第Ⅺ章 未開 良い人、文明 悪い人

一方その頃、房江も自分の家で考え込んでいた。房江も同じようなことは考えてはいたのだが、もっと即物的というか、プラグマティックといったもので、それは次のようなことだった。房江の自問自答を聞いてみよう。

「レヴィストロースは、未開文明にもちゃんとした社会構造があるってことを証明しました、、、」

「それはいい、と。で、次に、未開文明も西欧文明も構造は変わらないことを示しました、、、」

「これもいい、と。故に、西欧文明が未開文明よりも進歩などしているというのは、驕りであり傲慢な過信であると批判しました、、、」

房江は自分で淹れた紅茶を一口啜った。リプトンのティーバッグだ。葉っぱはオレンジペコである。別に味にこだわりはないのだが、名前が可愛いから、昔からこれに決めていた。もったいないので、何時も二回はお替りするのだった。

「ふ〜ん、これが発端となって構造主義が生まれ、更にはポストモダンと呼ばれる一大社会ムーブメントと呼ばれるものに発展して行ったってわけかぁ、、、」

ティーカップを置く。

「まぁ、発展したんだからいいんだけどさぁ、、、」

房江はおもむろにデスクに飾っておいたミッキーとミニーの人形を取り上げた。

「あれ?ミッキー、何しているの?」

「やぁ、ミ二ー、今ね、ブラジルのボロロ族のお家にホームステイしてるのさ。」

声音もミッキーとミニーで変えているようだ。お聞かせできなくて申し訳ない。

「へぇ、ブラジルのボロロ族かぁ。未開文明だからといっても、見下したりしていないのね、ミッキーって偉いわ。」

「そんなことないよ、ミニー、人間として当然さ。第一、ここは親族関係だってしっかりしていて、婚姻する相手は部族の間でしっかりとした決まり事に従うんだぜ。」

「決まりごとに従うのなら、自由恋愛ではないのね。」

「当たり前だよ、自由恋愛なんてもってのほかさぁ。」

「何で自由恋愛がもってのほかなの?」

「だって、そんなことしたら、村の男全員がミニーみたいに可愛い村娘と結婚したがっちゃうじゃないかぁ。」

「そうなっちゃうのは致し方ないわねぇ。」

「村の男全員で、ミニーの取り合いになっちゃうよ。」

「まぁ、どうしましょう?私を取り合って男たちが戦うのね。」

「そうさ、ミニーをめぐって、村中が血で血を洗う殺し合いさ。」

「辛いわ、求められる身は辛いわぁ。」

「辛いだろ、何とかしたいだろ。」

「したいわ。何とかしたいわ。」

「そうだよ、何とかしないと殺し合いで死んだり、死ななくてもあぶれたりしちゃうんだよ。」

「え?あぶれちゃうの?」

「あぶれちゃうさ。だってそいつらはミニーの取り合いに負けたんだぜ。」

「でも、村には他にも女性はいるんでしょ?!」

「そう言う女性は、とっくに他の村に嫁いでいるさ。」

「そりゃ、そうね。適齢期とかあるもんね。」

「だから、そんなことしていたら、男があぶれちゃって、村が全滅しちゃうのさ。」

「なら、どうすればいいの?」

「だから自由恋愛をやめるのさ。」

「回り回って、そこに戻るのね。」

「婚姻関係をガッチガチに固めるのさ。」

「そうやって親族や部族を護って生き抜いていくのね。」

「ようやくわかってくれたみたいだね。」

「うん、ミッキー良く分かったわ。親族関係の根本には女性の交換という社会的なメカニズムがあること言うことよね。」

すると、房江はミニーをあちらこちらに動かして、その首を傾げさせた。

「あれぇー、ミッキー、、、」

ミニーをミッキーの方へ向け、向かい合わせる。

「ところで、ベッドは何処にあるの?」

「そんなのないよ、ミニー、寝るのは地ベタさ。」

「あぁ、そうなのね、ミッキー、腰に気を付けてね。じゃぁ、水は何処で飲むの?」

「水は雨水を貯めるか、川に汲みに行くのさ。」

「ウ、ワ、ワ、そうなのね。お腹、くださないようにね。私はペットボトルの水にするわ。ところで、電気は?」

「そんなもの、ないよ。陽が昇れば起きて、陽が沈めば寝るのさ。」

「そ、そうなんだ。まさに晴耕雨読ね。」

「本がないから寝るだけだけどね。」

「そうよね、寝るだけよね。け、健康的だわ。食事はどうするの?」

「食事も、自分で魚を釣ったり、獣を狩ったりするんだ。」

「うわぁ、ワイルドだわ。」

「ワイルドだろぉ。」

「ミッキー何言ってんの?」

「、、、」

「、、、」

「釣った魚や狩った獣の肉は、すぐに捌くから新鮮だぜ。」

「オ、オ、オ、美味しそうね。」

「血が飛び散るけど、すぐに慣れると思うよ。」

「血が飛び散っちゃったら、服をクリーニングに出さないといけないわね。」

「そんなものないよ。」

「ならどうするの?」

「川で洗うと、川も服もピンク色になって、綺麗になるんだぜ。」

「綺麗って意味が違うと思うけど、、、」

「でも、何にも採れない日もあるから、その日は我慢だね。」

「ソ、ソ、ソ、そうなのね。武士も食わねど高楊枝ね。」

「楊枝なんてどこにもないよ。木の小枝を使うのさ。」

「そ、そうだわ、楊枝とか割りばしって、一時は無駄に木材を使うからって環境に悪いって言われたりしたけど、実は森って定期的に木を間引かないと、逆に生えすぎて二酸化炭素の吸収が出来なくなっちゃうのよね。だから間伐が必要で、それで廃材になる木を使っているから、逆にエコだって言われるようになったのよね。」

