12.馴れ初め
その日、僕は街コンの会場にいた。
今日参加する予定の会がどんなコンセプトかさえも知らないまま、連絡を受けた通りに会場を訪れ、淡々とチェックを済ませて会費を支払う。旅行の趣味をきっかけにした集まりであると分かったのは受付のタイミングでだった。受付の女性はにこやかに僕に笑いかけると、てきぱきと確認作業を済ませ、発行された名札とアンケート用紙を僕に手渡すと会場へと通してくれた。
手渡されたアンケートの欄を適当に埋め、好きな旅先には「イギリス」と書き入れた。ビッグベンとか、あまり食事が美味くないことくらいしか知らなかったが、それなりに無難な選択だと思った。
絨毯が敷き詰められた長く狭い廊下を進み、突き当たりの大きな扉を開けて会場に脚を踏み入れる。窮屈だった廊下から突如として拓けた空間に出たからか、会場がやけに広く感じられた。天井が高く、煌びやかなシャンデリアで飾られたホワイエはとても豪華で華やかに見えたが、同時に虚勢と寂しさも感じられた。
手前の給仕からウエルカムシャンパンを受け取り、すぐ側の壁に僕は身を隠すようにひっそりと身を寄せた。中央には幾つか丸テーブルが点在していたが、立食がメインなのか座っている参加者はあまりいない。会場の左右に設置された長テーブルには軽食とそれらを取り分けるための皿が積み上がっている。
次々と入場してくる参加者を僕は部屋の片隅からじっと見つめる。肝心の男の姿が見えないのだ。僕をこの縁遠い街コンイベントに誘った張本人ことヤサカリョウの姿が。
俺に足りて無いのは恋人だと突然彼が言い出し、出会いが欲しいとどこかから見つけてきたのがこのイベントだった。けして僕自身が出会いを求めていたわけではない。旅行好きで、散歩を楽しめるような子と知り合いたくなったと彼に言われ、とはいえ一人で行くのは不安が残るという彼の頼みを断りきれず半ば強引に参加を決めたのだ。
だから、肝心の彼がいないと、僕がここにいる理由はまるで無くなってしまう。一万円弱の参加費は入社したての若手社員からすれば貴重な金だ。それが今、ただの無駄金になろうとしている。
本当なら、遠慮なんてすることなく断れば良かったのだ。ただ、それが出来なかったのは、ヤサカという存在に対して少なからず恩を感じているところもあったからだった。
ヤサカリョウヘイとは同じ大学で知り合った。専攻は違えど分野は少し似ていて、その少し似ていることから履修内容がよく被り、いつの間にか彼との交流は始まっていた。
気さくて活発的な彼に連れられて色々なところに行った。思えば馬鹿なことも多くした。飲めるようになったばかりの酒で酷い失敗もしたし、必修科目を飛ばして危うく留年の憂き目にあったことも、今ではいい思い出だった。
在学中サークル活動に花を咲かせていたわけでも、ゼミに参加して研究に没頭していたわけでもない僕からすれば、同級の悪友は、自分がそこにいたと言う証拠にもなる。暇つぶしのような堕落した学友との安酒飲みも、大した成果も得られない金だけが出ていく合コンもそれはそれで楽しかったし、若さに身を任せた日々は今でも時折夢として現れるくらい、輝いていた。
だからこそ、そんな数々の出来事で振り回してくれた彼は、僕からすると恩人のようなものだった。
「--では、是非同じご趣味の方どうしてお楽しみください」
そうこうしている間にイベントが始まってしまった。会場中央に置かれた高砂の上で、主催の丁寧な挨拶が始まった。ちょうどタイミングを見計らったかのように僕のスマートフォンが数回震える。なんだか嫌な予感を胸に抱きながらも恐る恐る通知されたアプリを開くと、ヤサカからメッセージが入っていた。とても短く、とても簡潔に。
「悪い、残業」
