「俺と兄貴さ、親父の仕事の関係でそっちの方に住んでたことがあるんだ。中学生くらいの頃だったかな。俺はそこまでハマらなかったんだけど、兄貴の方は随分気に入ったみたいで、何よりも海を優先するくらい好きでさ。俺が新しい友達作ってサッカーとかして遊んでる中、アイツはいつも大人に紛れてサーフィンとかやってるんだよ。お陰で中学じゃ影の薄いヤツって扱いになってたけど。でもアイツ、そんなのどうでもいいってくらいに湘南の海を気に入ってた」
ヤサカはウィンカーを点灯させて右に曲がり、高速に乗るとアクセルを踏み込んで速度を上げた。
「転勤族だったからいつかはまた引っ越すんだろうなって心のどこかで思ってたし、俺も兄貴も引っ越しには慣れてたんだけど、その時、初めて泣いて嫌がったんだ、兄貴。ここにずっと住みたいってさ。兄貴ってあまり感情的になるヤツじゃなかったから、こんな鼻水垂らすくらい泣くんだってビックリしたよ。まあ、結局ガキ一人のわがままなんて通ることなくて、埼玉の方に引っ越して、そのまま家も買って落ち着いたんだけどさ」
「埼玉か」
「そう、埼玉。兄貴からしたらショックだったんじゃないかな。あんなに海を求めていたのに、陸しかない街に永住することになってさ。でもアイツ、あれだけ泣いたのに、それっきり海の話も何もしなくなって、当たり前のように学生生活を続けてたよ。そこから兄貴はずっと完璧だった。でも今思うと、全部自分で抱え込んでたんだろうな。アイツの悪い癖だった」
「悪い癖?」
ああ、とヤサカは呟いた。バックミラー越しにちらりとミシマを見て、それから言った。
「兄貴が死んだのは、自殺なんだ」
隣に座るミシマは何も言わず、ただレモンサワーを飲んでいた。彼は続ける。
「職場で色々あったのと、過労かな。普段とあまり様子が変わらないから、誰もそんなに思い詰めているなんて気がつけなかった。風呂で見つかったよ、大量の薬飲んでた。見つかった時はもう手遅れだった」
無言だったミシマから堪えるような嗚咽が聞こえる。隣を見ると、両目に溜まった涙が頬に何本も轍を作って流れている。時々鼻を啜りながらレモンサワーを飲む姿から、彼女が誰よりも彼の存在から離れられていないことが分かる。
僕が隣にいても、彼女は今もヤサカマサトと一緒にいる。
○
ヤサカマサトが自殺であるとヤサカが告げてから、彼女は滔々と彼との思い出を語り始めた。
初めて出会ったのは大学の頃で、その時既に彼が働いていたことや、誕生日には必ず盛大に祝ってくれて、プレゼントもどんなに要らないと言われてもブランド物を選んでいたこと。デートの時にレンタカーで震えながらも運転してくれた時は、あまりにも下手な運転に不安になりながらも、そんな彼の弱いところがとても素敵だったところとか。
忘れまいと自分の脳裏に刻み込むように反芻されるその記憶の奔流に、僕もヤサカもただ身を任せるままに話を聞いていた。例えどこで止めたとしても、彼女は自分の記憶の中のヤサカマサトを求めて語るのだろう。まるで記憶が存在を形作るかのように、彼を全て忘れて、喪った時こそが死とでもいうかのように。
彼女は今も、群れの中に戻れないでいる。
切り替えることすらもできず、そこに留まるだけの存在だ。彼女には過去も未来もない。ただ目の前にある現実を後生大事に抱えることしかできない。そんな人を、どうやって僕なんかが救えるのだろう。
--ヤサカマサトの代わりになって欲しいんだ。
彼女と付き合うことになった時に、ヤサカが言った言葉を思い出す。深く沈む彼女の心をそっと掬い取るように引き上げて、優しく抱きしめて、その身ごと満たして、目の前の悦楽に享受させるような、完璧な行いが必要だと彼は言った。
でも、それは僕には無理だった。平凡な僕はどうやっても彼のように完璧にはなれない。完璧で唯一無二だった恋人を失った彼女に、どうやって僕が立ち向かえるというのだろう。
