第17話
ゾフィーが息を切らせながら、走って戻ってきた。
ドレスを着て待っていたアンはお化粧をしている最中であった。
「…あの、リナリア様が良いとの事です。メアリアン様がお会いしたいとおっしゃっているとお伝えしましたら。大層、驚かれていましたけど」
息を整えながら、ゾフィーが言った。アンはそうと笑いながら、頷いた。
「私がお会いしたいと言ったのはね。リナリア様にある事をお願いしたかったからよ。大公妃殿下に会わせていただきたいと思ったし、実家に帰らせていただきたいからなの」
カトリーヌが口紅を塗り終えた直後にアンはそう言い放った。途端に皆、また黙り込んでしまう。
しばらく、沈黙が辺りを支配する。最初にしゃべりだしたのはシンシアであった。
「御方様。実家に帰りたいなどと。そんな事をリナリア様にお願いするのですか?」
「そうよ。大公妃様を味方にできたら、実家に帰るのもやりやすくなるわ。それに、他のお妃方からの嫌がらせもなくなるから、得になると思うの。まあ、リナリア様をさらおうとした輩を確かめる為にもお会いするのは必要な事だしね」
「まあ、スルガ国のやった事かどうか確かめたいと仰せですか?」
シンシアが顔を青ざめさせながら、問うた。アンはそうよと頷いた。
「だって、気になって仕方なかったのだもの。けど、体調が優れなかったから、動けなかったし。リナリア様にも協力していただこうかしら。その代わり、皇太子殿下には内緒よ」
「ですけど、危険ですよ。スルガ国の王は気性が荒いと聞きます」
シンシアが言うと、他の皆も頷いた。アンは不服そうに顔をしかめる。
「危険であっても私は覚悟はできてるわ。皆が思ってるよりも役に立つと思うのに」
「…いけません。アン様は正妃候補とみなされているのですよ。貴方に何かあったら、わたし達が罰せられます。それに、皇太子殿下に知られたら後宮から完全に出してもらえなくなります」
真面目な顔で言われてアンは黙った。実家にますます、帰してもらえなくなる可能性は高まる一方だ。
このままでは非常にまずい。どうしたらいいのだろう。アンはまた、考えを巡らせる。
「…わかったわ。後宮を出るのはあきらめる。そのかわり、何かあったら知らせて。それくらいだったらいいでしょう?」
「…では、これからはそのようにいたします」
シンシアが頷いたのでアンは安心して、息を吐き出した。
そして、立ち上がってリナリア殿下の居所に急いだ。
「…あら、西の御方ではありませんか。いきなり、こちらに来たいとおっしゃるから。驚きましたよ」
部屋に辿り着いてのリナリア殿下の第一声がこれだった。アンは以前のお茶会の時よりもくつろいだ雰囲気の彼女に呆気にとられてしまう。
「…はあ。確かに、いきなり来てしまった事は謝りますけど。実はこちらにきたのには理由がありまして。お願いしたい事があるんです」
「何かしら?」
アンは、息を吸い込むとはっきり言った。
「リナリア様。私を実家に帰していただけるように皇太子殿下におっしゃっていただけないでしょうか?」
そう言うとリナリア殿下は目を見開いた。ソファーに座っていたのだが驚きのあまり、腰を浮かしてしまう。
「何をおっしゃるかと思えば。実家に帰りたいですって?」
「そうです。それが駄目だと言うのならば。せめて、スルガ国に私を送り込んでいただきたいのです。皇太子殿下のお役に立ちたいと思っているんです」
「……そう。兄様があなたをひどく心配していたのが今になってわかったわ。メアリアン様。悪いけど、どちらも無理よ。そんなことをすれば、父の大公や兄様が黙っていないわ。わたくしがわざと、スルガ国の者に連れ去らせようとした時だって兄様はひどくお怒りになったの。しかも、正妃候補とみなされていて国でも一、二を争う名家のご令嬢にそんなことをさせるわけがないわね」
理路整然と説明をされて、アンは押し黙った。確かに、その通りだ。
「そうですね。けど、私は怖いとは思いません。もともと、いらない子でしたから」
リナリア殿下はそれを聞くとソファーに座り直して、ため息をついた。
「そんなことはないと思うわ。いらない子だなんて誰が言ったの?」