だろうと思った。以前からブラックな企業に捕まったと彼が愚痴を吐いているのは何度も聞いていたし、最近は食事の約束も飛びがちだった。これまでも飛ばしはすれど個人的な都合や理由のないドタキャンをしたことは無かったので、どうせ仕事だろうと思っていた。
おつかれ、とだけ返信を打ったところで乾杯の言葉が聞こえ、僕は遅れてグラスを掲げ、一口飲んだ。甘い口当たりと柔らかに弾ける炭酸が口の中に広がる。飲みやすいシャンパンだった。
さて、問題はここからだ。既に会は始まってしまったし、会費も支払ってしまった。このまま出るには勿体無い額のせいで、途中退場するのもなんだか悔しい。
「あの、イギリスお好きなんですか?」
振り向くと、一人の女性がにこやかに僕に笑いかけていた。白いニットにライトブルーのスカートを合わせて、カジュアルな中に清潔さも感じさせる服装だった。女性の胸元の名札には「さやか」という名前が書かれ、その下にはコッツウォルズと書かれている。恐らくヨーロッパのどこかの地域なのだろう。
僕は笑みを浮かべ、シャンパンを一口で飲み干した。正直、もうどうにでもなれ、という気持ちだった。
「いつか行ってみたいんですよ、イギリス。時計台とか見てみたくて」
○
会話が進むごとに、僕のイギリスに対する気持ちや知識があまりにも浅薄なものであることに気づいた「さやか」は、いつか行けるといいですね、という人あたりの良い言葉と笑顔を残してさっさと消えていった。収穫といえばコッツウォルズという素敵な風景が広がる田舎街があるという知識程度で、僕の人脈が厚くなることはなかった。
それからも度々声をかけられはしたが、旅行に対する想いが人並み程度の僕の言葉はあっという間に看破され、旅をすることで人生を豊かにしたいという強い想いに対して費用面の不安が顔に出てしまう僕を見て彼女たちはひどくがっかりした様子で僕の前から去っていった。
すっかりイベントに混ざった不純物と化した僕は、とうとうコミュニケーションをとることをさっぱり諦め、適当に旨い飯を食いに来たと思うことにし、食事で時間をやり過ごす方針に切り替えることにした。
「あの、あぶれ組ですか?」
食事に向かう途中、かけられた声に振り向くと、女性が一人立っていた。
ゆったりとした白ニットと淡いグリーンのフレアスカートを身につけ、ゆるく後ろでまとめられた髪から覗く耳元には金の細いチェーンピアスが揺れている。
派手すぎない服装に対して、縁の大きいの緑のメガネがとても特徴的だった。
「あ、いや、さっきからずっとご飯を食べ続けてたから、あんまりイベントが合わなかったのかなって」
彼女は少し慌てた様子で手を振りながら改めて言い直す。僕はため息をついてから、彼女の問いかけに頷きで返事をする。
「まさにその通りで、旅行が趣味の人たちに全然馴染めなくて。まあ、そもそもが友人の同行で来ていて、イベント自体元々全然興味がなくて」
僕の返答を聞いて、緊張が少し薄れたのか彼女はあはは、と笑った。第一印象から穏やかで物静かな印象を感じていたからか、その快活な笑い方に少し驚いた。
「分かります、旅行とか大変ですよね。パッキングとか正直しんどいですもん」
「あなたも、えっと……」
僕は彼女の名札を見る。丸みのある可愛らしい字で「みしま」の三文字と、「フランス」という文字が見えた。
「みしまさん、はフランスが好きなんですか?」
みしまは首を振る。
「なんかカッコいいじゃないですか、ヨーロッパって」
「じゃあ、行ったこともないんですね」
「そんな海外旅行の為の休みなんて取れないし、そもそも日本語が通用しない海外に行く勇気はなくて」
じゃあ、と僕は口にした後少し躊躇うように口を閉じた。僕から彼女にその言葉を告げるのは少し配慮が足りないように思えたのだ。だが、彼女には既にその先の言葉が分かっていたのだろう。別に構わないと彼女の瞳は言っていた。大丈夫、私とあなたは一緒だと。
だから、僕は改めてその共通の言葉を口にした。
