第20話

 その夜、殿下はアンの部屋に一晩、泊まった。


 翌朝にはその噂が王宮中に広まったのはいうまでもない。

 アンが知らない内に事は大きく動いていた。殿下の側妃達も他国に行ったり、国内の貴族に降嫁したりして後宮にいるのはアンと東の御方のアリサ嬢、南の御方のスージー嬢の三人だけになった。

 皇太子がとうとう、新しい妃に手を出したと他の人々は見なしていたのであった。




 あれからというものの、アンの元に殿下、サミュエルが頻繁に通うようになった。といっても一晩、一緒に同じベッドで寝るだけでせいぜいがキスをするくらいである。

 そんな感じで早、半月が過ぎていた。サミュエルがアンに正妃になってほしいと告げてからはアンも周囲から皇太子妃になるための教育を受ける事を勧められるようになっていた。

 それを受けてアンは本格的にお妃教育を始める事にした。歴史の勉強やお裁縫、ダンスのレッスン、多岐に渡る教育ではあったが。それでも、辛抱強く続けたのである。



「…アン、最近はお妃教育で忙しいらしいな。正妃になる事を了承したんだって?」

 とある日にそんな事を聞いてきたのは兄のエドワードであった。隣には次兄のジェイミーがいる。二人はカトリーヌの淹れた紅茶を優雅に飲んでいた。

「ええ。確かに了承はしたわ。けど、正妃になるのはもっと先の話になると言われたわ」

 アンが頷くとふうんとエドワードが面白くなさそうに言った。ジェイミーも表情は明るくなくてこの話に賛成ではないらしい。

「何だ、あの皇太子の事だからてっきり、アンをさっさと正妃にするかと思いきや。まさか、待てとお達しがあるとはな」

「そうだな、兄上。皇太子殿下らしくないというか」

 ジェイミーがエドワードの言葉に賛同する。アンはなんと答えたものかと言いあぐねてしまう。

「…確かにな。あの女たらしの殿下の事だから、アンに興味を持つか微妙な部分があったが。まさか、正妃にするといっておいてトンズラしたりしないだろうな」

「わからないな。アンを差し置いてまた、新しい側妃を迎えたりしたら元も子もないぞ」

「ああ、その可能性はある。アンにそのような真似をしたら、問答無用で公爵家に連れ帰ろうと思っているが」

 エドワードがさらりと言ってのければ、ジェイミーも頷いている。物騒な事を言うなとは思ったが、アンは小さく溜息をついただけだった。

 兄達はそんな彼女を見て顔を見合わせただけでこれ以上は何も言わなかった。




 静かに時は流れて、二月が経った。季節は冬に変わり、十二月になっていた。ガラス窓の向こうの景色も寒々しいものに変わっている。正妃としての教育は現在も続行中であった。

