ヴェルナード公国綺譚

入江 涼子

第1話

 空は憎らしい程、澄み渡っているのに。


 自分の心はどんよりと曇っている。

 さらさらとした黒髪は腰まで伸びていて、艶がある。

 まるで、トパーズみたいだと言われる琥珀色の瞳で窓ガラスの向こうの景色を見やる。

 燦々と降り注ぐ太陽は大地を照らす。

「…皇太子様の側妃だなんて嘘よね?正妃だったらわかるのだけど」

 少し低めの声は周囲の空気に溶ける。

 今は秋であるがここ、ヴェルナード公国は生えている木々が針葉樹が多いため、紅葉は少ない。

 それでも、一年を通して、温暖な気候のこの国は冬でも雪が降ることは稀だ。


 さて、ヴェルナードでは一、二を争うシンフォード公爵家の本邸である。

 長女で公爵令嬢のメアリアン・シンフォードはため息をついた。

 桧で作られた大きめの飴色をしたテーブルの上には一つの封筒が置かれていた。封蝋には鷲と杉の葉がかたどられたヴェルナード公家のみに許された家紋が押されている。

 ペーパーナイフで封筒の端を切って、中の手紙を取り出す。 そして、書かれた文章に目を走らせた。 走り書きのような文字でこう短く、綴られていた。

〈シンフォード公爵家に命を下す。

 公爵家令嬢のメアリアン嬢を皇太子の側妃に求める。

 この命を守らなければ、厳罰に処す〉

 メアリアンことアンはその強引な命令に辟易したのであった。



 翌日の朝、メアリアンは爽やかな日光の下、目を覚ました。侍女のメグとシェラが厚手のカーテンを開けて、声をかけてくる。

「おはようございます、アン様。朝ですよ」

 メアリアンではなく、アンと二人は呼んでくるが。

 それは気にせずに伸びをしながら、起きあがる。

「…おはよう。メグ、シェラ。父様や兄様達は起きておいでかしら?」

 まだ、ぼんやりとした頭で考えながら、訊いてみた。

 メグの方がアンに近づいてきて、小声でこう答えてきた。

「旦那様と若様方はもう起きておいでです。その、お昼になったら、お嬢様にお話があるとか」

「…わかったわ。今から身支度をするから。手伝って。後、朝食は軽めの物をちょうだい」

 そう、指示を出すと、メグとシェラは急いで動き始めた。

 さらさらとしたシーツとふかふかのクッション、暖かな寝具から出ると、アンは窓に近づいた。

 曇りがちな自分の心を軽くさせてくれるような黄や白の花ヶが咲いている。

 それに癒されながら、アンは窓から離れる。

 じきに、メグとシェラがやってきて、身支度を手伝うために準備を始める。

 昨日の手紙の内容を思い出しながら、父と兄の話は側妃のことであろうと考えた。

 気まぐれな皇太子の思いつきには呆れるしかなかった。


 顔を洗ったりした後、鏡台の前に座って、髪をシェラに結わせる。

 三つ編みを作って、それをまとめて髪留めでとめる。きちんとしすぎだろうが、まっすぐな硬い髪質なのでこういう髪型が一番良い。

「アン様はとても綺麗な髪をなさっていますわね。神秘的と言いますか…」

「そんな事ないわ。私はこの黒髪のせいで魔女の子だとよく言われたから。あまり、良い思い出がないの」

 アンは少し、自虐的な事を言ってみせる。

 皇太子の我が儘な要求のせいで皮肉の一つも口にしたい気分であった。

 何がわたしの側妃になれだ。

 ふざけないでといいたい。

「申し訳ありません、アン様がそんな事を言われたことがあったなんて」

「いいのよ。私も少し、言い過ぎたわ」

 髪を整えると、薄くお化粧をした。

 ドレスは淡い緑色でドレープはあまりなく、ワンピースに近い形でコルセットを必要としない。

 動きやすいデザインになっている。

「このドレスに銀製のヴァレッタでは地味ではありませんか?せめて、ビーズが使われていたら、華やかになりますのに」

「これでいいわ。私ね、家の中でまで派手にしていたくないの」

 シェラが不満を言うとアンはきっぱりとやり返した。

 二人のこういった言い合いはいつもの事である。

 アンは隣の続き部屋に移った。

 テーブルの上には軽くつまめる食事が用意されていた。

 水差しには柑橘水が入っており、横の皿にはサンドウィッチが綺麗に盛りつけられている。サンドウィッチを食べ始めると、メグがポットにお湯を入れて、茶葉を浮かべていた。

 カップに紅茶を注いで、ソーサーに乗せる。

 そして、テーブルにまで運んできてくれた。

 温かな紅茶には蜂蜜とレモンが入れてある。

 砂糖は貴重品ではあるが、アンの父や兄たちは好まない。

 なので、代わりに蜂蜜を使っていた。

 独特の甘みとレモンの酸味が合わさって、紅茶をさっぱりとした味にしてくれる。

 それを飲みながら、ゆで卵を細かく刻んだものやスモークサーモンとレタスにオリーブ油とブラックペッパーのソースで和えたものなどが挟んであるサンドウィッチを口に運ぶ。

 五つほどあったがすぐに食べてしまう。紅茶も一杯飲むと、アンは立ち上がった。

「ごちそうさま。おいしたかったわ」

「…お茶はもうよろしいようですね」

 メグが尋ねるとアンは頷いた。

「ええ、もう良いわ。今から父様の所に行くから、シェラ、連絡をお願いね」

 部屋の隅に控えていたシェラは素早く頷いてドアを開けた。

「では、先に失礼いたします」

 そう言って、シェラは小走りで父のガレスのいる書斎へと向かっていった。

 アンはそれをちらと見やると続き部屋を出る。

 メグに後かたづけを任せて、ガレスの元へとゆっくりと歩き始めたのであった。

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