「じゃあ、あなたもあぶれた人だ」
「その通り。でも良かった、あぶれた人間が二人いるだけでこんなにも心強い」
「みしまさんはどうしてここに?」
「ヨドノさんと一緒で、連れがドタキャンしたんです。でも高い参加費を無駄にしたくなくて、せめてご飯だけでもって」
「ああ、分かります。参加費高かったですよね。女性でも結構したんですか?」
彼女は苦々しい顔をして頷いた。聞くと僕の支払った金額の半額程度だったが、自分が支払った費用で感覚が麻痺しているだけで、十分に高いものだ。
「これだったら、ちょっと美味しいお店に友達と行った方がマシです。なんでみんな、こういう会で出会いを求めるんでしょうね」
「まあ、安心できるんじゃないですかね、マッチングアプリとかも十分にクオリティ高いですけど、それなりの参加費用を出せて、旅行を楽しめる生活水準をクリアしているって考えたら割と良い物件になりません?」
「なるほど、確かに」
みしまは納得したようだった。ふと見ると彼女のグラスが空になっているのを見て、何か持ってこようかと声をかけたが、彼女は首を横に振る。
「一杯目だけで十分なんです、欲しい飲み物、無かったんで」
「中々飲めなさそうなお酒も多いけど、良いんですか?」
「私、普段から飲むお酒は決めてるんです。だから、あとはソフトドリンクでいいかなって」
「へえ、何飲まれるんです?」
「レモンサワー」
レモンサワーだけ。その言葉を聞いて、僕はすっかり彼女に興味を抱いていた。
一体どんな日々を過ごしていけば、レモンサワーだけを愛する女性になるのだろう。日本酒やワインにこだわりを持つ愛好家も勿論いるが、レモンサワーだけを求める人というのは聞いたことがない。
「あの、良かったらもう少し、色々話してみませんか?」
僕の言葉に彼女はきょとんとしていたが、少し間を置いてから優しく微笑むと、喜んでと頷いてくれた。
パーティはまだ盛り上がりを見せている様子だったが、彼女と会話をしている間に次々とマッチングしたのか、気がつけば僕たちと同じように男女で固まって話す組がそこら中に点在していた。収穫のイマイチだった参加者は今も集団で会話を続けていて、少しでも自分に合う情報を探り続けようと躍起になっている。
案外、彼らこそがあぶれ組なのかもしれない、と僕は不意に思ってしまった。
○
二軒目はレモンサワーの出てくる居酒屋を選んだ。
選んだと言ってもレモンサワーだ。珍しい銘柄でなく、飲み放題にすら常備されているそれを探すのに苦労はなかった。今回の出費が痛手だったことも手伝ってか、みしまも僕もすぐそばの小さな居酒屋に入ることで意見が一致した。
店に入ってしばらく話すうちに、彼女のフルネームがミシマジュンコということを知った。
ミシマはショッピングモール内の小さなジュエリーショップでスタッフをしているのだという。曜日に囚われない生活が好きで、シフト制で自由気ままに生活をしているそうだ。ノルマ制という定められた目標があるのも分かりやすくて良いと彼女は言っていた。
毎日終わらない仕事で忙殺され、その仕事がどう評価されているのか曖昧な僕に比べ、彼女はとても溌剌としているように見えた。仕事柄なのか背筋も視線もはっきりとしているからか、猫背気味で目の隈が年々酷くなっている僕は、余計惨めに思える。
ミシマとの会話は思った以上に穏やかで、それでいて途切れることがなかった。話題に苦しむことなく、渓流が流れに従うように穏やかで、呼吸をするようなものだった。好きな映画、好きな小説、好きなスポーツ、嫌いな芸能人。勤務先の愚痴。
正直、こんなにもフィットする相手がいるのか、と僕は思った。そしてそれは、ミシマも同様のようだった。
「まるで、前からあなたを知っているみたい」
「僕も同じだよ。ミシマさんともっと早くから知り合っていたら、きっと楽しかったろうな」