「、、、」

「あ、私ったら何言ってるんだろう。そうだ、食事の話よね。私はコンビニ弁当か一人用の宅配弁当でどうにかするわ。」

「え、ミニー、こっちにはコンビニも宅配もないよ。」

「え?ないのかぁ。残念だなぁ。」

「森にはどんぐりとかキノコとか、食べられる草や木があるから、採ってきてあげようか?」

「あぁ、えぇと、野菜は間に合ってるから、遠慮しとく。」

「遠慮しとくだなんて、相変わらず照れ屋さんだなぁ。」

「いや、そう言う意味じゃなくって、、、」

「ところで、ミニー、君は何時こっちに来るんだい?」

「え?来るんだいって、私がそっちに行くの?」

「当たり前じゃないか。早く来ないと雨季が始まっちゃうよ。」

「雨季の前に行ったって、どっちにしろ雨季にはなっちゃうんでしょ。」

「でも、街に繋がる道路がぐちゃぐちゃになるから、雨季になると村に来るのは命がけだよ。」

「ブファッ!」

紅茶を吹き出す房江。自分で口と机を拭く。

「どうしたの?大丈夫、ミニー。」

継続。

「平気よ、ミッキー。眩暈と吐き気と悪寒がしただけだから。」

「あぁ、それならよく効く草があるから、森に摘みに行ってこようか?」

「いいえ、ロキソニンがあるから、それには及ばないわ。」

「そうかい。くどいようだが言っとくけど、雨期に入ったら四駆でもタイヤが空回りしちゃって、男四人で押してやっとこ動く感じだから、大変だからね。」

「分かったわ覚悟しておくわ。」

「そうだね、それに越したことはないよ。悪くすると数週間は掛かるからね。」

「えぇ?今なんて言ったのぉ?」

「数週間は掛かるって言ったんだけど、、、」

「す、す、数週間?」

「あぁ、ニ三週間!」

「時間でも日数でもなくて、週間なのね。」

「あぁ、一番近くのマナウスからなら、普通なら陸路でも川伝いでも数日で着くんだけど、雨が降っちゃうとね、、、」

「あ、雨が降っちゃうとね、そ、そうなっちゃうんだよね。」

「あぁ、雨を舐めちゃいけないんだ。」

「決して舐めたりはしないわ。」

「そうか。なら君が来るのを心待ちにしているよ。」

「いや、心待ちにはしなくてもいいのよ。」

「だって、早く君とこっちでフィールドワークしたいじゃないか。」

「え?私がそっちでフィールドワークするの?そんなこと言った覚えないわよ。」

「覚えがないって、こっちに来なかったらフィールドワークが出来ないよ、文化人類学お得意の、レヴィストロース直伝の、フィールドワークが出来なくなっちゃうよ。」

「何言ってるの、ミッキー?」

「あ、しまった。日が沈む前に焚き火用の薪を拾っておかなくちゃ。小枝を集めに森の中に行かなくちゃいけないんだ。」

「そ、そうなのね。大変そうで、ご苦労様だわ。」

「クマやイノシシにも警戒しないといけないから、結構気を遣うんだ。」

「それはとっても危険なお仕事ね。気を付けて行ってね。」

「そういうわけだから、君の相手をしている暇はなくなってしまった。また、明日にしようか?」

「そ、そうね。お忙しいなら、明日とは言わず、その次でもいいわ。」

「何言ってるんだよ。じゃぁ、今日はここまで。バイバイ。」

「バイバイ、、、」

ため息をつく房江。一人芝居とはいえ、結構疲れたご様子である。

「って、どう考えたって無理ゲーだわ!」

と、独りごちる房江だが、

「やっぱ、文明よね。てか、文明も未開から出発したんだからってだけの話よね。」

房江はティーカップの残りを飲み干した。もう一杯は同じティーバッグでも出るはずだ。

「何で未開のままでいなきゃいけないのかしら?」

房江は二杯目のオレンジペコを淹れながら、思った。

「まるで、未開 良い人、文明 悪い人、みたい。」


とここまで考えて、ふと思った。

「一人で考え込んでもなぁ。そうだ、、、」

そして携帯を取り出した。

