13.声の行方


--またね、キョウコ。


 それが、別れの言葉だった。


 本来であればなんの変哲もない他愛のない別れの挨拶だ。もしその言葉を聞いたとして、その背景を慮ることなんて果たして誰ができるだろうか。

 ましてや恋人から笑いかけられながら言われたとしたなら、むしろ安堵するのではないだろうか。


 その言葉を聞いたミシマも勿論それを他愛のないものだと受け取った。

 彼は至って平穏だと、そう受け止めて笑顔で別れた。もしかすると、別れ際のハグやキスもあったかもしれない。詳細までは知らないが(知りたくもないが)、彼と彼女は至極まっとうな恋人としての別れ方をしたのだろう。


 まさかそれが今生の別れになるだなんて、きっと思いもしなかったと思う。


 ヤサカマサトは、その三日後に彼の自宅で見つかった。


 死因は聞いていないが、彼は自殺だったことと、それを一番初めに見つけたのがミシマだったということだけは分かっていた。


 その時の彼女はとにかく冷静だったそうだ。

 然るべき流れに沿って警察と救急車を呼び、然るべき案内を受けて状況説明を行い、駆け付けたヤサカ家と入れ替わる形で彼女は対応を終えた。


 葬儀は家族葬で行われた。ミシマは、ヤサカマサトの両親の心遣いで同席することができた。一番辛いのはご家族だから、とできる雑務は全て手伝ったという。


「深夜に目が覚めて便所に向かう時さ、ふと気になって兄貴を寝かせてる部屋に行ったんだよ」


 もう何杯目になるのか、ヤサカは普段以上のペースで酒を飲んでいた。喉の渇きを潤すように度数の強い酒を頼んでは次々に空にしていく。


「ずっと座ってたんだよ、キョウちゃん。電気も付けないで兄貴の前に」

「ずっと?」

「そう、ずっと。無言で正座してた。すごい綺麗な姿勢だった」


 僕は想像する。静謐な暗闇の中、姿勢を正したまま座るミシマの姿を。


 そのまま箱にでも収められそうなくらいまとまった姿勢で、ぴんと張り詰めた糸で背筋が固定され、その上に小さな頭が乗っている。とても綺麗で、とても哀しい後ろ姿だと思った。


 彼女は、一体どれくらいそのまま彼の前に座っていたのだろう。


「どんな表情だったんだろって今でも思うよ。でも声なんてかけられなかった」


 そう言って彼はまた酒を空にする。


「もういい加減、飲むのやめろよ」

「大丈夫大丈夫、見た目以上に酔ってないんだ」


 そう言って彼は笑う。見た目以上に、と言うがそもそも彼の顔色自体が全く変わっていない。言葉も正常で、だからこそ、その正常さが僕には異常に思えた。


「でも、なんで今その話を僕にするんだよ」

「なんでだろうな」


 彼はやってきた酒を受け取り、一気に飲み干し、こう言った。



「安心したからなのかな」



 安心。


 彼は、何に対して安心しているのだろう。


「お前のお陰で、最近キョウちゃんよく笑うんだよ。新しく恋できる人を見つけられたからなのかな。俺も、お前がぴったりだと思ってきっかけを作ったから、こうしてうまく物事が進んで本当に良かったよ」

「どうして僕だと?」

「お前が優しいからだよ。キョウちゃんを傷つけない人だと思ったんだ」


 肩の荷が降りたとでもいうかのように彼は淡々と言葉を続ける。その後も僕やミシマのことについて色々と話していた気がするが、よく覚えていない。


 優しい、という言葉を僕はこれまでも色々なところで聞いてきた。


--貴方は優しいね。


--君は良い奴だ。


--お前は良いな。


 皆、そうやって僕のことを良い人だと呼んだ。別に大したことなんてしていないのに。


 ただ人に嫌われず、波風の立たない生活を続けてきただけの僕を相対的に評価すると、たどり着くのはその言葉だと気がついたのは。中学生の頃だった。突出した才能があるわけでも、思い切った行動ができるわけでもない。まるで主人公のように我が道を行くことも、自分の特性を追求するあまり嫌われてしまうこともできなかった僕は、ちょうど良いところのまま生きていた。


 いわゆる普通、と言われる存在だ。


 そういう人間ほど、マジョリティからはちょうど良い友人として扱われ、マイノリティからは卑怯者と揶揄される。どちらにもなれないでいる葛藤なんて知らないで、皆総じて良い人として僕のことを扱った。そういう人間ほど、一度関係が切れると、みんな忘れてしまう。


 当たり前だ、深く付き合えたわけでもない浅い関係を繋いだままにしたって、何もメリットは無い。


「……リョウはさ、僕のことを良い奴だと思う?」

「当たり前だろ、じゃなきゃこうして今も一緒に飲んでないさ。俺みたいな好き勝手やってる奴に付き合えるのなんて、お前くらいだ」


 僕は、自分を良い奴だなんて思ったことはない。ただの自分を押し通すことのできない臆病者だと思っている。だからこそ僕は周囲に馴染める。誰かのちょうど良い場所に、ちょうど良い役割として、ちょうど良い存在としていることができた。