「そう? でも私は、あんまりそうは思わないかな」
「どうして?」
僕が尋ねると、ミシマはレモンサワーを一口飲んだ。
「一期一会ってそんなものじゃない? 例え気が合ったとしても、今日みたいな環境であぶれていなかったら私たちは会話できていなかったと思うから。きっと今日が最適だったのよ」
「そういうものなのかな」
ミシマはにっこりと笑った。アルコールで少し上気した顔ととろりとした目元に僕は少しどきりとした。
「でも、案外そういうもなのかも。もし僕の友人が来ていたら、ミシマさんと出会う機会はなかっただろうし、タイミングっていうのは大切だ」
「本当にね、私もこういう機会ができて良かった。とはいえドタキャンしたリョウくんには後でたくさん文句を言わなくちゃ。結構高かったんだぞって」
リョウ、という言葉を聞いて僕の脳裏には一人思い当たる顔が浮かんだ。
「ねえ、もしかして、君の友人って、ヤサカリョウヘイ?」
その名前を聞いて彼女は目を丸くしていた。ミシマの反応を見ただけで、僕は今回の出来事の首謀者と、その意図を理解した。
○
「お前となら気が合うと思ったんだ。できれば、これからも会ってやってくれよ」
電話越しの彼は悪びれる様子もなくそう言った。やはり僕の予想通り、あぶれ者同士を結びつけることが彼の意図だったらしい。
「だとしても会わせ方があるだろ。普通に紹介するだけでいいじゃないか」
「ジュンちゃんさ、ここしばらく良いこと無くて、しかも結構抱えるタイプだからさ。俺なんかよりも気が合いそうなお前との方が、絶対にいい方向に進むと思ったんだよ、しかも結構難しいところあるから、紹介の場なんてセッティングしても断られて終わりだろうし、これが最適だと思ったんだ」
「無茶苦茶だ」
「でも、仲良くなれたんだろ?」
彼のその言葉に僕は押し黙る。それについては否定出来なかった。むしろ好意を抱いてすらいた。
「大丈夫だよ、シュウとジュンちゃんなら上手くいくから。俺が保証する。別に彼女と付き合って欲しいとかそういうわけじゃなくて、いや、まあそういう形に落ち着くならそれでもいいんだけど」
「リョウ」
「いや、本当に。ジュンちゃんの良き友人として、これからも会ってくれたらそれで良いんだよ。こればっかりは俺じゃ役不足なところがあるからさ」
役不足、という言葉の端に隠れたほんの少しの影を僕は感じたが、突いたところで彼は話さないだろう。そう思い、僕はそれ以上深掘りはしなかった。普段は太陽みたいに明るく周囲を巻き込んでいく彼にも、時折どこか一線を引いているようなラインを感じさせることがあった。
これも、恐らくは彼にとって踏み込まれたくない一線なのだろう。
「頼むよ、シュウ」
「……分かったよ、ミシマさんと仲良くなればいいんだろ」
「助かるよ」
特に断る理由もなくて、僕は彼の頼みを受けた。
それから彼は彼女と代わってくれと告げた。席で待つミシマにスマートフォンを渡すと、彼女は困った表情を浮かべたままそれを耳に当て、化粧室へと消えていった。
一人になった僕は、店員に頼んでレモンサワーを一つ注文した。
レモンサワーはあっという間に僕の前に置かれた。果汁を絞って作るタイプで、果肉の中に種が一つ混ざって浮いているのが見えた。薄く白濁したサワーの中を泳ぐそれを箸で掬い取ってから一口飲む。強い酸味が口の中に広がり、その後を追うようにアルコールのツンとした風味が鼻を抜けていく。炭酸の確かな飲みごたえと清涼感のある後味が心地よかった。
彼女は店を変えてから、本当にレモンサワーを飲み続けていた。
どんな食事が来ても種類を変えることなく、それでいてペースも早い。次々と注文されるレモンサワーに店員も少し驚いていた。不思議なものでジョッキで四、五杯くらい飲んでいるのに、彼女はけろりとしていた。頬は赤みを増し、表情は溶けきっていたが、それでも意識や会話は平常なままで、顔に出やすいだけで案外ザルなのかもしれないと思う。
