第Ⅰ章 立って歩いただけなのに

「あぁ、ダメだ。やっぱ、分かんない。」

リュウノスケはパソコンの画面から目を離すと、天井を見上げて呟いていた。

「え?何が?」

親友の洋平は、後ろのベッドに寝そべってスマホをいじっていた。リュウノスケは椅子を回して、洋平の方に向き直った。

「なぁ、洋平、人間ってさぁ、サルから進化したじゃんか。」

「サルって言うか、チンパンジーから進化したんだよなぁ、、、」

スマホを見たまま、洋平が答える。

「そう、そう。六百万年ぐらい前にチンパンジーつーか、その親戚っつーか、その分岐の根元っつーか、まぁ、そこら辺から枝分かれしたんだけどさぁ、、、」

洋平が、スマホから視線をリュウノスケに移すのを待って言葉を続けた。

「その理由って知ってる?」

「え?チンパンジーから進化した理由?」

「あぁ、人間がチンパンジーから進化した理由。」

スマホを置き、ベッドから起き起き上がって、洋平もリュウノスケに向き直った。リュウノスケは生真面目、洋平はどちらかというと天然でお調子者である。

「それは、あれだろ、サルの社会にはボスざるがいて、とかってやつだろ?」

「あれ、お前良く知ってるじゃん。」

「別に、普通だよ。進化論好きのお前じゃなくたって、普通に知っているさ。」

リュウノスケは進化論が好きなようだ。

洋平は話題を元に戻すように続けた。

「それから、立って歩くようになったり、火を使うようになったりして、人間になりました、って話しだろ。」

するとリュウノスケは身を乗り出して、

「おう、今お前の言ったのって直立二足歩行のことな。」

と、目を輝かして言い返す。洋平が話に乗ってきたのが嬉しいようだ。

「おう、ってそんなに目を輝かされても、結構引くんだけど。」

「え?俺、目が輝いている?」

「おぉ、結構な進化論オタクって感じで輝いてる。」

「そうかぁ、やっぱ、輝いてるかぁ。」

「なんだ、それ?!」

「なぁ、その輝いている理由、聞きたいだろ。」

「え?聞きたいって、誰が?」

「洋平が、だよ。」

無視する洋平に、それでもリュウノスケはまんざらでもなさそうに肩を竦めて、気を取り直した口調で会話を続けた。

「だってよぉ、直立二足歩行ってさぁ、全然メリットなくない?」

「え?メリットって?」

「だから、直立二足歩行するメリットだよ。何か得するから立って歩いたはずだろ。」

「得するって?」

「だから、キリンの首が伸びたり、象の鼻が長くなったり、、、」

「あぁ、所謂、進化って奴ね。」

「おぉ、その進化って奴の理由だよ。」

「何か得するから、直立二足歩行に進化したってことを言いたいわけね。」

「その通り、その方が何か都合がいいから、立って歩くように進化したはずなのさ。」

「まぁ、そうやって一歩一歩人間は進歩していったんだろうなぁ。」

「いや、進化ってのは進歩っていうのとはちょっと違ってさぁ、、、」

と、ひとしきり進化論オタクであるリュウノスケの進化論講義が始まる。どうやら今回は進化と進歩の違いがテーマのようである。

確かに進化論は、進歩の理論ではない。進歩というのは、何かに向けて進んで行くことであり、多くの場合、よりいい状態になっていくことを意味する場合が多い。古代より中世、中世より近代、の方がより人間の暮らしは良くなっている。つまり進歩しているということである。勿論、中には昔の方が良かったと言う人もいるにはいる。確かに全てが全てで良くなっていると言うわけでもないかもしれない。しかし、本気で昔の世界に住みたい、などという人も少なかったりするのではないだろうか。