 お前が今感じているのも、していることも他の人たちと変わらない、僕をミシマの恋人代理としてちょうど良いポジションに置いただけなんだ。ヤサカマサト程の優秀さはなくとも、平均的なちょうど良さを代役と認識しただけなんだ。


 僕はヤサカのことを、これまで会った誰よりも信頼していたし、親友として、悪友としてこれ以上ない存在と思っていた。だからこそ今彼がしているのは、ある種僕への裏切りでもあった。


 初めて、僕のことを見てくれる人に出会えたと思っていたのに、彼は自分の兄に代わってミシマを幸せにできそうな人間を探していただけだった。


 それが酷く残念でならなかった。何より、そんな自慰的な計画は、彼自身の胸の内にそっと潜めていてほしかった。死ぬまで、ずっと。


 そういうことを、言えたら良かったんだと思う。


 そうしたら、僕と彼女の関係も、ヤサカと僕の関係も、ヤサカとミシマの関係も、幾分かはスマートなものになっていたのかもしれない。


「……そっか」


 この後に及んでも、僕は思いの丈を言葉にすることが出来なかった。


「本当に、感謝してるんだよ」


 ヤサカは穏やかな目で僕を見つめていた。


 今思えば、彼は責められようとしていたのかもしれない。


 胸の内に泥のように溜まっていたものを吐き出して、それらを見て心の底から嫌悪して欲しかったのかもしれない。だから、あの日見た穏やかな目は、ある種失望にも似た感情を孕んでいたのではないだろうか。


「ありかとうな、シュウ」


 その言葉にどう答えたのかは、正直よく覚えていない。僕も随分と飲んでいたし、そこから余計に酔いが回ったように思う。感情の変化が身体に与えるものはそれなりにあるらしい。


 気がついたら僕はマンションの玄関前にいて、インターホンを鳴らしていた。重たい頭と胸の奥にへばりついた気分の悪さと酸味を帯びた息に苦しみながら。

 最悪なのは、意識だけはやけにはっきりしていることだ。このまま記憶もなにもかも消し飛ばせてしまえたら、どんなに楽だっただろう。


 はあい、と彼女の声がスピーカーから聞こえて、僕はただいま、と口にする。スピーカー越しに聞こえたおかえり、という優しい声に、胸のむかつきが幾分か和らいだ。


「飲んだねえ」


 扉を開けるなり彼女はそう言って笑った。


「そう見える?」

「それはもうありありと。大丈夫? 吐く?」

「水、もらえたら大丈夫だと思う」


 その後結局、僕は耐えきれずトイレで吐いた。


 でも彼女はその行為を全く気にすることなく、むしろ予測していたように丁寧に介抱してくれた。


 ヤサカマサトだったら、こんな醜態を見せただろうか。


 彼ならきっと、迷わず彼女の世話になることもなくトイレに籠ったかもしれない。水だけ用意してもらって、彼女には休んでもらっていたかもしれない。そもそも彼がここまで泥酔するほど酔わないのではないか。


--彼をトレースしてしまってはいないだろうか。


 そう思うようになってから、どんな行動もワンテンポ遅れるようになった。「彼だったら、こうするかもしれない」という道筋が目の前に見えると、それを敢えて外して歩かないといけない。そんな強迫観念が僕の中に生まれた。


「シュウくんは、手がかかるねえ」


 僕の喉奥に指を突っ込みながら彼女は呆れて笑う。


 迫り上がってくる嘔吐感と酸味で涙が溢れた。ほとんど水になったものを吐き捨てる度に、自分の隠しようのない情けなさが露呈していくように感じた。これはヤサカマサトにはきっとできないことだと感じられると、心が楽になった。


 でも、果たして彼女はいつまで僕と一緒にいてくれるだろう。


 彼女が一体僕に何を感じてくれて一緒にいてくれるのか、理解できていないから、もしそれがヤサカと同じように、「ヤサカマサトを忘れられるようなちょうど良い存在だから」であったなら、どうすればいいのだろう。


 吐き終えてぐったりとしていると、目の前にグラスに一杯の水が差し出された。激しい頭痛の中それを受け取り、一気に飲み干す。冷たい水の感触と、焼けついた喉でもするりと通り抜けてくれる優しさがとても有り難かった。


「私もシャワーまだだから、一緒に入ってあげるよ。服とかもついでに汚れたところ洗っちゃえばいいし」

「ごめん、迷惑ばっかりかけて」

「別に、毎回じゃなきゃ気にしないよ。あ、私が同じようになったらちゃんと助けてよね」


 彼女の優しさに僕は笑う。笑うと同時にまた嘔吐感が込み上げたが、なんとか飲み込む。


「ありがとう……」


 激しい頭痛の中で、ヤサカマサトの名前が僕の脳裏を過ぎった。


 過ぎった結果、僕はシミュレートした彼と反した言葉を思わず口にしてしまった。



「ミシマ」



 彼女は僕に向かって笑いかけ、頭を撫でる。



「気にしないで、シュウくん」



 今思えば、あの時彼女は怒っていた。



 とても、とても。


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レモンサワーの雨が降る 有海ゆう @almite

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