ミシマは、どうしてレモンサワーだけを飲むのだろう。
手元のジョッキグラスを見つめながらヤサカのいった言葉を思い出す。アイツは結構抱えるタイプで、ここ最近良いことが無かったと。その後わざわざ彼女との通話を求めるくらいだから、何かしら彼女の生活に影響のある何かがあったに違いないが、それが果たしてどういった類のものかは分からなかった。
この先、彼女と仲を深めていったら分かるのだろうか。
実際、下心がないわけではない。ただ、それはそれとしてもし彼女が何か抱えているのなら、ヤサカと二人で、少しでも支えられたらとも思うのだ。
彼女には、笑ってレモンサワーを飲んでいて欲しかった。
「お待たせ、リョウくんと話終わった。私の方からちゃんと怒っておいたから。なんか変なことに巻き込んじゃってごめんね」
席に戻ってきた彼女はそう言って僕にスマートフォンを渡し、隣に座った。それから僕がレモンサワーを飲んでいることに気がついて、あ、と声を漏らした。どこか嬉しそうなその声を聞いて、僕は少し恥ずかしそうにはにかむとグラスを掲げる。
「ミシマさん、ずっとレモンサワーを飲んでいたから、僕もそんな気分になってさ」
「そっか、うん、一緒のものを飲むのも良いよね。嬉しいな」
そう言って彼女は笑ってくれた。僕は照れ臭さを隠すようにグラスに口をつけて表情を隠した。
○
ミシマとの馴れ初めは今でも鮮明に思い出せる。
それから何度か居酒屋で飲んで、互いの話題の中で出た場所に行ってみたり、気になっているものがあれば映画でも劇でもコンサートでも何でも予定を合わせて行った。彼女の好きなものを見にいくのはとても楽しかったし、僕の好きなものを分かち合って、楽しんでもらえることも楽しかった。彼女も楽しんでくれていたらとずっと思っていた。
時々ヤサカも混ざって遊んで回り、それからしばらくして、僕たちは恋人同士になった。ごく自然な流れだった。なだらかな渓流に身を任せて船を漕ぐみたいに、自然と海にたどり着くように、僕の隣には彼女がいるようになった。
それから一年ほどして、僕たちはあの家に一緒に住むようになった。
テレワーク主体の生活を僕がしていたことも手伝ってか、住居探しも同居の話も全てが綺麗にうまく収まった。予め決められたコースを走るみたいな速度で僕たちはワンルームの小さな部屋を見つけ、共同生活を始めた。
思えばその頃から、彼女が抱えるものに気がつけるきっかけはいくつもあったのかもしれない。
同居を決める上で彼女の実家に挨拶に伺いたいと伝えると、彼女は写真だけ送っておくからと言ってそれを断った。家族関係がうまくいっていないらしく、ほとんど放任状態なのだという。
今振り返れば、ヤサカマサトに関するあらゆる物事から僕を隔離したい気持ちがあったのだろう。まあ、結局その後僕はその事実を知ってしまうことになってしまうのだけれども。
初めてこの街を訪れた時、僕は物事がとても順調に進んでいると信じて疑わなかった。
僕たちの住む部屋は古く小さく、時代が止まったような小さなワンルームだったが、窓の外にはこれから分譲される予定の土地がいくつも立ち並び、日々その土地の価値を見にやってくる家族連れやカップルの姿が見えた。
互いに大きな部屋だと落ち着かないし、できるだけ互いの距離が近い生活をしたくてこの部屋を選んだけれど、僕はそこに「変わっていく街並みを見たいから」という理由をつけてあえてこの部屋を契約した。選択肢としてはもう一つ物件があった。近代的なデザイナーズの一室で、とても洒落ていて美しかったけれど、最終的にはこの窓の外に見える景色が決め手となった。
「シュウ君って、自分を変えたがってるよね」
彼女はそう言いながら片方のマグカップを僕に手渡すと、寒い寒いと呟きながらベッドの隣に座り、足を布団の中に潜り込ませた。