 部屋で一人、のんびりとハーブティーを飲む。今日も今日とてユーリカのお茶である。

 部屋にはこちらに入った時から仕えてくれているカトリーヌ、イザベルにゾフィー、シェリーやシンシアの五人が揃っていた。

「…御方様。正妃になられるのは何年後になるかはわからないとおっしゃっていましたね。もう、新年が来てしまいますのに。皇太子殿下はどうお考えなのでしょうか」

 不安そうに言ったのは女官のシンシアである。

「さあ、私にもわからないわ。とりあえず、一年か二年は待たないと駄目かしらね」

「一年か二年でございますか。長いですね」

 そうねと頷いてまた、お茶を一口飲んだ。窓の向こうでピピと鳥の鳴く声が響いた。

 それを見ながら、アンはほのかに笑った。

「私は何年後になっても構わないわ。殿下の隣に立っても恥ずかしくない妃にならないといけないから。その為にも努力はすると決めたの」

「そうですか。御方様がそう決めたのなら、何も申しません」

 シンシアが感心したらしく、アンに真面目な顔で一礼をした。

 それに鷹揚に頷きながら、早くも正妃の片鱗を見せたアンであった。




 夜になり、アンの寝室にシンフォード家の影であるカスミが音もなく現れた。ベッドの横に立つアンの前で跪きながら、彼女に告げた。

「…御方様。公女殿下を連れ去ろうとした輩の正体がわかりました。今日はそれをお知らせに参上しました」

 独特の低い声でカスミはそう言う。アンは小さく頷いて先を促した。

「公女殿下、リナリア様を連れ去ろうという計画を作りあげたのはスルガ国の侯爵家の次男です。名をレオヴィルといい、王の側近の一人だそうです」

「そう。では、レオヴィルが独断でやったという事なのね?」

「そうだと思われます。レオヴィルに手を貸したのが白百合の君のアリシア殿の実家、バード子爵家です。

 成功したら、アリシア殿を妻として遇してもよいと言われていたという情報もありますが」

「……それはどうかと思うわ。アリシア殿は仮にも皇太子の妃なのよ。勝手に奥方として扱うのは不義密通になるのに」

 頭を抱えながら言うとカスミも呆れていたらしく、溜息をついた。

「…御方様の仰せの通りだと思います。アリシア殿は妃としての自覚がないと申しますか。軽いところがおありだとお見受けします」

 確かにと頷くとカスミは小さく笑った。彼女にしては珍しい事であった。

「でも、あなたが調べてくれたおかげで色々とわかったわ。ご苦労様」

「いえ。当然の事をしたまでです。けど、褒められるのは存外、良いものですね。御方様が主でようございました」

 カスミは小さく呟くとでは、失礼しますと口にしてアンの前から姿を消した。




 さらに月日は過ぎ、ヴェルナード公国は新年を迎えた。正妃候補のメアリアン・シンフォード以外は後宮から、妃達は姿を消している。その内の二人は隣国のスルガ王国に密偵として潜入してえ数々の情報を公国にもたらしていた。

 王がかつての隣国の側妃であるという事は知らず、二人をいたく気に入り、自身の後宮に入れたという情報がカスミから知らされた時にはアンは彼女達を気の毒にとさすがに思った。

 だが、アリシアはかつて、アンを侮辱してリナリア殿下を連れ去ろうとした余罪がある。それを思うと何とも複雑な心境ではあった。

 二十歳になったアンは正妃になるのも間近だと言われていた。大公陛下も退位されるかもしれないという噂も王宮には密やかに流れている。

 まだ、真冬の公都にてアンは正妃になるべく、日々、修練を重ねていた。サミュエル殿下から「正妃になってほしい」と告げられてから、四月が経っている。

 その間、殿下と会えるのは夜か昼間でもほんの少しの間だけであった。それでも、アンは文句を言わず、黙々と与えられた課題をこなした。

 自室にて暖炉の近くに座りながら、アンは編み物をやっていた。サミュエル殿下の膝掛けを作るつもりでいたからだ。お礼を期待はしていなかったがそれでも、彼の役に立ちたいとの一心で熱心に編み続ける。

 パチパチと暖炉の火がはぜる。部屋は十分に暖かくはあるがそれでも、厚手の靴下やショール、膝掛けをしていないとさすがに困るのはアンもわかっていた。

「御方様、いえ。お妃様。あまり、無理はなさいませんよう。風邪をひいたりしたら大変です」

「ええ、わかっているわ。けど、後もう少しだけ続けていたいの」

 穏やかな表情で告げたアンに変わられたとシンシアは感慨深く、彼女を見つめる。将来の大公妃になるべく、大変な毎日を送りながらもサミュエルの為にと膝掛けを作るアンは既に恋する一人の女性だ。その姿に泣きそうになるのを堪える。

 きっと、アンであれば、あの浮気性で有名だったサミュエルを安心させてくれるだろう。そして、良き夫婦になるはずだ。

 そっと、シンシアは今までの事を回想しながら、目元の涙を拭う。アン様、あなたにお仕えできて嬉しいですよ。そう、心中で囁いてシンシアはアンの足元に転がる毛糸の玉を拾い上げた。

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