「なるほどねぇ。確かにたまに昔は良かったって言う人はいるし、何でもかんでも今の方が良いと言うわけではないけど、本当に昔に戻りますかって言われたらなぁ、、、」

と相槌を打つ洋平。すると、リュウノスケの説明にも更に拍車がかかる。

「だろぉ。っていうことはさぁ、進化ってのは進歩とは違ってね、、、」

進歩は進歩として、一方の進化とは何かに向けて進んで行くというのではない。何らかの変化に対応して自分自身を変化させて行くことである。より高い木の木の実を食べることが出来るように、キリンの首が長くなったり、身体が大きくなっても水が呑みやすいように、象の鼻が長くなったりしたわけである。つまり、高い木や大きな身体に適応しただけであり、それに向かって行った結果と言うわけではない。そうした方が生き残るのに有利だった、ということである。ただ、それらは多くの場合、良い事のように思えるため、進化の結果が、進歩のように見えてしまうのだ。

「ってことはだよ、退化ってのも進化の一形態であって、反対って訳じゃないわけで、、、」

と、リュウノスケの説明は続く。リュウノスケが言うように、退化という言葉も進化の反対語のように思われている場合が多いようだ。しかし、これも違う。進歩の反対語は後退であり、前に進むのではなく、後ろへ下がる事である。一方、退化というのはある機能が小さくなったり、消失したりすることであるが、それは時間を逆に戻す事ではない。あくまで時間を経て、その機能を最適化させた結果として、小さくなったり、消失したりすることである。つまり、退化とは進化の一形態であって、進化の反対などというより、進化の証しと言えるものだと言うことだ。人間が尻尾を退化させたのは、人間が進化したが故である。まぁ、あったらあったで可愛らしくて、何かの役に立ったかもしれないが、面倒臭いこと極まりなかったに違いない。

「つまり、ペンギンの羽根が飛べないように退化したのも、寒い海で暮らすにはその方が得だったからってことだな(ペンギンは南極や南極に近い寒冷な海洋環境で生息しており、効率的にエサを取る必要があったため飛ぶよりも泳ぐほうがエネルギー消費が少なく、長時間の狩りに向いていた。そのため飛ぶ能力を失った代わりに、優れた泳ぎ手となって水中生活に適応することで生存競争を勝ち抜いた。 by 進化論)。」

「洋平、お前分ってるなぁ。」

「あほか。でも、お前の言いたいことは分かったよ。何か得するから進化したってことなんだろ。」

「まぁ、ざっくり言えばそうとも言えるかな。」

「だから、直立歩行するには、それだけのメリットがあったはずってことだよな。」

「そういうことさ。分ってるじゃないの、あなた。」

「あぁ、直立歩行で得したね、ってね。」

「何の?」

とぼけた表情で問いかけるリュウノスケ。

「何の得をしたかって、、、それはさぁ、Wikiとか調べりゃ、すぐに出て、、、」

「出てこなかったら?。」

「だったら、、、chatGPTとかに聞いたら、、、」

「聞いたよ、当然。」

「え?、、、それで分かんないの?」

「聞いてみる?」

と言って、自分のパソコンを明け渡すリュウノスケ。

ベッドから立ち上がり、譲られた椅子に入れ替わって座りパソコンを操作する。立ち上がったリュウノスケが、その画面と手元のキーパッドを覗き込む。

手慣れた手つきでキーパッドとキーボードを操作し、chatGPTに問い合わせる洋平。

因みに最近の若者は、何故かマウスを使いたがらず、ポインターの移動には右手の中指を使ってキーパッドで操作する。オヤジ年代との分かれ目のようだ。

閑話休題。

chatGPTは複数の言語に対応しているので、日本語でも全く問題ない。問いかけにもすぐ答えてくれたようだ。

「あぁ、色々書いてあるようだけど、、、」

と、chatGPTの答えを黙読していくと、

「あ、本当だ。『これらの理論はどれも一部の証拠に基づいていますが、完全な答えはわかっていません。直立二足歩行が進化した背後には、複雑な要因が絡んでいると考えられています。』、だって。」

と、リュウノスケを見上げる洋平。

「な、言った通りだろ。」

とは、リュウノスケ。

暫し黙考した後、

「ってことはよう、お前の大好きな進化論は、こんな簡単なことも説明できません、ってことになっちゃうぜ。」

と、洋平が真面目な様子でリュウノスケを見上げながら言う。

やや気圧されながらも、

「あぁ、まぁ、そういうことになるな。」

と、洋平の視線を避けるリュウノスケ。

洋平はリュウノスケから視線を逸らさず、立ち上がりながら、

「進化論って、そんなもんだったの?」

と、問い詰める。

「そういわれても、、、」

リュウノスケ、圧に負ける。

「お前はそれでいいの?」

「いや、いいって言うか、、、いい訳ないって言うかぁ、、、」

「そうだよ、いい訳なんてないよ。」

これがきっかけで、洋平はどうにも納得が行かなくなったようで、

「だって、人間が歩く理由だよぉ?!」

と、リュウノスケに食ってかかった。完全に逆切れ気味である。

「あぁ、そうだよ。」

「ES細胞とか、iPS細胞とかの話じゃないんだよ。」

妙なことに詳しいような洋平である。

「あぁ、そうだよ。」

ただ、ここではそっちの話への深入りはせず、出てきた問題にまず集中しよう。出てきた問題とは、

「だって、立って歩くだけだぜ。」

「そうさ、さっきからそう言ってるじゃないか。立って歩いただけさ。」

「立って歩いただけなのに、そんなことも分かんないって言う訳?」

どうしても納得がいかない様子の洋平。

「あぁ、確かにそんなことも分かんないって訳。」

「それこそ、いろはのい、みたいなもんじゃん。」

「いろはのいっつーか、まぁ、柔道で言ったら受け身みたいなもんかもなぁ。」

「柔道の受け身って言うか、サッカーのトラップって言うか、、、」

「まぁ、野球で言うならキャッチボールだよなぁ。」

「大谷翔平もキャッチボールは大切だって言ってたもんな。」

「そうだ、そのために全国にグローブを配ったぐらいだからな。」

大谷選手が日本全国の小学校に野球のグローブを寄付したのは、二〇二三年の十一月の事であった。左利きの児童もいるだろうとのことで、右利き用二個、左利き用一個の計三個づつ、全国の二万の小学校に配るので、合計で六万個ほどになったことは大きな話題となった。

「そのキャッチボール級に初歩の初歩が分からないってこと?」

「その通り、初歩も初歩も、その第の一歩目が分からないってこと。」

「え?マジ?そんなことあり得んの?」

「あぁ、あり得たんだよなぁ、これが。」

二人の会話がようやくかみ合った。

「そんなバカな。」

「酒井若菜ぁ。」

ギャグも仲良く滑った。

そんな時、扉の向こうから、「ニャ〜」「ニャォ〜ン」と、二匹の猫の鳴き声が聞こえた。どうやら扉を引っ掻いているらしく、掠れた音もまじっている。

「あ、もうご飯の時間かぁ。」

そう言って立ち上がり、リュウノスケは扉を開けた。

すると二匹の太っちょの猫とスレンダーな猫が部屋へと入ってきた。洋平にも懐いているらしく、二匹とも交互に身体を擦り寄せてきては、そこらを鳴きながらウロウロ徘徊している。

「ハイ、ハイ、ムサシ、コムサシ、こっち来な~。」

と、リュウノスケは部屋の外へ二匹を連れ出して行った。餌場はリビングにあるようだ。二匹の名前は、それぞれムサシとコムサシというらしい。詳しくは後程ご紹介することとしよう。

暫くすると、

「ゴメン、お待たせ。」

と言って猫の餌やりを終えたリュウノスケが戻って来た。洋平が椅子に座ってパソコンをいじっていたので、リュウノスケはそのままベッドに腰掛けた。

「で、どこまで話たっけ?」

「直立二足歩行の説明ができないから、お前の得意の進化論がヤバいってことまで。」

手を打って、人差し指で洋平を指差すと、

「それ、それ。進化論、ヤバいんだよ。」

と、あっさりとヤバさを認めるリュウノスケ。すると、更に追求する洋平。

「じゃぁ、その先生のダーウィンもヤバいってことじゃんか。」

「そう、ダーウィンもヤバいってことさ。」

「マジかぁ、ダーウィン、ヤバかったんだぁ。」

やっぱり何となくお調子者で天然な洋平である。

すると何かに気が付いたように真顔になる洋平。

「ってことはさぁ、それに関係する人もヤバいってことぉ?」

「はぁ?」

付いていけないリュウノスケ。

「だからさぁ、進化論がヤバくて、ダーウィンもヤバいとしたらだよぉ、、、」

「あぁ。」

じっとリュウノスケの瞳を覗き込み、洋平が言う。

「あの生物室に貼ってある、ゴリラから類人猿になって人間になってくって、あの絵もヤバいってことになるじゃんかぁ。」

「いや、あれは、、、ど、どうなるってか、、、」

確かに言われてみれば、そう言えないこともない。なので、

「こ、今度、生物のビーカーにでも聞いてみようか?」

と言って見たリュウノスケ。

ビーカーとは、彼らの通う高校で生物を教えている三枝という教師のあだ名だった。

「おぅ、生物の教師だったら知っていて当然だもんな。」

と、割とあっさり受け入れた洋平。

「でも、ダーウィンが知らなくて、ビーカーが知っているってのも、考えてみるとおかしいなぁ?」

「そう言われると、そうだけど。」

しばし考え込む二人。

「まぁ、聞いてみないとわからねぇし、兎に角、聞いてみようぜ。」

「そりゃ、そうだ。そうしよう。」

「そんなことより期末の勉強でも始めっか。」

そうであった。洋平がリュウノスケの家にやってきたのは、期末の勉強を二人でするためだったのだ。期末が終われば夏休みだ。

「楽しい夏休みのためには、期末をクリアしなきゃね。」

「まぁ、夏休みもバイトで終わるだろうけどな。」

「ヨシ。」「ヨシ。」

どうやら二人のエンジンが、やっとかかったようである。


念のため、一言付け加えておく。ここで言う彼等の直立二足歩行であるが、これ自体の説明は必要ないであろう。我々人間が普段気にもせず行っている、立って歩いていることに他ならない。ところが、この直立二足歩行は、人間以外やっている動物はいないことはご存知だろうか?何となくそこら辺のチンパンジー辺り、やっていても良さそうなものである。しかし、一見二足で歩いている彼らは、全て直立してはいない。飽くまで腰を曲げての歩行である。ダチョウやペンギンなどでも、原理は同じで直立して歩くことはない。やっているのは人間だけである。つまり、直立二足歩行とは、人間とその他の動物を区別する、一つの大きな特徴である。勿論、人間と動物は様々な点で相違するが、その中でも直立二足歩行という点は、誰にでもわかりやすい違いである。しかし、その分かりやすい相違点の理由が、実は良く分からないらしい。そんなことが今更あっていいのだろうかと言うことである。


翌日。

「ねぇ、直立二足歩行の理由ってわかった?」

待ちかねたように、房江は隣の席のリュウノスケに話しかけた。

「いや、悪いけど何処調べても出て来なくってさぁ。」

「そうかぁ、リュウノスケでも分からないのかぁ。」

残念そうな房江の顔を見て、リュウノスケは言葉を続けた。

「だからさぁ、どうしようかって、洋平と話していたんだよ。」

「え?洋平って?隣のクラスの榊原君の事?」

洋平の苗字は榊原と言った。

「あぁ、知ってる?」

「顔だけはね。話したことはないけど。リュウノスケは仲いいの?」

「あぁ、家も近くだし、子供の時からの付き合いだからさ。」

「へぇ、そうなんだ。」

因みに、リュウノスケと房江はクラスメイトで席が隣同士だが、洋平はクラスは別である。三人とも、まだ十六歳の高校一年生だ。高校一年の夏休み前、まだ一学期しか過ごしていないため、同じ学年でも知らない人もまだ多い。

洋平の話題がひと段落すると、房江が再び難し気な顔になり、

「でも、リュウノスケでも分からないとなると、どうしようかなぁ?」

不安げに呟いた。

「それでさぁ、今日の放課後にでもビーカーに聞きに行こうかって思ってさぁ、洋平と行くつもりなんだよ。」

ビーカーとは生物の教師である三枝のあだ名である。

「そうなんだぁ、じゃぁ私も付いていってもいいかなぁ。」

「あぁ、良いよ。行く時に声を掛けるよ。」

「ありがとう、助かるぅ。」

と、笑みを見せる房江。

するとリュウノスケが、

「しかし、なんで直立二足歩行の事なんて調べてるんだ?」

と聞く。

「あぁ、夏休みの課題にしようかな、と思ってさぁ。」

「そういうことかぁ。」

夏休みの課題とは、どこの学校でもよくある事だろう。房江は、どうやら今年の夏休みの課題に、直立二足歩行をテーマにしようと思ったらしい。

「実はリュウノスケに聞けばすぐわかると思って、当てにしてたんだけどね、、、」

「それは悪いことしたかもしれないなぁ。」

と反省するリュウノスケだが、ふと気が付いたように、

「しかし、なんで直立二足歩行なんて、課題にしようと思ったんだ?」

そう聞くリュウノスケに、

「だって、進化論って、今来てるんでしょ!?」

と、答える房江。

「え?進化論が来てるって?」

「そう、進化論がエモいって、知らないの?」

「そんなこと、誰がどこで言ってるんだよ?」

「どこの誰って、、、」

ちょっと答えに詰まる房江。

「パラダイムがシフトするとかしないとか、、、」

と小声で呟く房江。

「行動なんちゃらとか、、、」

そして最後に、

「ダメ?」

と、人差し指と人差し指をクルクルさせながら聞かれては、

「いや、そんなことはないよ。課題としては、良いんじゃないかなぁ。」

と答えてしまうリュウノスケ。

「本当?」

と、上目遣いに今度は逆に房江に聞かれるリュウノスケ。

「いや本当。確かに進化論は来ているよね。」

「本当にそう思ってる?」

「あ、あぁ、確かにその影響で行動経済学がパラダイムシフトを起こしてるんだもんな。」

と、リュウノスケが言うと、

「そう、そうでしょ、それが言いたかったのよ。進化論、チルいのよ。」

とここでやっと笑顔を見せる房江。

進化論と行動経済学、あるいは行動経済学によるパラダイムのシフト、そうしたことはおいおい語られると思う。取りあえず二人の会話を先に進めよう。

「それで、進化論なら、取りあえず直立二足歩行が無難かなって思ったの。」

とは房江である。

内心、何が無難なのかは理解に苦しむリュウノスケではあったが、それはおくびにも出さず、

「なるほどねぇ~。」

と調子を合わせるリュウノスケ。すると、

「しかし、どうしよっかなぁ。リュウノスケでも分からないだもんなぁ。」

と、困惑気味な顔に房江が戻るので、リュウノスケは、こう提案してみた。

「じゃぁ、分からないことを逆手に取ってみれば。」

「え?」

「逆手に取るのさ。」

「え?逆手に取るってどういうこと?」

リュウノスケが答える。

「分からないこと自体を調べるのさ。」

この言葉で房江にもピンときたようで、

「あ、そうか!分からないってレポートにするのね。」

「ハ、ハ、もし本当に分からないんだったら、それはそれで面白いかもしれないぜ。」

瞳孔をちょっと開かせてリュウノスケが言う。

「フ、フ、それはそうねぇ。それって面白いかもね。」

いたずらっ子のような目を輝かせる房江も、賛成のようだ。

「それも含めて、ビーカーのところに行ってみようよ。」

「オッケー、放課後ね。」

房江は軽くリュウノスケにウィンクした。リュウノスケも思わず房江に、右手の親指をサムアップした。


放課後。

「それが不思議なことに、良く分からないんだよ。」

ビーカーこと生物担当の教師である三枝は答えた。

「まぁ、そこら辺に椅子をもってきて座りなさい。」

リュウノスケと洋平、房江の三人は、約束通り放課後にビーカーを生物室に訪ねていた。人体の模型や兜ガニの水槽などが無造作にそこかしこに置かれている。

「うわぁ、この水槽にいるのナメクジじゃない。」

房江が驚きというか、悲鳴に近いトーンで叫んだ。

「うわ!ここにも、あっちにもいるぜ。」

「本当だ!結構な数だなぁ。」

リュウノスケと洋平も、房江ほどではないにしろ、ちょっとグロテスクなナメクジの軍勢におっかなびっくりの反応だった。

「おぉ、それな。ちょっとこれからの研究テーマにしようかと思って、最近集めてるんだよ。」

「ナメクジを研究ですか。」

ややナメクジの軟体動物特有な動きとビジュアルに慣れてきたのか、房江がわりと落ち着きを取り戻したような口調で反応した。

「あぁ、良く見てみると、カワイイだろ。」

「可愛いのかなぁ。」

リュウノスケは分からないようだが、

「まぁ、ムカデみたいに気味は悪くはないけど、、、」

とは、洋平の反応だった。

三枝がナメクジを研究対象にしているのは、神経系のメカニズムに関するものなのだが、それに関する詳しい内容は取りあえず扱わず先に進む。脳の損傷を回復できるなど、かなり面白い内容らしいが、研究者は少ないらしい。

「カタツムリは可愛いけど、ナメクジはねぇ、、、」

とは房江の感想である。

因みに、丸い巻き貝状の殻を持つのがカタツムリで、殻が無いか、殻が退化して見えないのがナメクジである。 近縁ではあるものの、ナメクジとカタツムリは別の生き物であり、 ヤドカリと同じように空の貝殻をナメクジに与えても、殻を身につけてカタツムリになることはない。更に言うと、カタツムリはエスカルゴとして食されるが、ナメクジが料理になることはないそうである。

「そうかぁ。お前たち、あんまり人気がないみたいだぞぅ。でも、泣く必要なんてないからなぁ~。」

と、ナメクジたちに声を掛ける三枝。呆れる生徒たち。

とまぁ、ナメクジが割と多いとはいうものの、それを除けばどこの学校にでもあるような生物室である。三人は近くにある背もたれのない丸椅子をそれぞれ持ってきて、各々座った。それを見て三枝は早速口を開いた。

「確かに、直立二足歩行は人間の人間たる特徴の一つなんだが、何で直立歩行するようになったのかは、実は今でも決め手となる定説はないんだ。」

「でも、便利だったから直立で二足歩行になったんですよね。」

最初に口を開いたのは進化論オタクのリュウノスケだった。リュウノスケが何で進化論のオタクになったのかは、おいおい説明する機会があるだろう。今は兎に角、先に進むとしよう。

この質問に対する三枝の答えはこうだった。

「確かに便利だから立って歩くようになったはずなんだが、結構不便でもあるんだな、これが。」

「え?立って歩くのが不便なの?」

驚いて声を上げたのは房江だった。

「だって、立って歩かなかったら、四つん這いでしょ。そんなのちょっと私、無理。」

リュウノスケが房江を制する。

「でも、四つん這いの方が走るのは速いだろ。チーターとかに追いかけられたら、ひとたまりもないじゃん。」

「まぁ、そうだけど。」

因みに、チーターほどではないが、ダチョウやカンガルーなどは二本足でもかなり速く走ることができる動物はいる。チーター:115km/時、ダチョウ:80km/時、カンガルー:48km/時。とはいえ、人間は100mを10秒で走ったとしても、10m/秒だから、10×60×60/1000=36km/時となり、いずれにせよかなり遅い。

思案気に難しい顔をした房江だったが、思いついたように口を開いた。

「でも、それなら火とか使って追い払ったんじゃないの?」

「まぁ、結局はそうなるんだけど、火を使うようになったのは結構後の事なんだよ。」

そう言うリュウノスケを三枝がフォローする。

「確かにその通りでね、人類がチンパンジーと枝分かれしたのが約六百万年前、火を使い出したのは百八十万年前だといわれている。」

「え?六百万年と、百八十万年?じゃぁ、、、四百二十万年間は、火を使わなかったってこと?」

思わず房江が口を開いた。

「あぁ、だから結構不便だったって訳さ。」

「不便ていうか、危ないじゃないのよ。立ったら走るのが遅くなるんでしょ。だったら、追いかけられて食べられちゃうんじゃないの。ガブゥ、、、」

と、リュウノスケに向かって、口を開けて食べる仕草をする房江。

「まぁ、結構食べられたんじゃないかなぁ。」

反応の薄い、リュウノスケ。

「んが、信じられない。」

と、絶句した房江だったが、すぐさま思い直したようで、

「あぁ、わかった。それでも色々頭を使って、攻撃をかわしたってことでしょ。」

「いや、確かにそうはそうだけど、人類の脳が本格的に大きくなるのは、直立二足歩行してからさ。」

とリュウノスケが答えると、更に補足するのは三枝である。

「直立したから、脳が重くなっても身体のバランスが保てるようになったから、結果として脳が大きく発達したって言う訳なんだな。」

「じゃぁ、頭が良いから直立したんじゃなくて、直立したから頭が良くなったって言うことですか?」

房江が確認する。

「まぁ、そうとも言えるね。」

その三枝の答えに、思わず肩を竦める房江。

「じゃぁ、何で人間が直立歩行したのかは、わかっていないんですね。」

「その通りだよ。」

「確かに、そう言うことになるなぁ。」

「、、、。」

と、無言で両手を顎に添え、ここまで来て一転して、何故か上目遣いに笑みを浮かべる房江。

それを不思議に思いつつも、思わず三枝は続けた。

「ただ、分っていることもないではない。」

「分かっていること、ですか?」

「それは犬歯の退化ですよね。」

口を挟むのはリュウノスケである。

「何?ケンシのタイカって?、、、ケンシって言ったら米津なんじゃないの?」

とかいう房江は相手にせず、リュウノスケが、自分で歯を見せながらそれに答える。どうやら進化論のオタクっぷりを披露したいようだ。

「人間のこの歯、前歯と奥歯の中間にある先の尖った歯。」

「あぁ、おばあちゃんが糸切り歯って言ってたやつでしょ。」

「そう、それ。その歯は犬の歯って書いてケンシ。動物で言う牙なわけよ。」

「え?牙って、人間の歯でしょ?」

「そうだよ、だって、人間も動物だからね。」

「いや、まぁ、そうだけど。」

戸惑う房江にリュウノスケの説明が続く。

「人類は直立二足歩行を始めるとほぼ同じころ、牙が退化してこの犬歯になったんだよ。」

「待って、ちょっと意味わからない。牙なんて、そもそもいらないじゃないのよ。人間は牙なんて使わないんだから。」

「いや、話しが逆だってば。牙を使わないから人間なんだって。」

「え?何?牙を使わないから人間って、どういうこと?」

「正しく言うと、牙を使う必要がなくなったから、人間になったんだよ。」

「じゃぁ、その前はみんな牙を使ってたってことぉ?」

リュウノスケは頷くと、房江に向かって大口を開けて顔を突き出し、犬歯をむき出した。

「バカ、やめなさいよ!」

と、房江にいなされると、

「♫あの日の悲しみさえ、あの日の苦しみさえ♫」

歌い出したので、

「米津玄師もやめなさいよぉ。」

と、これまたいなされた。

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