布団の中で彼女のつるりとした足が僕にぶつかり、僕はその足に自分の足を絡ませる。ミシマは僕を見て優しく微笑み、僕の体に身を寄せながら湯気の立つココアを啜るように飲む。
「変えたいのかな、僕は」
「少なくとも私からはそう見えるから。生き方なのかな、自分の存在なのかな。自分の現状がすぐ嫌なのか不安なのか、変化に救いを見出してるみたいに見える」
「そこまで洞察されてたの?」
ふふ、と彼女は笑うと、「そりゃ恋人ですから」と得意げに言った。
ホットココアを飲みながら窓の外を眺めるミシマの肩を見ると、月明かりを浴びて白く澄んだ肌に赤みが差していた。今日は随分寒かったから、互いに落ち着いた時、真っ先に思ったことがホットココアを飲みたいということだった。それがほとんど同時に口から出たのには思わず笑ってしまった。
服を着ようと提案しても彼女は頑なに今のままがいいと言った。互いの肌を感じながらホットココアが飲みたいと。その理由を当時は理解できなかったのだが、今思えば彼女もそうやって僕と同じように「実感」を求めていたろう。恋人が生きている、相手の体温や呼吸、体の奥にぴったりと収まる感覚とか、相手がいなければできないことを。
窓の外の住居は着々と組み上がってきている。つい先日まで畑でも耕すみたいにひたすら土弄りをしていたのに、気がつけば基礎が固められ、予め整えられた製図通りの位置に木材や壁、ガラス窓が嵌め込まれていく。毎日窓の外から観察していたからか、些細な変化にも僕とミシマは反応できた。次はどこを組み立てるのか、壁面の色はどうなるのか。そうやって互いに予想し合うのが、とても楽しかった。
「僕はさ、普通なんだよ」
「普通?」
僕は頷く。
「今も家族とは仲が良いし、何かで揉めたこともない。まあ、進路をどうするかとか、卒業後に何して働くのかとか、そういうちょっとした不安とか喧嘩はあったけどね。下に一人だけいる妹とも別に普通で。とにかく平均水準のラインを危なげもなく過ごしてきたって感じでさ」
自分の身の上話なんてするのは初めてだった。
自分の薄っぺらさを感じ取られたくなくて、それでもどう虚飾しようともメッキ以下の言葉なんてあっという間に剥がれてしまうだろうから、普段はあまり自分の話はしたくなかった。
それでも、彼女といるうちに、結局あるがままをあるように話すしかないとも思えるようになれた。諦観なのか、それともようやく自分を受け入れることができたのか、それは今も判断がつかないけれど。
「特別な人に憧れたんだよ。問題をよく起こすけど、どこか憎めないやつとか、これだけは他の人に負けないっていうプライドを持ってたり、誰かが評価してくれなくても自分のセンスを信じて突き進んでいる人とか。成功してるかどうかなんて二の次で、僕はそんな風に思いきった方向に踏み出せるような性格じゃなかったから、そういう人こそがかっこいいと思っていた」
たった一瞬だけ現れる選択肢の選び方みたいなものだ。
片方は平穏な道、片方は険しくて危険が伴う道。どちらがどんな風に未来につながっているかなんて分からないのに、平穏な道はその見た目の通り平穏に物事を進め、安心した未来に連れて行ってくれるように思ってしまう。実際のところ平穏な道を選んだって失敗はあるというのに、目の前の歩きやすさだけで人は選択をしがちになる。
「シュウくんは、満たされない人なんだね」
ミシマの言葉に顔を上げた。
彼女はココアを飲みながら僕を一瞥して、それから窓の外に視線を向ける。
「何かにたどり着いたらおしまいじゃなくて、自分が満たされたらおしまい。でも、じゃあその満たされ方ってなんなのか、自分は一体どんな器を持っていて、どんな液体を注げば満足に至るのかが分からないまま闇雲に自分を満たしてくれるものを探している。普通かどうかなんて本当はあまり気にしていないと思う。飢えなくて済む為の手段や道を探しているのが、シュウ君なんじゃないかな」
