第12話
その後、アンは自分の住まいである西の宮に戻った。
後宮へやってきて早二日が過ぎようとしている。
自分はリナリア殿下の身代わりで来たといったら、皇太子殿下はひどく驚いていた。
それが意外で父や兄の言っていたアンを身代わりにスルガ国に嫁がせるのを彼が反対していたのは事実だったとアンは改めて納得したのであった。
「御方様。右頬が腫れています。これで冷やしてください」
侍女のカトリーヌが水で濡らした布を持ってきた。
隣に立つイザベルは水を張った洗面器を持っている。
「…そう?ありがとう」
アンはカトリーヌから布を受け取ると言われた通りに右側の頬をそれで冷やした。
「それにしても、昼間は大変でございましたね。白百合の御方様がスルガ国と通じていたなんて。驚きました」
「アリシア様はあの後、捕らえられて牢獄に連れて行かれたわ。リナリア様を誘拐しようとしたり、他の妾妃たちにも毒を盛ろうとしたらしいもの。皇太子殿下もかなりお怒りになっていらしたみたい」
アンがため息をつきながら言うと、カトリーヌとイザベル、ゾフィーやシェリーは青い顔をして震え上がった。
「恐ろしいですわね。アリシア様は次の正妃の座がほしくて、他の方々を排除しようとしていたという話は聞いていましたけど」
「そうらしいわね。そこをスルガ国の王や父君に利用されたみたいだわ」
カトリーヌの言葉にアンが答えるとイザベルや他の二人はさらに震え上がった。
「アリシア様はアン様まで廃そうとしていましたものね。わたし、同情はできませんわ。捕まって当然といいますか」
イザベルが次にそういうとアンは頷いた。
「確かにその通りね。私も気をつけないといけないわ」
「…その通りですよ。アン様が狙われてもわたしたちでお守りしないと」
ねえと言ったイザベルにカトリーヌやゾフィー、シェリーは頷き合ったのであった。
夜になり、アンの頬の腫れもだいぶ引いていた。
「夕方よりはましになりました。けど、顔を平手打ちではなく、扇で打たれたのでしたね。さぞ、痛かったでしょうに」
イザベルが痛そうに顔をしかめながら言った。
アンは苦笑いしながら首を横に振る。
「そんなことないわ。怪我した事よりも自分の実家をおとしめられた事の方が腹立たしくて。あの白百合の君には相応の罰を受けてもらわないと気がすまないわね」
「…そうですか。御方様でもお怒りになることがあるんですね」
「まあ、命が助かっただけでも感謝してもらわないとね。私だって聖人ではないもの。人のことを憎らしいと思う時だってあるわ」
そうはっきりと言いきるとイザベルは感心したように笑う。
「それは人として当たり前だと思います。ゾフィーやカトリーヌ、シェリーは違う事を言うでしょうけど」
アンはくすりと笑った。
「…言うでしょうね。意外とイザベルは度胸があるわ」
「アン様ほどではありませんわ。けど、他の妾妃方は今回の件でだいぶ、怯えていられるみたいで。一番年上の黄薔薇の君のレイラ様はまだ冷静な感じでおられるみたいですけど」
そうと言うとイザベルは頷いた。
指を一本ずつ折り曲げながら、皇太子殿下の妾妃方の名前を一人ずつあげていく。
「…赤薔薇の君のオーロラ様や白薔薇の君のセイラ様は今日の夕食を侍女に毒味をさせたとかで。東のアリサ様に北のジュリア様も実家に帰る準備をなさっていると伺いました。南のスージー様は心配のあまり、今日だけはと殿下の訪れを待っておられますね」
訪れと聞いて、アンはどきりとした。
やはり、ここは後宮だ。
いずれは自分も皇太子殿下の訪れがあるだろう。
不思議そうにするイザベルにもう寝るからと告げて、アンは次の間を後にした。
翌日になり、アンは身支度をして朝食をとった。
だが、イザベルやゾフィーが毒味をしてから安全だと確認をした上でやっと、食事にありつけた。
毒や下剤を盛られる危険性があったからだ。
「…とりあえず、今日は何事もないようです。けど、軽食や間食をとられる時は必ず信用のおける者に申しつけてください」
そうイザベルに注意をされてアンはわかったと頷いたのであった。
朝食の後は庭で散策をと思ったが。
今は昼間が暑く日差しも強いため、部屋の中で過ごすことになった。
アンは実家から持ってきた歴史書や母のフィオナが送ってきてくれた恋愛小説などを読んでみる。
歴史書は全部で八冊ほどあり、それを一巻目から目を通した。
中には、初代大公の伝説や大公妃の事、そしてシンフォード家の事も書かれている。