「さて、着いたぞ」
ヤサカの声で我に返る。車は小さなコインパーキングに停まっていた。降りると、どこからか潮の匂いと、漣が聞こえた。よく見ると足元のコンクリートには細かな砂が積もっていて、そこら中に海の痕跡があった。
ミシマは少し落ち着いてきたのか、それとも酔いのおかげなのか先ほどまで強張っていた身体はすっかり緩んでいた。しかし暗く思い詰めた表情はそのまま変わらない。
「行くか」
ヤサカに連れられるまま小道を歩き、公道までたどり着くと潮の香りと漣はより気配を増す。
海に向かう道中、ヤサカはずっと荷物を大事そうに抱えていた。市販のビニール袋の中に瓶のような何かが見えたが、それがなんなのかはよく分からなかった。
海は、広く、雄大だった。
均等な細粒でで埋め尽くされた砂浜は柔らかな流線型を描き、海辺に近づくに従って水を吸って固く、暗く深くなっていく。そしてその陸の境目を撫でるように白波が砂浜を攫っていく。水の飛沫の音なのか、砂の削れる音なのか、漣は波の高さに合わせて寄せては返し、強弱をつけて砂浜を飲み込み吐き出している。
「曇っていてよかった。暑いのは嫌だったから」
そう言ってヤサカは両手を広げて大きく息を吸う。夏の果てになってもまだ地を焼く太陽の姿は今日は雲に隠れて、蒸し暑さだけをその場に残していた。空の青さを写した水面はより青く、濃い色で輝き、曇りの薄暗さも手伝ってやけに周囲が青く見えた。
「さてと、さっさと終わらせるかな」
そう言ってヤサカが山を切り崩すみたいにザクザクと砂浜に無遠慮に足を踏み入れて歩いていく。僕も慌てて彼の後を追おうと一歩踏み出して、ふと隣のミシマが気になって目をやった。
彼女は棒のように立ち尽くし、両手を抱えたままヤサカを見ていた。怯えるようなその表情を見て、僕はなんだかひどく腹が立ってしまった。本来なら心配すべきなのだろうけれど、それよりも、腹の底が沸々と煮えて、吐き出せない感情の塊を奥歯を噛み締める形でなんとか抑え、彼女の手を掴んだ。
「ミシマ、行こう」
「あっ」
僕は強引に彼女を砂浜へと引き込んだ。動きやすいスニーカーを選んできて正解だった。足元に容赦なく侵食する砂に構わず僕はミシマの手を引く。
薄氷の上を踏むみたいな生活だった。
けれども、それがここまで続いたのは、互いに何かしか共振するものがあったからで、互いに不確実で曖昧な日々だったけれど、何かきっかけがあれば、ただ愛し合える関係になれたと、そう僕は信じている。
ヤサカは誰もいない海辺の端にたどり着き、海岸線の端に突き出た堤防に登るとその先端を指差した。
僕もミシマを引き上げて堤防に上った。彼女の手は拒むことも受け入れることもなく、ただ怯えたように震えていた。流れに身を任せるようなその様子に、また僕は腹が立った。
「ヤサカが何をするのか、ミシマは知ってるんじゃないか?」
「……知ってる」
「少なくともアイツがすることにはそれなりに意味がある。ミシマも、見届けようよ」
ミシマの手に微かに力が入った気がした。抵抗するような、僕の手を引くような力だ。僕はその抵抗を気のせいだと考えて構うことなく、堤防の先で待つヤサカの元まで彼女を無理やりに連れていった。
「シュウなら、連れてきてくれると思ったんだ」
堤防の先端にようやくたどり着いた僕たちを見て、ヤサカは珍しく朗らかな笑みを浮かべていた。いつもの闊達で活力に溢れた笑みではなく、どこか荷が降りたかのような笑みだった。
「これを海に撒きたくてさ」
そう言ってヤサカがビニールから取り出したのは、小さなガラスの小瓶だった。中には白い粉末状のカケラが詰まっていた。
「それが、マサトさん」
見ただけで大体のことは理解ができた。ヤサカは僕の言葉に頷いた。
「と言っても、勝手に持ってきたし、申請もなんもしてないからバレたら多分ヤバいんだけどな」