「空っぽってこと?」
「それは少し違うかな。あなたのこれまでは勿論ちゃんとあなたの身に注がれているし、それは確かにあなたの中にある。広義的には満足しているんだよ。でも、心の奥底にある自分が追い求める何かを見出せなくて、その結果自分が普通であるかのように思い、コンプレックスになってしまった」
すらすらと出てくるその言葉を束ねて飲み込みながら、やっぱり僕はミシマのことが好きだと思った。一見すればただの人生の不満を御託として練り上げ発言しているだけのようにも見えるのに、彼女はそれすらも受け止め、自己意見として汲み取ってくれる。
「どうしたの?」
見つめられ続けていることに気がついたミシマがこちらを向いた。そのタイミングを見計らって、僕は彼女に身を寄せるとその唇にキスをした。
たった一瞬のキスだったけれども、ふわりと甘くて柔らかなチョコレートの匂いが鼻腔をくすぐった。突然キスされたことに虚をつかれた様子だったが、やがて呆れたように笑うと、彼女も僕にキスをしてくれた。
「話を遮るのはルール違反じゃない?」
「そんなルール、決めたっけ」
軽くついばむようなキスと子供っぽいやりとりを続けながら僕もミシマもくすくすと笑い合った。
キスが落ち着いた頃に、彼女がくれたホットココアを一口飲むと、それはとても熱く、でもその熱さを通り抜けた先にはとろりとした柔らかな甘さとカカオの酸味があって、とても落ち着く味だった。
このまま、彼女とこういう日が続いたら、きっと僕も彼女の言うような満たされる瞬間が来るのかも知れない。
この頃は、本気でそう思っていた。
○
目が覚めるとガサガサと擦れるような音が聞こえた。ベッドの隣を見るとミシマの姿はなく、体温も残っていない。随分と早くに起きて作業を始めていたらしい。
部屋の至る所に積み重ねられたダンボール箱を見て、半分ぼやけていた意識がハッキリとしはじめる。スマートフォンを手に取りスケジュールに目を向けると、引越し業者のマークが明後日と明明後日に着いている。
「おはよう、シュウくん」
浴室から出てきたミシマは化粧品関係をまとめた段ボールを、自分の山に積み上げて大きくため息をついた。
「狭いのに、なんでこんな段ボールが必要になるんだろうね、次から次へと自分のものが出てきて、うんざりしちゃった。ねえ、コーヒー淹れたら飲む?」
「おはよう、ありがとう、飲む」
彼女の苛立つ声に返答だけを返し、僕は窓の外に目を向ける。すっかり出来上がって、なんなら少し色褪せてきたようにすら見える住宅の連なりには、もうあの頃の目新しさはなくて、この街の一部として溶け込んでしまっていた。
「珍しく夢を見たよ」
「夢?」
コーヒー豆を挽きながら彼女は反芻する。
「窓の外の家が出来上がっていく夢」
「気がついたらすっかり馴染んじゃったよね、前はよく窓の外見てたのにね。壁面の色予想はシュウくんの勝ちだった」
「そうだっけ?」
挽き終えた豆をコーヒーメーカーに入れてスイッチを押す。隣には二人分のマグカップを置くと、ついでにキッチンの中を覗きはじめる。もう何も無い、すっかり片付けられた食器棚は、とても淋しく見えた。
「私はグレーだと思ってたんだけどね、シュウくんはきっと白だって。最初から言ってたし、負けた私がご飯奢ったよ」
「そうだったっけか」
「案外忘れちゃうもんだよね」
丁寧にキッチン周りの忘れ物を身終え、ちょうどコーヒーが入った頃にミシマはマグカップにそれを注ぐ。それから二つ持ってベッドまでやってくると僕の隣に座り、片方を手渡してくれた。
「ねえ、楽しかったよね」
彼女はそう言った。受け取ったマグカップからミシマに視線を向けると、彼女は窓の外をじっと見つめていた。