「もしもし、キャリー、ゴメン、今ちょっといい?」

携帯の向こうはキャリーだった。

「全然オッケー、暇してたし。どしたの?」

というわけで、力強い味方を得た房江。

「実はさぁ、ちょっと哲学の話で相談したくってさぁ。前にキャリーがポストモダンはどうでこうでって話してたじゃない、、、」

「あぁ、ラカンの鏡像現象って意味不とか言ったこと?」

ラカンとはジャック・ラカンの事で、ポストモダンの巨匠と呼ばれる哲学者だ。鏡像現象とは、そのラカンが説いた小児の発育段階における自我の形成について論じたものである。ラカンによると、小児は鏡に映る自分を見ることによって自我が形成されるという。よってその現象を鏡像現象と呼ぶわけであった。ご存じの方も多いと思う。

「そうそう、『鏡が作られる前は自我がなかったのかい!』、って変な大阪弁で突っ込んでたやつ。」

因みに鏡が発明されたのは14世紀のイタリアのベネチアと言われている。つまり、ラカンの鏡像現象に従えば、14世紀までは人類に自我が形成されることはなかった、と言うことになってしまう。キャリーはそのことを大阪弁で表したかったのだろう。

「変な大阪弁は余計なんですけど。」

「でね、ちょっと質問なんだけど、レヴィストロースっているじゃない、、、」

「あぁ、ポストモダンのキッカケになったリーバイスね。」

「リーバイスってジーンズメーカーじゃない?」

「いや、レヴィストロースって英語読みにすればリーバイスでしょ。」

一応、レヴィストロースの綴りは、Lévi‐Strauss 、リーバイスの方は、正式名称はリーバイ・ストラウス で綴りは、Livi Straussで、フランス語と英語の違いはあれ、同名と言える。昔、スウェーデンのサッカー選手で、ケネット・アンデション(Kennet Andersson)という人がいたが、これを英語読みするとケネス・アンダーソン(Kenneth Anderson)となるのと同じである。説明例がマニアックで申し訳ない。

「あ、そうか、英語読みだとリーバイスかぁ。」

「ね!」

「それって、その界隈ではそう呼ぶのが習わしな訳?」

「ううん、習わしじゃないよ。」

「ならなんでわざわざレヴィストロースをリーバイスなんて呼ぶのよ。」

「何か流行るかなぁーって思って。」

「はぁ?」

「流行らせよっかなぁーって思って。」

「あんたねぇ、、、」

「やっぱだめかなぁ?」

譲歩して先に進む房江。

「で、そのリーバイスがさぁ、それまでの哲学って言うか、西洋文明ってかを、全否定ってか、した訳じゃん。」

「『悲しき熱帯』とか『野生の思考』とかでしょ。」

「さっすが、付属のみちょぱ、良く知ってるわ。」

「何言ってんの県立のみりちゃむがぁ!」

二人のよいしょ合戦は置いておくことにしよう。兎にも角にも、先に進んだ房江の選択は間違っていなかったようである。

「でさぁ、リーバイスはさぁ、ヨーロッパの奢りを諭したというか、貶したというか、要は批判したわけだよね。」

「そうね、ブラジルの未開な部族でも、ヨーロッパとあまり変わらない親族構造とか持っていたわけだからね。」

「と言うことはさぁ、文明を否定したわけ?」

「う~ん、文明否定って感じではない気がするけど、、、」

「でもさぁ、ブラジルのボロロ族って、シャワーもなくて、トイレは汲み取り式っていうか、絶対ウォシュレットとかってない訳じゃん。信じられなくない!?」

「そこかい!われの言いたいんはそこだったんかい!」

と変な大阪弁で突っ込んではみたものの、キャリーも、

「まぁ、そう言う意味では文化人類学者って、大変よね。ナスDみたいなこと平気でやっているような人たちだからね。」

ナスDとはテレビ番組のディレクターで、アマゾンなどの文明が殆ど及んでない地域への突撃取材企画で一時期評判になったメディア関係者である。彼の番組をご覧になった方も多いことと思う。