「本当に、やるの?」
その問いかけに、僕とヤサカはミシマに目を向ける。
ミシマは僕の手を振り払うと後退りし、自分の身を守るかのように強く自分の身体を抱き寄せ、強張った表情で僕たちを睨んでいた。ヤサカは特に怯むことなく手元の小瓶を揺らす。
「まあ、兄貴の遺言だしな」
ヤサカはそう言って手元の小瓶を真上に投げ、落ちてきたのをキャッチする。
手頃なお手玉で戯れるみたいなその小瓶の扱いにミシマが息を呑む音が聞こえたが、彼は構うことなくそれを続ける。
「最期は海が良いから、もし死んだ時は海に撒いてくれって頼まれてたんだ。まあ、本当に撒くことになるとは思わなかったけど」
「ずっと持ってたのか?」
ヤサカは頷いた。
「本当はさ、死んですぐに撒こうとしたんだ。でもなんか手放せなくて、上手くいかなかったんだ。多分、心のどこかで何か引っ掛かってたんだろうな。でも、それもようやく終わった」
彼はそう言って小瓶の蓋を開けると、大きく振りかぶり、思い切りそれを投げた。
あ、というミシマの声と共に小瓶は放物線を描いて飛んでいき、水面に消えていった。
着水音はなかった。
小瓶を投げ終えると、ヤサカはしばらく自分の手元を見つめていた。背後で何かの倒れる音が聞こえて目を向けると、ミシマはその場に座り込んでいた。口をぽかんと開けたまま、小瓶が描いた放物線の先をずっと見つめている。
ヤサカは大きく伸びをすると深く深呼吸をして、それから踵を返して僕たちをそれぞれ見た。
憑き物が落ちたみたいにすっきりとした表情をしている彼を見て、はじめに浮かんだ感情は、嫉妬だった。
「俺、結婚と合わせてもう一つ決まったことがあってさ」
「なんだよ」
「異動も決まったんだ。来期から海外の支店だ」
ヤサカの言葉に僕は思わず息を呑む。
「そんな、都合のいいことがあってたまるか」
「ほんとだよな、俺もびっくりした」
彼はそう言って肩をすくめて笑い、それから僕に歩み寄ると、手元に何かを握らせた。彼から手渡されたものを見ると、それはさっき投げた小瓶の蓋だった。
「色々悪かったな。もう、兄貴の代わりはおしまいでいい。ミシマとどうなりたいかは、お前に任せるよ」
そう言って彼は僕の肩を叩くと早足に歩き始める。振り返った時には座り込むミシマの横をすり抜け、堤防を渡り終えると振り返り、大きな声で「車で待ってる」と叫び、海辺を去っていった。後に残されたのは、僕と、座り込んでままのミシマだけだった。
無言のまま立ちすくむ僕と、何も言わず俯く彼女の間を波の音が何度も横切っていく。
何か話さないといけない。
話さないといけない。
でも、一体何から話せばいいのだろう。
脳裏に言葉はたくさん湧き上がるのに、そのどれもが不正解のように思えて、声に乗せることができない。僕と彼女のこれまでを表す為の、最適な言葉が見つからない。
「ねえ、シュウくん」
僕が言うべき言葉に悩んでいる間に、最初に口火を切ったのはミシマだった。
ミシマは立ち上がると、朗らかな笑みを浮かべながら乱れた髪を手櫛で直し、服の皺をならしていく。丁寧に、優しく撫でるように。その一連の所作は、僕がいつも見ているミシマを感じさせた。すっかりやつれてしまったのに、仕草が彼女を僕のミシマにした。
彼女は僕の先を一瞬見つめ、再び視線を戻すとにっこりと笑う。
そして、こう言った。
「別れましょう」
彼女の言葉はとても透き通っていて、漣が生む潮騒も、風が砂を噛み締めるような雑音の中でも、残酷なくらいはっきりと聞こえた。
そのはっきりとした言葉を受けても尚、僕は言葉を決めあぐねていた。
何が正解なのか、どれが不正解なのか。
結論が出ないまま、そこに立ち尽くすことしか、僕にはできなかった。
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