第13話
アンが半身を横たえようとしたら、扉が鳴らされた。
「…メアリアン様。皇太子殿下がおいでになりました」
固い声でシェリーが扉を開けて知らせてきた。
アンは慌てて起きあがり、頷いた。
「わかりました。そのまま、入っていただいていいから」
「では、そのようにしますね」
シェリーも頷きながら扉を再び閉める。それを見送りながら、アンは簡単に髪を整えたり、寝台の側に置いてあったカーディガンを羽織って身支度をしたのであった。
サミュエルがアンの寝室を訪れたのはそれから、一時間経ってからだった。
その前に侍女が持ってきてくれた軽食のリゾットを食べ終えていたので先ほどよりは気分もましになっている。
寝間着のグレーのナイトドレスにカーディガンを羽織って、アンはサミュエルを出迎えた。
サミュエルも白いカッターシャツに茶色いキュロット、上着も同じ色のジャケットといった出で立ちだ。
タイは締めておらず、かなり身軽な感じである。
「メアリアン嬢、倒れたと聞いたので来てみたが。すぐに気づかなくて悪かった」
サミュエルはベッドの側の椅子に座るとすぐにアンに頭を下げてきた。
「殿下、謝らないでください。心労で倒れてしまったのは私が弱いからです。スルガ国の陛下のお相手はいたします」
「…メアリアン?」
サミュエルは訝しげに眉をひそめる。
アンは息を吸ってまっすぐに見据えた。
「必要とあらば、スルガ国にも参ります。殿下の手を煩わせるような事はしないように気をつけますから。私をうまく使ってくださったら、事も片づくかと」
乞うように言うが、サミュエルは余計に不機嫌になる。
「…メアリアン。いや、アン。すまないが、それはできない」
首を横に振りながらサミュエルは断った。
それを聞いて、アンは藁をも縋る思いで彼に頭を下げた。
「それでもです。殿下、私をスルガ国に送り込んでください。きっと、王からうまく情報を引き出してみせます!」
「アン、そのような事はしなくていい。かなり危険を伴うということを君はわかっているのか?」
真摯な目で見つめながら言われて、アンは固まる。
今まで、どうしたらリナリアを守れるかといったことを頭の片隅には置いていた。
皇太子殿下もとい、サミュエルに協力する事も考えていたが。
彼から不興を買うことは予想していなかった。
サミュエルはアンの掛け布の上に置かれていた手を取った。包み込むように両手で握り込まれる。
驚きのあまり、声が出ない。
アンは驚いて、手を引っ込めようとした。
だが、サミュエルの力が強くて思うようにいかない。
「…あの、殿下。離してください」
小さな声で抗議するがなかなか離してはくれなかった。
サミュエルはアンの両手をぎゅっと握りしめながら言う。
「アン。俺は君をスルガ国に行かせるつもりはない。そんな危険な事は部下で間喋(かんちょう)を専門とする者がいるから、そいつに任せる。協力してくれるのはかまわないが。もう少し、自分の身の安全を考えてもらいたいな」
サミュエルはそう言い終えると握りしめていた手をそっと離した。
アンはうつむきながらも小さく頷いた。
「わかりました。殿下には失礼な事を申し上げてしまいました。これからは気をつけます」
「そうしてもらえるとありがたい。もし、君が王の機嫌を損ねたり、間者だとばれて命を落としたりしたら。俺は父君のシンフォード公爵に申し訳が立たなくなる。だから、他の方法で妹のリナリアを守るようにしてくれ」
サミュエルは苦笑いしながらアンに一つの提案をする。
他の方法と言われて、アンは考え込んだ。
「…他の手段ですか。だったら、リナリア様のお部屋に刺客が入らないようにするとか。侍女の中でスルガ国と通じている者がいないかを密かに調べるとかは思いつくんですけど」