すると、ナスDで思い出したのか、

「あ、そうだ。この前、ユーチューブで昔のテレビドラマやってたんだ。」

と、房江が言い出した。脱線である。

最近は昔テレビで放映されたドラマが、たまにユーチューブで流れる時がある。

「そうそう、『ふぞろいの林檎たちⅡ』って奴。キャリー、知ってる?」

房江はそのドラマを思い返した。

「あ、私も見たかも。あの可愛い女の人誰だっけなぁ、、、て、て、てづ、」

「手塚理美じゃない!」

出演者は、手塚理美、石原真理子、中井貴一、時任三郎などである。

「それでさぁ、ロケ地が下北だったみたいなのよね。あんまり市街風景は出ていなかったけど。」

下北とは、東京の渋谷や新宿にもほど近い、お洒落な若者の街として有名であるが、テレビドラマの放映時にはどうだったのか、定かではない。

「そうそう、私も思い出した。主人公の時任三郎が住んでる下北のアパートが出てくるんだけど、ちっちゃい玄関を入ると1Kなのよね。しかも四畳半の畳。」

と、キャリーである。以下順番なので、その旨でお読みいただきたい。

因みに1Kとは一間にキッチンが付いた部屋、と言うことである。言うまでもない。ただ、今の時代に一間が四畳半というのは、なかなかないのではなかろうか。まぁ、今ではそれが畳だったら、逆に贅沢なのかもしれないが。進もう。

「キッチンも流しにガスコンロがあるだけで、魚のグリルはないし、壁の換気扇なの。」

壁の換気扇とは、多分コンロの上部を覆うレンジフードではなく、壁の壁面に直接取り付けるタイプのものを意味しているのだろう。スイッチが付いた紐が垂れていて、大体の家庭で油汚れがひどかったものである。

「トイレはあるようだけど、もしかすると和式かもしれないし、お風呂とシャワーは確実になかったわ。」

所謂、ユニットバスになる前の構造なのだろう。お風呂はお湯を張るものであり、湯船は浸かるものだった。

「当時はあんなところに住んでいても、誰も文句はなかったのよね。」

その通りで、「ふぞろいの林檎たちⅡ」は、特に貧乏でもないが、取り立てて裕福でもない普通の大学生の物語である。

「それにしても、下北であれって、ちょっと信じられなかったわ。」

下北沢は確かに今はおしゃれな街ではあるが、南青山や西麻布といった高級地ではない。しかもすでに述べたように、当時の下北沢は今ほど有名ではなかったことも確かである。ただ、それにしてもちょっとと思ってしまったと言うことなのだろう。

「練馬や板橋だったらいいってわけでもないけどね。」

「そうよ、赤羽や北千住だって、結構綺麗でお洒落なのよ。」

「うわぁ、上からぁ、、、」

「何言ってんのよ、大体があんたが言い出したんでしょ。練馬や板橋に謝りなさいよ。」

一息つく二人。

「でもさぁ、たまに昔は良かったとか、その方が地球に優しい脱炭素だ、なんていう人いるけど、何か胡散臭いわよね。」

思い出したように続ける房江。

「あの斉藤ナントカって経済学者とかでしょ。1970年代後半ぐらいがいい、とか言っていたけど、それだったら『ふぞろいの林檎たちⅡ』より前よね。」

確かに斎藤幸平という若手の経済学者が、脱炭素、脱成長を唱え、モデルにすべき生活は1970年代後半という。一方のⅡも含めた「ふぞろいの林檎たち」は、1980年代の学歴差別をテーマにした若者たちの物語である。

「ということは、」

今度はキャリーがネットで調べてみるようだ。二人とも、パソコンでネットを調べ、携帯で電話をしている。Zoomの方が効率は良さそうだが、流れでこうなってしまったようだ。探しているのは当時の生活風景らしい。以下は、ほどなくして見つけた1970年代後半の生活風景のイラストの感想である。

