第3話
フィオナはアンの瞳を見つめた。
「…アン。後宮が嫌になったら、皇太子殿下にお願いして、家に戻ってきていいのよ。わたしや父様がアンを守るから」
髪をなでながら、優しい声音でフィオナは告げる。
だが、アンは首を横に振った。
「いいえ、母様。私は後宮にあがったら、家には戻りません。皇太子殿下や他の人々に忘れ去られても、王宮を出ることはないでしょう。もし、戻ったら。シンフォードの名に傷がつきます。それに皇太子殿下の威光にも。だから、帰りません」
きっぱりと言い切る娘にフィオナはさらに涙を流した。
「そんな悲しい事を。確かに、出戻りはよくないけど。母様がもっと、良い縁談を探してくるわ」
「母様。そのお気持ちだけで十分です。ありがとう」
笑いながらいうと、フィオナはあきらめたらしく、ため息をついた。
そして、隣部屋に待機していた侍女たちにアンの着替えの手伝いを言いつけると自室へと戻っていった。
それを見送ると、下着用のドレスを脱ぎ、コルセットもはずしてもらう。
気楽な部屋着のワンピースに着替えると、人心地ついたのであった。
部屋に戻り、アンは長椅子に座り込んだ。
薄茶色の皮製の長椅子は見かけによらず、ふかふかとしている。
後、一週間ほどで後宮へあがることになるのだが。
なかなか、決心がつかないでいた。
壁際で控えていたメグとシェラが心配そうにこちらを見ている。
「…アンお嬢様。大丈夫ですか?」
メグが尋ねてきた。アンは笑いながら、答えた。
「大丈夫よ。少し疲れたみたい。湯浴みをしてすぐに寝るわ」
「湯浴みをなさった後、夕食はわたしたちで用意しておきます。お嬢様、少しは栄養をつけておくべきです」
しっかり者のシェラが手厳しくいってきた。
後宮に入るとなると、彼女たちを連れて行くことは難しい。大公陛下や皇太子殿下から許可が下りればいいのに。
そんなことを思いながら、立ち上がる。 「じゃあ、湯浴みをするわ。他の侍女たちに知らせてきて」
「かしこまりました。お湯殿には一人で行かれるのですね?」
シェラが尋ねてきたので、それには頷いておいた。
アンは歩いて、一階にあるお湯殿へ向かった。
着替えはあちらで用意されてるから、何とかなる。
気楽に考えながら、階段に近づいた。
とんとんとリズムよく降りていくと、せわしなく使用人たちが走り回っているのが見えた。
後宮へアンが入ることが決まったので、邸中、てんわやんわの騒ぎになっているようだった。
お湯殿にたどり着くと、脱衣場で衣服を脱ごうとした。
だが、ドアをいきなり開けて、侍女のメグが入ってきた。
後にはシェラや他の侍女が三人ほどが続けて、やってくる。 合計して五人の侍女たちがアンに声をかけることもなく、彼女の服を手早く脱がせた。
「…アン様。王宮へあがられるのですから、身綺麗(みぎれい)にしておきませんと」
メグがそう言いながら、アンを浴室へと押し込む。
「私、普通に体を洗おうと思ったのだけれど」
「念入りにしておきますわね。髪には香油をおつけしますし、お肌にもクリームなどを塗りましょう!」
「シェラ…」
引き気味にしながら、アンは逃げようとした。
だが、すぐに捕まり、浴室に引っ張り込まれる。
髪を延々と洗われて、体も石鹸で念入りに隅々まで洗われる。
疲労でよれよれになる頃に湯を張った浴槽に放り込まれた。薄緑色のタイルをはめ込み、浴槽も似たような色で作られている。
お湯には乳白色の入浴剤が混ぜられていた。
ラベンダーの匂いがしていて、体や精神の緊張をほぐしてくれる。
「メグ、シェラ。夕食の準備はできてるの?」
ふと、気になって尋ねてみると、心得顔で答えてきた。
「ええ。お嬢様のお言いつけ通り、できておりますよ」
それを聞いて、安心したのであった。
お湯にしばらく浸かってから、あがる。浴室を出る前にバスタオルで丁寧に髪や体の水気をふき取る。
五人の侍女たちは濡れてもいいように、半袖のシャツと丈の短いズボンを身につけている。
脱衣場に行くと、侍女たちもついてきた。
そして、バスローブを着せられた。
「ではあちらの、椅子にお座りください。髪に香油をお塗りします」
シェラにいわれて、脱衣場に備え付けられている椅子に腰掛けた。
イランイランと呼ばれる甘い香りの香油をシェラは両手につけると、アンの髪に伸ばす。
ブラシで丁寧に梳くたびに髪は艶やかになる。
メグは髪を梳き終えると、シェラと交代してアンの肌に薔薇の香りのするクリームを塗り込んだ。
一つだけでもドレス一着は買えるほどの高価な品である。
顔に塗り込み、首筋や手などにも同じようにした。
体中を磨かれて、アンは変な気持ちになる。
まだ、王宮ー後宮に入るのは先の話なのに。
「こんなに磨き上げなくてもいいのではないの?」
つい、言ってしまった。
「…アン様。これは母君様からのご命令です。後宮にあがられても恥ずかしくないようにしておきなさいとのことでして」
「そう。母様の命令だったのね。それなら、仕方ないか」
ため息をついたのであった。
お湯殿を出て、部屋へ戻る。
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