「ああ、そんな方法でもいい。君、さすがに冷静なだけはあるな。頭もきれるようだ」
サミュエルは感心したらしく、にこやかに笑いながらアンを褒めてくれた。
そんな風に言われたことはないから、さすがに照れてしまう。
頬が熱くなるのを感じながら、アンは余計に下を向いた。
サミュエルはそんな彼女をほほえましく見つめる。
なかなか、初々しい反応の仕方をする。そう思いながらもゆっくりと立ち上がった。
「…では、もう時刻も遅いから。これで失礼するよ。アン、おやすみ」
「おやすみなさい」
小さな声で返事をするとサミュエルは微笑みながら、アンに軽く手を振る。
そして、彼は踵を返して扉に向かい、静かに部屋を出て行った。
翌日になって、アンは昼前に目を覚ました。
次の間に控えていたイザベルやゾフィーは寝不足の顔で彼女の寝室にやってくる。
昨日はサミュエルが来たから、ハラハラして眠れなかったらしい。
「…おはようございます、御方様」
イザベルが窓際のカーテンを開けながら、挨拶をしてくる。
「おはよう。イザベル」
アンも挨拶をするとゆっくりと伸びをした。
開けられたカーテンの隙間から日の光が目に入ってまぶしい。
イザベルとゾフィーはのろのろとカーテンを開けた後、アンのいる寝台に近づいた。
「…御方様。朝食をお持ちしますね。後、お薬を飲んでください。まずはお湯を運びますから。お顔を洗ってください」
ゾフィーはそう言って寝室の隅にある洗面所に行った。
その間にイザベルは顔を拭く用のタオルや着替えを準備する。
しばらくして、お湯を張った洗面器を持ってゾフィーが戻ってきた。
アンは掛け布から出ると寝台の端に座り直して、ゾフィーの持つ洗面器に手を添える。
中のお湯で顔を洗い、イザベルから手渡されたタオルで水気をふき取った。
洗顔が終わり、洗面所まで自力で歩いていった。
歯磨きもすませて、寝台に戻る。
鏡台からブラシを持ってきたイザベルがアンの髪を丁寧に梳いた。
そうして、緩くリボンで髪をまとめるとカーディガンを羽織らせる。
「では、朝食のリゾットとスープをお持ちします。ゾフィー、御方様のお化粧をお願いね」
「わかったわ。イザベルさん、お食事を持ってくるのだったら気をつけて」
二人で頷きあうとイザベルは部屋を出ていった。
ゾフィーに薄くお化粧を施されて、アンは朝食にありついた。
チーズとトマト、玉葱、キャベツの入ったリゾットや豆入りのスープは薄味であっさりとしている。病人になってしまっているアンにはありがたい。
それとカトリーヌお手製のレモン水もなかなかおいしいものだった。
もちろん、食べる前に薬は飲んでいる。満足しながらもまだ、重苦しい体と気分には参ってしまう。
「アン様。後、二日したら。スルガ国の王が来られるそうです。お相手は代わりに東の御方様がなさるとかで」
そう知らせてきてくれたのはイザベルだった。
アンはそうと返事をする。
イザベルの話によるとアンが体調を崩したのを聞いた大公陛下は急遽、スルガ国の王の相手を東の御方に任せることに決めたらしい。
アンはため息をつきながら、窓の向こうの空に目をやった。
アンはイザベルから一通りの話を聞いた後、再び寝台に横になり、休むことにした。
ゾフィーと二人で次の間に行ってしまうと一人で取り残された形になる。
後宮にあがってから、三日が経とうとしているが。
その間に皇太子の訪れは昨日の一回だけだった。
自分は寵愛を得るために来たわけではない。
あくまで断ると両親や兄弟たちに迷惑をかけるから来たに過ぎなかった。
それでも、胸にしこりは残る。
アンは仰向けに寝台に横になって、瞼を閉じた。
今は朝方だがそれでも眠気はやってくる。
いつの間にか、寝入ってしまっていた。
それからさらに半日が経ち、夜になってからふと、目が覚めた。