「え?待って!スマホはなくて黒電話が一台?」

確かに、かつては電話は一家に一台であった。若者の恋人同士の電話は、両親に筒抜けだったものである。

「テレビも一台だし、エアコンもないんだ。キツ!」

驚愕するキャリー、そして房江。

確かに昭和の時代はテレビも一家に一台が基本だし、余程のお金持ちの家でなければエアコンはない。ついでに音楽はレコードをプレーヤーに掛けて、ステレオで聴いたものだ。

「しかも、リビングにみんなが集まってる!」

まだ、お茶の間というものがあった時代だ。ザ・昭和である。

ふとキャリーが気が付く。

「ねぇ、さっきからベッドって見当たらないんですけど。」

「ベッドじゃないんじゃない。」

「ベッドじゃないってどゆこと?」

クエスチョンマークが飛び交っているキャリー。

「だから布団で寝てたのよ、この頃は。」

「あぁ、旅館みたいにかぁ。」

「そうそう、ホテルじゃなくて、旅館だね。」

「じゃあ、一々敷いたり畳んだりしてたのね。」

「こう、三つになる様に畳んで、押し入れに入れてたのよね。」

「こうって、こうやってやる奴ぅ?」

「そう、こうやってこうやる奴。」

見えないのになぜか同じ動作をしている二人。

「じゃぁ、シーツとかも上に敷いてたんだね。」

「そうよ、シーツは別に畳まなきゃいけないから、面倒なのよ。」

「だからたまに一緒に畳んじゃうんだよね。」

「男の人とかは特にね。」

「何で知ってるのよ、そんなこと?」

不意を突かれる房江。

「感じよ、感じ。」

そう言うと房江はパソコンから目を離し、携帯のキャリーに改めて問うた。

「本当に、この時代に戻りたいのかなぁ?」

間髪を入れずに、

「戻れないっしょ、いくらなんでも。」

とはキャリー。

房江の問いかけは続く。

「確かにコンビニは二十四時間でなくてもいい。」

「まぁ、吉野家とかも二時くらいには閉店するしね。」

「アマゾンも翌日配達でなくても許せる、、、」

と言いかけて、

「、、、人もいる、ぐらいかな。」

房江には迷いもあるようだ。

「う〜ん、ギリ。でも、翌々日以上はきついかな。」

キャリーの合いの手だ。

房江の問いかけは続く。

「グレタさんとか、本当にこんな生活したいんのかなぁ?」

「グレタ・トゥーンベリね。」

グレタ・トゥーンベリは、スウェーデン人の女性環境活動家で、15歳の時、スウェーデン議会前で呼びかけを行ったことをきっかけに世界的に有名となった。

「ってか、勝手にすればって思ったり、、、」

「ラジバンダリ、、、」

「、、、」

「、、、」

「確かに脱炭素って大切だと思うけど、それって脱成長なのかなぁ?」

今度は真面目なキャリー。

「何か、ビジネス臭いんだよなぁ、SDG’sって。」

「それなぁ、、、」

同意する房江。

「胡散臭いだよなぁ。太陽光パネルでヴィーガンなんだよなぁ。」

解説は敢えて省くことにする。SDG’sも太陽光パネルもヴィーガンも、言葉の意味というより、語感が生み出すニュアンスみたいなもので使用しているためである。ところで、みなさんは、どうだろうか?

「やっぱ水素っきゃないか。」

「それに核融合だね。」

「フ、フ、フ。」

「ハ、ハ、ハ。」

「あ~、でもなんかすっきりしてきた。」

房江は大きく息を吐いた。

「スッキリしたのね。」

「ありがとうキャリー。」

「どういたしまして。」

「さっすが、付属のあおちゃんぺ、だけあるわ。」

「何言っとんねん、この県立のゆきぽよがぁ。」

再び笑い合う二人。

「フ、フ、フ。」

「ハ、ハ、ハ。」

すると房江が口調を変えて、静かに話し出した。

「あのさぁ、あれからリュウノスケと連絡取り合ったりした?」

キャリーの口調もそれまでとは一変し、物静かに答える。

「ううん、連絡来てない。」

「なら、キャリーからすればいいじゃん。」

「う~ん、あんまりしたくないかな。」

沈黙。

「怒った?」

「房江に怒る訳ないでしょ。」

「だって、おせっかいかもしれないし、、、」

更に沈黙。

「リュウノスケ、ああ見えて子供だからさぁ、、、」

「分かってる。」

もう一度の沈黙。

「じゃあね、切るね。」

キャリーが答える。

「今度してみる。」

房江は笑みを浮かべ、

「それが良いよ。キャリーらしいよ。」

「何言うてんねん。」

「フ、フ、おやすみ。」

「ばぁーい。」

最後はいつもの口調に戻ったキャリーだった。

その声を聞いた房江にも、笑顔が戻った。


携帯を切った房江は、そもそもの園田の思考実験に戻った。その問いとは、

「何故、哲学だけを混ぜっ返す事が出来たのか?」

である。

何となく房江は思った。

「混ぜっ返しても困らないから、混ぜっ返せたのかも知れない。」

頭の中の思考回路はこうだ。

「混ぜっ返しても、シャワーはあるし、汲み取り式に戻るわけではないんだ。トイレは水洗で、お風呂も銭湯や釜で焚くわけではなくて、セントラルヒーティングなんだ。」

何をいいたいのか、喉まで出かかっている気がする。

「つまり、純粋に哲学だけが混ぜっ返されるってこと?他には何の迷惑も掛けないってこと?」

朧げながら答えのようなものが見えた気がする房江だった。


そこまでで哲学に関する考えに一区切りつけた房江は、今日も日課に着手した。いつものおじいちゃんの原稿のデジタイズ作業だ。棚から原稿用紙を取り出すと、しおりを開いた。

「うん、結構進んでる。」

厚さで言えば何センチだろうか。既に後半も更にその半分は過ぎようとしていた。

「とことんハードボイルド調なのね、おじいちゃんって。」

そんなことを呟きながら、房江は祖父との静かな時間を過ごすのだった。

「でも、本当に、字、汚な!」


翌日の放課後には、またもや園田といつもの三人が教室に残っていた。早速、園田が口を開く。

「で、どうだったかな。何故哲学だけを混ぜっ返すことができたか、答えは出たかな?」

リュウノスケが洋平に目配せし、ついで房江に聞いた。

「俺からで良いかな。」

房江が答えようとするが、その答えを遮るように、

「ていうか、俺と洋平、二人なんだけど。」

というと、それを聞いた房江は、

「え?二人は話したの?それってずるくない?」

まぁ、確かにずるいはずるいので、

「いや、電話したのは俺の方だから、ずるいのは俺。」

「いや、それに応じたのは俺だから、俺も同罪だけどね。」

何も言わず肩を竦めて笑顔を見せる房江。キャリーに相談していたためか、内心では房江も二人を責める気は毛頭なかったようだ。

兎にも角にも、それに済まなさそうに顔と手で合図をすると、リュウノスケはこう切り出した。

「俺と洋平は、まず西洋哲学ないしは西欧文明というものが、ある種の箱庭みたいなものかな、と考えました。」

「ほう、思いきった比喩かもなぁ、それは。」

と、園田が感心したように答えた。

「へぇー、箱庭かぁ。何か、わかる気もするぅ。」

とは、房江の感想だ。

そんな房江の感想に気を良くしたのか、リュウノスケはこう続けた。

「箱庭の中が哲学、でも箱庭は別にもあって、経済の箱庭、政治の箱庭、とかもある。よって、」

なるほどといった感じで、園田が無言で頷く。リュウノスケの言葉は続く。

「レヴィストロースが、いくら哲学の箱庭を混ぜっ返しても、他の箱庭には影響がない。」

房江が引き取るように後を繋げた。

「逆に言えば、だからこそ安心して混ぜっ返した、というわけね。」

頷くリュウノスケと洋平。

「何か、混ぜっ返し方も上から目線な気がして、嫌な感じね、西洋って。」

ちょっとお怒り気味に房江が言う。顔で軽く反応したリュウノスケは房江に問い返す。

「そういう房江は、どうなの?」

園田と洋平も房江に視線を向ける。房江はそれに応えるように、こう話した。

「私が素直に疑問を持ったことは、、、」

言葉を選ぶ房江。

「『そんなに未開って良い?』ってことかな。」

「は?」「は?」「は?」

これにはリュウノスケだけでなく、洋平と園田も意表を突かれた。

「だから、私が素直に思ったのは、文明ってそんなに悪いかなぁって。」

房江が誰にするか多少迷いつつも、仲の良いリュウノスケに、

「リュウノスケはさぁ、トイレが水洗でなくても、有機野菜だった江戸時代が好き?」

答えるリュウノスケも、

「俺、ヴィーガンじゃねぇし。」

と、来るので、園田が割って入り、

「如月は、文明が遅れていても、悪いことばかりじゃないと言いたいんだな。」

房江は園田に向き直ると、

「いいえ、その逆で、未開って結構キツいなって思うんです。」

妙な説得力に気圧される男達。

「何か変な憧れっていうか、無い物ねだりっていうか、本末転倒というか、、、」

そこから約十分に亘る房江による逆文明批判が展開された。ラストの一言は、

「やっぱ、水素と核融合ぅっしょ。」

だった。

房江の話が一段落ついたところで、園田が口を開いた。

「みんな、よく考えてくれたね。林と榊原は『箱庭』って言う言葉で西洋哲学を表現してくれたね。」

そう言うと、

「何もかもがその空間の中で完結しているってことだね。言い換えれば小宇宙ってことだ。うーん、良いねぇ。」

嘘が上手そうにない園田からそう言われて、思わず笑みがこぼす洋平とリュウノスケ。

「如月の方は、文明というものの見直しだね。」

と言うと小声になって、

「実を言うと、私もあの斎藤なんちゃらって人、好きに慣れなくてね。如月がズバッとぶった切ってくれたんで、スカッとしたよ。」

「先生、小声になっても全然聞こえてる。」

そう言う房江に、全員が笑う。

「まぁ、レヴィストロースも自分で自分の箱庭をひっくり返したようなもんだから、まるで独り相撲みたいなもんさ。」

と、園田も園田でぶった切ったようだ。

「じゃぁ、元の質問に戻るとしよう。」

園田は改めて三人を見回した。そして言った。

「その上でだ、、、」

つばを飲み込む園田。

「、、、何かおかしくはないか?」

園田の視線を受け止める三人。園田は続けた。

「これは、正解があるような社会科の問題と言うわけではないぞ。誘導尋問でもない。しかも、俺の個人的な見解だ。」

すると房江が、

「先生が言いたいのは、西洋哲学はわざと難しくしてるってことですか?」

その言い方には、リュウノスケと洋平も思い当たる節があるようだ。

「実は僕らもデカルトってやり過ぎかもって、な?!」

と、リュウノスケが洋平を見る。すると洋平が、

「あぁ、『我思う、ゆえに我あり』って分からなくはないけど、当たり前って言えば当たり前なんじゃないかと。」

「ハ、ハ、そう言えばそうよね。」

そう言うと、房江は手を叩いて笑った。園田が言葉を繋げた。

「つまり、大元からなんかおかしいんじゃないか、と思うんだよ。」

そういうと、園田はすぐに付け加えた。

「言ったかもしれないが、飽くまで俺の個人的な考えだが、大元からわざわざ難しくしている気がしてならないんだよ。」

「大元って言いますと?」

房江が即座に反応した。

「つまり、レヴィストロースより、大元ってことですよね。」

リュウノスケがそう確認すると、

「ってことはソクラテスであり、プラトンであり、アリストテレスであり、、、つまりは、ギリシャってことですね。」

と洋平が結論付けた。

「あぁ、端的に言えば哲学の大元、ざっくり言って、」

すると他の三人もその言葉を口にした。

「存在論と認識論」、「存在論と認識論」、「存在論と認識論」

「ハ、ハ、ハ、、、」「ハ、ハ、ハ、、、」

「フ、フ、フ、、、」「フ、フ、フ、、、」

笑みが漏れる四人。園田が続ける。

「つまり、哲学って、はなっから難しすぎたんじゃないかってね。」

園田は立ち上がり、教室の中をゆっくりと移動しながら喋り出した。

「元々は、アリストテレスもプラトンも、ギリシャの暇ばっかり持て余した人たちだ。日々のことは全て奴隷がやってくれ、家の生活のことは女性がやってくれていた人たちだ。それがやる事無いので、思いっきり考えることにした。」

「暇だから?」

房江が質問を挟む。

「そう暇だから。」

園田はゆっくりと歩きながら続ける。

「暇だから、色んな事を考えた。星の動きとか、川の流れ方とか。それらは確かに天文学とか土木工学といった形になったものもあった。所謂、理科系の学問だ。」

「そこからすでに、文科系、理科系の区別が始まったんですね。」

今度はリュウノスケである。

「そう、今まさに言ってくれた文科系の学問も始まった。経済はちょっと遅れたかもしれないが、政治なんてのは民主制とか、なかなか凄かった。」

園田は歩みを止め、席の机に腰を乗せると、更に続けた。

「その中でも、最も難しく重要だとされたのが哲学だ。なんといっても、形而上学なんて言われたくらいだからね。」

順番としては洋平である。

「形而上、矢吹ジョー、なんつって、、、宍戸錠、なんつって、、、」

じろりと三人から睨みつけられる洋平。軽く無言で首を竦める。園田の言葉は続く。

「そして、哲学は考えることにした、何で人間は存在するのか?」

「それが存在論ですね。」

房江。

「ざっくり言えばそうだね。そして、それは果たして理解可能なもので、人間はそれを理解出来るのか。」

「それが認識論ですね。」

リュウノスケ。

「つまり、哲学って、存在論と認識論が土台だったと。」

洋平がまとめる。

「その通り。」

「その土台の上なら、いくら混ぜっ返そうが、所詮箱庭の嵐だったと。」

洋平のまとめは続いた。

「その通り。繰り返しの繰り返しだけど、私個人の見解だけどね。」

房江が確認する。

「先生が何度もおかしいと言ったこと。そしてそのおかしさは西洋哲学が、何故か難しすぎること。そしてその原因が『存在論』と『認識論』、そのものにあったこと。わかった気がしました。」

リュウノスケと洋平、更には園田も加わって拍手をした。


房江は軽くそれを受け止め、

「で、先生はそれを進化論がぶち壊したって言いたいんですか?」

ようやく本題に辿り着いたのかもしれない。

「ダーウィンの進化論が、哲学をぶち壊したってことですか?」

リュウノスケが確認する。

「ということは、進化論が存在論と認識論を否定したんですね。」

ダメ押しは洋平である。

「うーん、、、」

というと、園田は口をややとがらせて、ぶつぶつと話し始めた。

「だって、サルが人間になっただけなんだもんなぁ。存在の意味とか別にないもんなぁ。」

サルがボスザルの顔色をうかがうことから、知性というものが生まれ、それが人間となった。ただそれだけのことであり。その存在にそれ以上の意味があるわけではない。

「顔色をうかがうのが認識なんだから、それだけで良いもんなぁ。」

顔色をうかがうのが知性なのだから、顔色をうかがった時点で認識は成り立っている。それを疑っても意味はない。

そして、締め括るように、ちょっと困った顔をしてこう言った。

「そうなっちゃうよなぁ。」

分かってはいるものの、やはり膝の力が抜ける三人。

「そうなっちゃうよなぁ、ってなんか迫力ないなぁ。」

不満げなリュウノスケである。

「ぶち壊したんですよね。だったら、もっと勢いがあっていいんじゃないですか。」

「そうよ。高慢ちきな西洋哲学とやらの鼻っ柱を折ったんですから、、、」

と鼻息が荒い房江である。それを洋平が引き取り、

「こうやって床に叩きつけて、靴の裏でぺしゃんこになるまで踏みつけて、二度と立ち上がれなくなるまでコテンパンに、、、って、する必要もないですけど、兎に角、大どんでん返し、じゃぁないですか!?」

確かに洋平の言う通り、大どんでん返しではあるにはあるが、園田は笑顔で、

「そうだよねぇ、そうなるよねぇ。」

の軽いノリである。

「あぁ、もう、気が抜けるんだからぁ。」

房江だ。

「そうですよ、なんか高揚感とか、達成感とか、ないんですか?」

リュウノスケである。

「何かもっとガツンと行っちゃいましょうよ!」

とは、洋平である。

園田の答えはこうだった。

「だってね、今更ではあるじゃないか。」

「え?」「え?」「え?」

園田の言葉に、更に膝が折れる三人。

「だって、ダーウィンって十九世紀の人だぜ。」

何だかべらんめぇ調になる園田。何となくそうなる気分が分からないでもない三人。

因みにダーウィンの生没は、1809-1882である。丁度、十九世紀を生きた人物と言って良いだろう。

「しかも、『種の起源』が出版されたのは、1859年だってんだよ。大昔っちゃー大昔の事さ。」

確かに、ダーウィンの主著であり、進化論のバイブルとされる『種の起源』が発表されたのは、ビーグル号での航海を経て数年たった十九世紀の半ばの事だった。

「それがよぉ、今頃にもなってよぉ、哲学をぶち壊したとかさぁ、根底から覆したとかさぁ、言っちゃうのもさぁ、どうなのよって思うんだよねぁ、個人的にね。」

「はぁ。」「はぁ。」「はぁ。」

とは言うものの、半分分からない気がしないでもない、三人。

「今、壊したんなら分るよ。ダーウィンも生きているか、ついこの前死んだ、ぐらいならわかりもしますよ。それならこっちだって、盛り上がって拳ぐらい突き上げますよ。」

「まぁ。」「まぁ。」「まぁ。」

頷く三人。

「それが、十九世紀も半ばのことだって言うんだぜ。今から百五十年ぐらい前のことだって言うんだぜぇ。」

「まぁ、そう言われればそうですね。」

「結構前のことですもんね。」

「結構前って言うか、大昔よね。」

三人とも言葉を失う。

「な、今更だろ。」

「今更」

「です」

「ね。」

仲良く言葉を分け合う三人。

暫くの沈黙の後、房江が口を開く。

「でも、何で今更何ですか?」

「あぁ、そうか。今更、何で話題になるのかか。」

「そうだな。確かに、何で今更、ダーウィンや進化論が話題になるんだろう?」

リュウノスケや洋平も気が付いたようだ。

確かに、最近は進化論がブームかもしれない。社会進化論などとも呼ばれることがあるそうだ。

「じゃぁ、良いか。ちょっと長くなるぞ。」

口を結んで頷く三人。その表情を確認して、園田はゆっくりと語りだした。

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