「…親戚や両親の友人などですね。元の領地では魔女の子だとか呪われた娘と呼ばれていました」
リナリア殿下は眉をひそめた。そして、立ち上がるとアンの手をそっと、握った。
「ひどいことを言われてきたのね。わたくしだったら、倍返しにしてやるところだけど。あなたは本当に魔女の子だと自身を思っているの?」
「そこまでは思っていません。ただ、髪や目の色は変えようがないから、仕方がないと思っていました。けど、こんな私でも皇太子殿下に気に入られるでしょうか」
アンが首を傾げながら言うとリナリア殿下は手の甲をそっと撫でた。
「…大丈夫よ。そんなに心配しなくてもいいわ。わたくしから見ても兄様はあなたを気に入っているように見えるの。そうでなかったら、添い寝なんてしないわよ」
くすりと笑いながら、リナリア殿下はそう言った。アンはそれを聞いて顔を赤らめた。
「知っておられたのですか?」
「噂にはなっているわよ。皇太子殿下に寵姫ができたってね。わたくしもそれを聞いて驚いたわ」
アンはいたたまれなくなって顔をうつむかせた。リナリア殿下はころころと鈴を転がすように笑った。
意外と殿下は人をからかうのが好きらしい。皇太子殿下といい、リナリア殿下もひと癖あるようだ。
そう思いながらもアンは実家に帰るのは諦めようかと思ったのであった。
その後、リナリア殿下と話し合い、アンは情報収集をすることになった。だが、自分では直接できない。
なので、シンフオード公爵家に仕える影を活用することになった。この事実にアンは驚いた。
「…まさか、影がいたとは。今まで知りませんでした。リナリア様は色々と知っておられるんですね」
「まあ、大公家では常識だわね。他の貴族達も雇っていると思うわ」
へえと言いながら、アンは侍女が淹れてくれた紅茶を口に含んだ。リナリア殿下も机の上に置いてある皿に手を伸ばした。皿には茶菓子が盛り付けてある。ちなみに、クッキーやマドレーヌが綺麗に並べてあり、おいしそうな香りを漂わせている。
それを食べながら、殿下はこう言った。
「…とにかく、メアリアン様はおとなしくしておくことね。兄様に心配をかけさせないでちょうだい。そうでないと後が怖いわよ」
「はあ。わかりました」
神妙に頷くとリナリア殿下は気を取り直すように笑った。
「でも、どうしてもと言うんだったら。わたくしが力を貸すわ。その時はまた、こちらに来てくれたらいいから」
「…ありがとうございます」
「さあ、もう夕刻に近いから。帰った方がいいわ」
そう促されて窓に目をやると既に空は紅に染まりかけている。アンは慌てて立ち上がった。
「…ごめんなさい。長居してしまって。もう帰ります」
「ええ。明日も今くらいの時刻だったらこの部屋にいるから。また、いらしてくださったら良いわよ」
「じゃあ、失礼します」
一礼をして、殿下の居間を出たのであった。
アンは自室に戻るとすぐに、シンシアに命じた。実家の影を使う許可を得たいと口頭で伝えるようにというものであった。
シンシアは驚きながらもすぐに伝えに走って行った。それを見送ると机に向かう。
便箋を引き出しから取り出して、ペンとインクも自分で用意した。そして、手紙をしたためた。
<父上、いきなりこのような手紙が届いて驚かれているでしょうけど。実は父上にお願いしたい事があって書きました。既にお耳にされているかもしれませんが。
公爵家で雇われているという影を貸していただきたいのです。スルガ国の情勢を探りたいと思ったからです。後、リナリア殿下を連れ去ろうとした輩の事も気になっています。なので、皇太子殿下に許可をいただけたら、私もスルガ国に行こうかと思っています。王の目的が何なのかを突き止める必要があるからです。では、お体に気をつけてお過ごしください>
短めに書いて、封筒に入れる。封蝋をするために侍女のカトリーヌを呼んだ。
手早く、封蝋をして届けさせたのであった。
空はすっかり暗くなっていて、アンは疲れを感じて瞼を閉じた。涼しげな風が吹いて、彼女の黒い髪を撫でたのであった。
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