初代大公はサミュエル皇太子と同じく、金色の髪に青紫の不思議な色の瞳をした男性だったらしい。剣術に長けており、治癒の魔法を使えた。
そして、黒髪と琥珀色の瞳の少女ー初代の大公妃も治癒や予知を行う事ができた。
当代の大公のウェルシス陛下は金色の髪と紫の瞳の美丈夫らしいから、どこかで初代の血を引いているといえる。
妃のレイシェル殿下もシンフォード家の出身でアンからいうとはとこに当たるそうだ。
今の当主のガレスのいとこの息女らしい。
そこまでを思い出しながら、歴史書を机に置いた。
皇太子であるサミュエル様は自分からいうと遠縁の親戚になるが。
それでも、他国に妹君や自分を人質として行かせないように策を巡らせていると聞いた。
なかなか、やり手だと思えたのであった。
アンが歴史書の二巻目に手を伸ばした時だった。
扉がいきなり開かれて、イザベルが慌てて入ってきたのだ。
「御方様。大変です!」
血相を変えて、いつになく真剣な表情のイザベルにアンは驚きを隠せない。
「どうしたの。イザベル」
掠れた声で問いかけるとアンに詰め寄ってくる。
「…それが。スルガ国の王がヴェルナード公国に来訪されるとか。公女殿下の代理でアン様に王のお相手をせよとの事です」
「なっ。私に?」
「ええ。皇太子殿下ではなく、大公陛下の命にございます。公妃殿下なども反対なさったそうですけど。公女殿下を危険な目にあわせるよりは良いとの事で」
あまりの事に頭が追いつかない。
大公陛下は私を公女殿下、リナリア様の身代わりにさせようとしているのだろうか。
体がぐらりと傾いてアンは絨毯の上にうつ伏せに倒れ込んでしまった。
「アン様!」
胸の辺りを押さえ、ぜいぜいと苦しそうに息をする彼女にイザベルは混乱しそうになる。
だが、首を横に振って自身を律する。
「誰か来て!西の御方様がお倒れになりました!」
大声で叫んで助けを呼んだ。
慌てて、続き部屋から待機していたらしいゾフィーやカトリーヌ、シェリーの三人が駆けつける。
後から、シンシアもやってきて、アンの様子を見て表情を変えた。
「ゾフィーは今すぐに医師を呼んできなさい。カトリーヌとイザベルは騎士を呼んで、寝台へ御方様をお運びさせて。シェリーは寝室を今すぐに整えて、準備を!」
次々と指令を飛ばして自らはアンの腕を肩に回して、支える。
ひとまず、彼女を長椅子に運んだ。
そして、女性とは思えぬ力で横たわらせるとシェリーと共に寝室へ行ったのであった。
アンが倒れてしまってから、半日が過ぎた。
過呼吸は治ったが、まだめまいが良くならない。
今は真夜中で医師の診察はとうに終わっている。
医師の見立てによると、「心労からきている」とのことだった。
「…アン様。医師がお薬を早速、処方してくれました。呼吸の乱れやめまいに効くとの事で。とりあえず、三日か四日くらいは安静にしてゆっくり休むようにと説明を受けました」
イザベルがお盆に小さな紙包みと水差し、コップをのせてアンの枕元にやってきた。
「イザベル。私、眠っていたの?」
掠れた声で問いかけるとイザベルは頷いた。
「ええ。昼間にお倒れになって、もう半日は過ぎています。後でサミュエル殿下がいらっしゃいますから。今の内にお薬を飲んでください」
そういいながら、イザベルはお盆をベッドの側にある机の上に置いた。
アンはくらりとしながらも我慢しながら、半身を起こした。
イザベルは紙包みを開いて、ベッドの側までやってくる。
そして、アンにそれを手渡してきた。
受け取ると包みの中には白い粉薬が入っている。
粉薬を顔の上にあげて口を大きく開き、薬をさらさらと入れた。
こぼれないように注意しながら、口の中に全部入れる。
それを見届けたイザベルは水をコップに注いで再び、アンに渡してきた。
コップを手に取ると苦さを我慢して少しだけ口を開いて、水を流し込む。
ごくりと音を立てて飲み込むとイザベルは気遣うように笑いかけた。
「よくできました。このお薬、かなり苦いものだそうで。わたしでも飲むには苦労しそうです」
「そうなの。でも、食事をとらずに飲んでよかったのかしら」
アンが難しい顔をしながら問うとイザベルは苦笑いした。
「それは大丈夫です。食前のお薬らしいですから」
へえと頷いたら、イザベルはアンの側から離れた。
持っていた紙包みも忘れない。
水差しやコップを机に置いて、薬も同様にする。
お盆だけを持って、お食事を用意しますねといいながらイザベルは部屋を出て行った。
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