部屋には一つか二つの蝋燭に明かりが灯されていて、ぼんやりと辺りの光景が見える。
窓のカーテンは閉じられていたがアンは気になって、寝台から下りた。
窓際に近づいて、カーテンを開けてみた。
途端に窓枠にはめられた硝子(がらす)には雨粒らしき水滴が強く当たっていて、外は雨が降っているらしかった。
びゅうと風が吹く音と低い雷の音がしていて嵐になっていることがわかる。
カーテンを閉め直すと寝台に戻ろうとした。
ふいに、扉が開かれて背の高い人影が部屋の絨毯に長く伸びる。
「…アン。何をしているんだ?」
背後から声をかけられて振り向いた。
「殿下」
掠れた声で言うと顔を上にあげた。
そこには昨日と似たような感じでベージュのジャケットと白のカッターシャツに黒のキュロット、同じ色の革靴に身を包んだサミュエルが佇んでいた。
「もう夏とはいえ、夜はまだ冷える。そんな薄着だと今度は風邪をひくことになるぞ」
厳しい声音で言われてアンは首をすくめる。
「…申し訳ありません。ただ、外の様子が気になって」
「ああ、謝らなくていい。今は雨が降っていて冷え込むから。だから、注意したまでだ。もう、寝台に入っていた方がいいだろう」
はいと頷いて、アンは素直に従った。
寝台に戻り、掛け布にくるまる。
「すまない。様子が気になったから来てみたが。スルガ国の王が後二日程で我がヴェルナード公国に着くと知らせが入ったから、今まで忙しくて。見舞いに来るのが遅くなってしまった」
苦笑いしながらサミュエルは謝ってきた。
アンは首を緩やかに横に振っていいえと言った。
「気にしないでください。私のことよりもスルガ国の王のことの方が今は大事です」
へりくだった言い方をするとサミュエルはじっとアンを見据える。
「君は相変わらず、我が儘を言わないな。他の令嬢とは大違いだ。しかも、自分のことは捨て置いてかまわないとは。普通ならあり得ないことだ」
小さくため息をつきながら、意外なことを言われてアンは固まる。
「…あり得ないでしょうか?」
「ああ、あり得ない。君はよく魔女だとか呪われていると言われながら育ったと聞いた。父君のガレス殿も俺にいっていた。「娘のメアリアンは不憫な子だ」と」
はっきりと口にされて驚いた。
まさか、父がそんなことを皇太子に申し上げていたとは。
アンは何ともいえない気持ちになる。
「確かに、私は髪と瞳の色のせいもあって、魔女だとかよくいわれていました。黒髪はシンフォード公爵家にはふさわしくないと親戚から言われたこともありました」
淡々と告げるとサミュエルはアンの頭に触れてきた。
そっと、さらさらとした髪の一房を掴む。
「…ふさわしくないとはもったいない事を。こんなに綺麗で手触りもいいのに」
「殿下。私に触れるのはやめておいた方がいいです。他の妃の耳に入ったら、厄介な事になります」
慌てて、逃げようとしたが。
サミュエルはとっさにアンの髪から手を離すと彼女の腕を掴んだ。
「逃げるな。俺だって、わざわざ、なけなしの時間をやりくりしてこちらまで来たんだ。君にはまだ手を出していないしな」
とんでもない事をさらりといってみせる。
アンは腕を掴んでいる手を振り払おうとした。
けれど、サミュエルはより強く腕を掴む手に力を入れて、離そうとしない。
そのまま、体を引き寄せられて抱きしめられた。
心臓が早鐘を打つようにうるさい。
「…やっと、触れられた。君一人だけを妃にして他の女たちは後宮から出してしまおうか」
「で、殿下」
戸惑って、暴れようとしたが押さえ込まれる。
仕方ないとあきらめてアンは身をゆだねる事にした。
サミュエルは寝台に上がるとアンを横に寝かせる。
そして、彼女を抱きしめたまま、眠りについたのであった。
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