「私はね、楽しかった。シュウくんの優しさとか、少し弱いところとか、私のことを受け止めようとしてくれてたから今まで生きてこれたと思ってる。きっと、あなたがいなかったら私は今も生きていなかったかもしれない」
「僕も、ミシマといた日々は本当に楽しかったと思ってる。こんな僕にも大切にできる人ができるなだなんて思っていなかったから。この三年近い日々は、宝物だと思ってる」
でも、それでももう元通りにはならないんだよね。僕の胸の内の言葉が伝わったのかどうか分からないが、彼女は小さく頷き、それから淹れたてのコーヒーを飲み始めた。思えばミシマはいつも淹れたての一番熱いタイミングによく飲み物を飲んでいた。肌を重ねた後に淹れてくれるホットココアも、朝のコーヒーも、全て。火傷しそうなくらいに熱いそれを。
「でも、君が求めるような代わりにはなれなかったんだよね」
僕の言葉を聞いて、彼女は口にしていたマグカップを下ろす。
「代わりなんてものはあるはずないのにね、リョウくんも私もそれに気がつけなかった。マサトくんが死ぬことを選んで、私たちはどこかズレちゃったんだよ。それに巻き込まれたのがシュウくん。あなたは何も悪くないよ、だから、ここで終わりにしたいの。シュウくんにはもっとマトモな日々を送ってほしいから」
そう言って彼女はにっこりと笑う。まただ、と僕は思った。
また、自分のことを責めている。
でも、もう今更それを拭えるだけの力も、権利も僕は持っていない。
「ミシマもさ、幸せになってくれないかな」
「私が?」
「ミシマも、幸せになっていいと思うんだよ。僕がリョウヘイから聞いたのは大枠でしかないけど、どれだけその話を聞いても、ミシマが一番に責任を感じることじゃないと思うんだ。だからリョウヘイだって、君に僕を当てがった」
「そうじゃないの」
僕の言葉を断ち切るように彼女の鋭い言葉が割り込む。柔らかくて落ち着いた口調だったけれど、その言葉に込められた想いはとても強くて、僕はそれ以上言葉を続けることができなかった。
「マサトくんが許してくれるとか、そういう話じゃないの。私のことを許せないのは、他でもない私なの。彼が挫折した日にかけた言葉が違ったらとか、落ち込んでいた時に抱かせてあげたらとか、毎日の些細な選択を一つ一つ間違えずにこれていたら、今も彼は生きていたんじゃないかって。一番近くにいた私が一番何も出来なかった。彼の弱いところを気がついてあげられなかった」
僕は口を開いて、それから諦めたように閉じると、コーヒーを飲んだ。
深く黒い苦味と、灼熱のような熱さが口の中に広がる。ほのかな酸味も、普段なら美味しいと感じられたのに、今はただただ苦味と合わさって渋さだけが口の中に広がる。
「だから、シュウくんは幸せになってね」
さあ、と彼女は立ち上がると再び引越しの準備を進める。普段通り振る舞いながら一つ一つ段ボールに仕舞い込んでいく彼女を姿を眺めて、僕は彼女が淹れてくれた恐らく最後になるコーヒーを一口一口大切に飲む。
僕も同じだという言葉は、言えなかった。どうしたら君を救えたのか、ヤサカマサトを忘れさせられたのか、心の底から幸せだと思ってもらえたのか。こうなってしまった今、ずっと考えていた。
名前を呼べば、全てが解決したのだろうか。
彼女が愛した男と同じ呼び方ができなくて、ずっと躊躇し続けてきたキョウコという言葉が言えたなら、何かが変わっていたのだろうか。
「あの……」
僕の言葉に彼女は振り返る。
その瞳は、変わらず僕を優しく映していた。
彼女はいつだって僕に優しかった。無償の愛でも捧げているみたいに。
「そっち、重いもの結構あるから、僕がやるよ」
結局僕は呼ぶことができなかった。
いつか、呼びたくて、でも呼ぶ勇気最後まで持てなかった名前を。
キョウコ、という彼女の可愛らしい名前を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます