第Ⅴ章 そもそものダーウィン

今日もビーカーこと三枝は、自分の屋敷というか城ともいうべき生物室で餌やりをしていた。研究用の小動物や昆虫、爬虫類に両生類などである。餌やりと言っても、牛や馬といった大型の哺乳類を飼育するのとは違い、爬虫類や両生類は比較的小型であるため、餌の量で困るようなことはない。ただ、それぞれ習慣も違えば、好みも違うため、こまめな扱いが必要となってくる。また、温度や湿度の管理も重要になるため、業務用の大型クーラーと加湿器も導入している。ただこれも動物園や植物園ほどではないため、業務用と言ってもそれ程の手間がいるというものではない。

それよりも脱走などといった小動物の飼育ではよくある初歩的なことの方が、厄介であったりする。こうしたことはなかなか機械や装置に任すことができないため、飼育員の小まめな対応が必要となるわけだ。デジタルではなく、アナログということである。そのため、生物室の管理も担当である三枝に一任されていた。一言で言うなら、三枝の趣味に任されていたと言うわけであった。

「うん、問題なしだな。」

今日も餌と水の確認をする。毎朝の日課である。今日も三枝のコレクション達に問題はないらしい。

このコレクション達だが、先程触れたように三枝の趣味である。ただし、特にこれと言って珍しい珍獣のような種類を飼っているわけではない。カエルやカメといったありふれたものが多い。勿論、ありふれたのは、人間側が勝手にそう感じるだけで、別に彼等が何か以前と比べてありふれたわけではない。彼らにとってみれば、大きなお世話といえば、大きなお世話である。

ただ、それ程のこだわりはないものの、生徒の関心を引くためには、多少の工夫もしないわけでもない。決して彼らの責任ではないのだが、流石に生物室にカエルとカメだけでは芸がないと言われても仕方がない。そのため三枝はちょっとした変化球も揃えるようにしていた。

「おぅ、今日も元気にしているな。」

三枝は木や草が一見雑然と放り込まれているようなプラケースの前で立ち止まった。よくプラケースの中を覗いてみると、その中の木の枝が微妙に動いているのが分かる。ご存知の方も多いとは思うが、動いている木の枝は、木の枝に擬態している昆虫のナナフシであった。

もうお分かりの通り、三枝の変化球の一つがこのナナフシである。紹介するまでもなく、まるで木の枝のようなポッキーみたいな昆虫である。寄り道とはなるが、このナナフシ、オスとメスがいるにもかかわらず、メスだけからでも子供が生まれる単為生殖という特徴を持っている。なのでオスが見つかるとニュースにもなると言う不思議な人気を博している。因みにオスはメスより一回り小さく、メスは褐色と緑色の両方がいるが、オスは褐色だけで、身体の側部に白い帯状の模様があり、美しいと言う。

しかし、どちらにせよ、木の枝に紛れれば殆ど見つけることができないほど、上手く木の枝になり切っている。改めていうまでもないが、擬態の典型というものである。森のかくれん坊でなら、誰も見つけることが出来ないのではなかろうか。三枝の生物室のナナフシも、森を模したやや大きめのプラケースに入れられて、今日も見事に小枝に身を隠していた。

三枝の変化球はこのナナフシだけではなかった。

「お、こっちも元気そうだな。」

三枝は隣のプラケースに移動すると、また一人呟いた。

もしかするとこちらはナナフシよりも珍しいかもしれない。名前はオオコノハムシという。こちらは枝ではなく葉っぱに擬態した虫である。つまりこの虫、身体の各パーツ全てが葉っぱである。全身で一つの葉なのではなく、手も足も胴体も、葉っぱなのだ。もう、嫌というぐらい葉っぱである。

また、こちらはナナフシと違って、日本には原生しない昆虫である。元来の生息地帯はマレー半島の熱帯雨林だ。つまり、輸入する必要があるものだ。ところが、植物防疫法で輸入は違法で、輸入された個体の飼育は禁止されていたりする。では何で三枝が飼えているのかというと、規制がかかる前に輸入された個体から国内繁殖でブリードされた個体なら、購入および飼育は可能というものなのだ。虫あるある、といったことかもしれない。因みにオオコノハムシもメスによる単為生殖で繁殖するもので、ナナフシ同様、こちらもオスが見つかると珍しがられるようである。オスの立場が結構微妙な虫達である。

「うわー、このカマキリ、綺麗!」

と、部屋の向こうで明るい奇声が聞こえた。三枝が声の方を見ると、やや離れた列に女子生徒が見える。どうやら如月房江のようである。

「如月か?」

三枝が声を掛けると、房江がプラケースが陳列された棚の間から、顔を見せた。目が合うと、何も言わず小さく手を振って来る。つられたように三枝も手を軽くあげて合図を返した。

三枝が近寄ってプラケースを覗くと、房江が見ていたのはハナカマキリだった。最近三枝が購入した昆虫である。

「おぉ、如月はこいつが気に入ったのか。」

若干嬉しそうに、三枝はそう言った。

プラケースの中には小さ目なピンク色の蘭の鉢植えと、その蘭の花の上に、こちらも薄いピンク色をした小さな虫がいる。良く見るとカマキリであるのがわかる。

「ハナカマキリだ。何時も花の上にいるカマキリだから、そんな名前が付いたんだ。」

三枝は房江にその虫の名前を告げた。

「へー、ハナカマキリって言うんですか。そのまんまの名前ですけど、とっても綺麗で可愛い。」

房江の言うとおり、ハナカマキリは蘭に寄生する可愛らしいカマキリである。蘭に寄生するため、白をベースに身体の一部をピンク色に変色させる。そのため、その色合いが淡く美しい。蘭の花の美しさと相俟って、淡く切ない美しさである。今時の女子高生である房江に表現させると、

「何か、南青山とか代官山の花壇とかにいそう。」

とのことだ。

別に板橋や練馬にもいて良いとも思った三枝だが、それは無粋と思ったのか、そうは言わずに、

「あぁ、そうだね。きっとこのハナカマキリも喜んでいると思うよ。」

「本当ですかぁ?」

そう言って房江が後ろ手にして、三枝を覗き込む。

最近の女子高生は、年相応に愛くるしくもあり、意外に大人でもある。

そんな無自覚な圧を逸らすように、話を切り替える三枝。

「で、こんな所に何の用なんだ?それに今は授業中だろ。」

確かに、昼休みにはまだ早い午前中である。

「社会が自習になっちゃったんで、丁度良いかなって、思って。」

「ほう、そうか、社会が自習か。そういえば園田先生、調子悪そうだったからなぁ。」

園田とは、社会を担当する三枝の教師仲間だが、年令は割と離れていて結構な年であるはずだった。因みに三枝は三十を少し過ぎたばかりである。

「で、何なんだい、丁度良いって?」

三枝は房江に問い直した。

「その、今更は、今更何ですけど、、、」

「あぁ、今更どうかしたか?」

「リュウノスケとかって、進化論好きじゃないですか。」

「あぁ、林の事か。そうみたいだな。」

「先生も好きですか?」

「いや、そりゃぁ、好きといわれれば、好きな方かな。」

確かに今更でストレートな質問である。しかし、何故房江はそんな質問を今更したのであろうか。

「何でまた、今更そんな質問なんだい?」

素直に聞いてみる三枝。いつもの丸椅子に自分も座り、房江にも勧める。軽く会釈をして房江も座ると、先を続けた。

「正確に言うと、二つあるんですけど、、、」

という。

「二つあるんだね、疑問が。」

「はい。」

「なら、順番に言ってみなさい。」

三枝がそう言うと、房江は深く首を縦に振り、意を決したように呼吸をしてから話し出した。

「進化論て、基本的に自然淘汰と適者生存ですよね。」

教科書通りの答えである。申し分ない。

「確かに、進化論の基本は、今如月が言った通り、自然淘汰と適者生存だなぁ。それがどうかしたか?」

まだ、房江は喋り辛そうだった。今時の女子高生が進化論に悩むとは、内心は結構な驚きを隠すのに、精一杯な三枝である。

「適者生存ということは、弱肉強食っていうことじゃないですかぁ?」

「その通りだなぁ。」

繰り返すようだが、今時の女子高生が、なぜこれほど進化論なのか、何となくダーウィンに知らせたくもなる三枝である。

「で、今更何ですけど、、、」

「あぁ、全然良いよ、今更で、全然構わないよ。」

こんな女子高生がいる世界は、きっと未来が明るいと信じる三枝。

「で、何?今更って?」

そこまで言うと、意を決したように房江が言った。

「それにしては、色んな生物がい過ぎる気がしたんです。」

「?」

そこからの房江は饒舌だった。

「だって、あのハナカマキリだってそうですけど、生き残り競争を勝ち抜いたって感じはしないじゃないですか!?」

房江の指さす先は、当然先程まで二人が眺めていたハナカマキリのプラケースだった。

「勝ち抜いたって言うより、よくぞここまでして生き残ったね、って思って。」

確かに房江の言うとおり、ハナカマキリがあんな色をしてまで生き残ったのは、勝ち抜いたと言うより、生き延びたと言う方が当たっている。

「先生の好きなあっちのナナフシちゃんだって、よくぞここまでしてくれましたね、っていつも思うんです。」

何でナナフシは「チャン付け」なのか、とも思ったが、房江の言いたい真意も伝わった。

「如月は、あんなものまで生きていられると言うことは、弱肉強食らしくないって言いたいんだな。」

「そうです。あんなか弱そうなものまで生き延びられるって、弱肉強食っていうより、弱い肉も食べないでおく、みたいな感じじゃないですか。」

「弱い肉も食べないでおく、か。ハ、ハ、ハ。」

舌足らずなところが、今時の女子高生らしいというのだろうか。

「どうも、進化論の自然淘汰って、種の多様性とは相容れないと言うか、矛盾する気がするんですよね。」

と思ったら、今時の女子高生とは思えない単語の使い方である。専門用語の使い方が正確だ。三枝は内心、

『こいつはなかなかできる子だな。』

と房江を見直した。

そんな三枝の思いに応えるかのように房江が続けた。

「進化論って、何か重大な課題を抱えたまま受け入れられちゃっているんじゃないかって、思っちゃうんです。」

「なるほどな。」

そこまで進化論を考える女子高生。なかなかいるものでもないだろう。だが、三枝はわかった気がした。それは彼女の交友関係を知る立場にいたからだろう。なので、三枝は房江にこう問いかけた。

「だから、林のことが気になっているんだな、如月は?」

林とはリュウノスケの苗字である。

そう三枝が聞くと、房江は隠す風でもなく、

「気になってるというか、、、」

「だから、今更、ということか。」

「そう、その通りです。今更言って良いものかというか、、、」

「今更、何から切り出していいかも、考えてみれば微妙だもんな。」

「そうなんです。結構言いづらいと言うか、切り出しにくいと言うか、、、」

女子高生の悩みを完全に把握したと思った三枝だった。そこで確認のために三枝はこう房江に質問してみた。

「つまり、如月は、この地球にはあまりにも沢山の種類の生き物がいると、思うわけだな。」

頷く房江。

「で、それは弱肉強食とか適者生存といった進化論の法則と矛盾するんじゃないか、そう思うわけだ。」

これまた激しく頷く房江。

「更に、それを進化論をよく知る人間にその質問するのは、当たり前過ぎて今更聞けない、とまぁこういうことだな。」

「そうですね、何か、どう切り出して良いか分からないというか、、、」

そんな生徒の悩みに答えられずに、何が教師の資格があろうか、

『いや、ない。』

と、反語が見事に成立した三枝は答えた。

「素直に聞いてみれば良いじゃないか。」

意外な回答と思ったのか、ちょっと呆気に取られた表情で房江は三枝の顔を見た。

三枝は繰り返した。

「素直に、地球には多様な生物が生きている。それは進化論の自然淘汰と適者生存に矛盾していないだろうか、って聞いてみるのさ。」

三枝は柔らかい笑顔である。その笑顔に安心したのか、房江が口を開く。

「そうかぁ。素直に聞いちゃえばいいだけか。」

「そうさ、その通りさ。素直に聞いちゃえば良いんだよ。そうすればきっと、素直に答えてくれるんじゃないかな。」

表情を崩した房江は、明るい声になって、

「そうですね。何か考え過ぎちゃったかな。」

と、少し恥ずかしそうにはにかんだ表情を浮かべた。そして、思いついたかのようにこう続けた。

「因みに、先生はどう思います?」

「地球の生物の多さをかい?」

「えぇ。」

三枝は答えようとも思ったが、何か躊躇われて、こう答えることにした。

「私が答えてしまったら、林に聞く価値が下がりはしないかなぁ。」

房江は一呼吸、頬に指先を立てながら考えて、頭を整理した。

「あぁ、そうか。」

「勿論、私が何と答えようとも、林は林で考えはあるだろう。ただ、折角だから私の答えは林の答えの後にするのがフェアな気がする。」

「フ、フ、先生の言ってる意味は分かる気がする。」

どうやら房江も三枝の考えに賛成のようだ。

「ありがとう。ついでに林に聞いたら、林の答えも教えてくれないか。私も興味が出て来たよ。」

「賛成!じゃぁ、リュウノスケの答えと先生の答えの答え合わせですね。」

「そうだな、答え合わせだな。」

「フ、フ、フ。」

「ハ、ハ、ハ。」

どうやら二人の利害は、目出度く一致したようであった。


三枝は質問を続けた。

「じゃぁ、二つ目の質問は?」

房江の表情がやや曇る。

「二つ目の質問はぁ、、、」

と一度口ごもってから、一気に言い切った。

「進化論って科学なんですか?それとも科学じゃないんですか?」

あまりに大上段に振りかぶったような質問に、

「何で如月は、そんなことを思ったんだい?」

と思わず理由を聞く三枝。

「その、カール・ポパーのぉ、、、反証可能性の定理にぃ、、、該当しないって思ってというか、そのぉ、、、」

と、自信なさげに呟く房江。

「あぁ、そういうことか。」

たどたどしい房江の説明だったが、一応の意図は三枝に伝わったようだ。

「例えば、、、」

と言いながら三枝は立ち上がり、ハナカマキリのプラケースの横に立った。

それを眼で追う房江。

「確かに、このハナカマキリを実験して作り出すことはまず不可能だ。普通のカマキリを蘭の横に置いておいたって、何年経っても何にも変わらないだろうからね。」

眼と眼が合った房江が無言で頷く。

「でもなぁ、もっと寿命の短い昆虫とかを使うと、面白い実験が出来ないわけでもない。」

と、ハナカマキリのちょっと奥の方にあったやや小さめのプラケースを持って、三枝は席に戻ってきた。

房江がケースを覗くと、盛んにハエのような虫が飛び回っていた。

「これはショウジョウバエ。如月も授業で見たことがあるんじゃないかな。」

頷く房江。

皆さんも理科の実験でご存じのハエである。しかし、最近の都会では、それ以外で見かけることは殆どなくなっているのかもしれない。

「このショウジョウバエの卵から成虫になるまでの時間は、220時間、つまり約10日だ。と言うことは、1年間が365日だからそれだけで30代近くの世代交代が可能になる。人間の世代交代は、20年は考えないといけないから、人間でいう600年の世代交代が一年で可能という計算になる。」

「へぇー、ショウジョウバエちゃん、やりますね。」

暗かった房江の表情が和らぎ、ショウジョウバエのケースを見つめる目が優しい。

「だから、進化論にも色々アプローチの方法がある。そんなに心配することはないんじゃないかな。」

三枝がそう言うと、房江は深く頷き、落ち着きを取り戻したようだった。


房江と三枝の会話はそれで終わりではなかった。房江の話題が一段落つくと、三枝はこんなことを口にした。

「なぁ、如月、丁度いい機会な気もするので、私からも一つ聞いても良いか?」

三枝は、まじめな顔で房江を見直した。

「は、はい、私で良ければ、聞きますけど。」

何となく居住まいをただす房江である。

「先生なぁ、突然変異は都合が良すぎる気がするんだ。」

「はぁ?」

唐突な生物担当教師の告白に、女子生徒が驚くの図である。

三枝は立ち上がり、部屋の片隅の洗面スペースで、コーヒーカップにペットボトルのお茶を注いだ。コーヒーカップはお盆に乗せて、そのまま房江に勧めた。テーブル代わりに、いつもの丸椅子の上に置いたお盆である。三枝は自分用の湯呑に、同じようにペットボトルのお茶を注ぎ、一口すすってから切り出した。

「如月は確か、料理が得意だったよなぁ。」

勧められたお茶を口にしながら、房江も答える。

「はい、得意というか、好きなだけですけど。」

房江は結構料理が好きで、お弁当も自分で手作りすることも多かった。

「料理上手な如月でも、失敗することってたまにあるだろ。」

「いやぁ、もう、たまにどころか、毎回失敗してます。」

大きく手を振りながら否定する房江に、笑みを浮かべながら三枝が続ける。

「じゃぁ、そんな失敗で、間違って逆に美味しくなっちゃったなんてことあるか?」

「レシピを間違えて、逆に美味しい料理が出来ちゃったってことですか?」

「そうそう。塩の分量を間違えたとか、粉の種類が違ってたとか、よくあるじゃないか。」

三枝もたまに料理はするが、小さじを大さじと間違えたりしてひどい思いをしたことがある。

「先生なぁ、塩小さじ三を大さじ三と間違えてえらい目に会ったことがあるぞ。塩はどうしょうもないな。醤油や砂糖なら、取り分けるとか薄めるとか出来るけど、塩は本当にどうしようもない。」

笑うしかない房江。

「え?それって何を作ったんですか?」

「ポテトサラダ。」

「ポテサラですか?」

驚いたように、口を手で覆う房江。

「そうなんだよ。ポテトサラダなんだよ。」 

「え、でも、ポテトサラダだったら、ボウルに入れて味付けするんだから、わかりますよね。」

みなさんご存じのことで説明するまでもないとは思うが、行きがかり上、一応の説明はしておくことにする。ポテトサラダは、茹でたジャガイモをすり潰してマヨネーズなどで和えた料理である。なので、普通はガラス製などのボウル状の耐熱ガラス食器で調理することが多い。よって、ガラスのボウル内で味付けするのであるから、塩コショウなどの分量は当然目にも見えるし、味見も簡単である。煮物のように微妙な調味料の配合がある訳でもなく、ハンバーグのように、中まで火が通っているか心配する必要もない。だから間違いようがないだろう、そう房江は言いたいわけである。説明するまでもないこととは思う。先に進もう。

「そうなんだよ。でも、思い込みって言うかさ、こう、視野が狭くなっちゃう瞬間ていうかさ、、、」

そう言いながら三枝が、両手を眼の両脇のこめかみの辺りから、鼻の先に動かす。

「もう、それしか見えない、っていうことですか。」

「そうなんだよ、自分でも分からないんだけど、もう大さじ三しか頭になくなってたんだよ。」

三枝のポテトサラダの調理は続く。

「それに玉ネギもすっごく薄くスライスして、更に辛味が抜けるように十分に水に晒してから和えるわけだよ。」

「フ、フ。」

小さな笑いで房江が合いの手を入れる。

「その上、奮発してクリームチーズも混ぜ込んだりしてるんだぜ。」

「あぁ、ポテサラにクリチーって合いますよね。」

そう略して房江に言われると、何故か三枝のテンションも上がり、

「そうだろ、ポテサラにはやっぱりクリチーだからね。」

と、同じことを言い返して、

「それだけじゃない。分量は多目に作っておいて、味変には明太ポテサラにしようと思ってね、明太子まで買っておいたんだよ。」

「用意周到ですね。」

「あぁ、準備万端さ。」

二人とも笑顔だ。

「でも、間違っちゃったんですよね。」

「そうなんだよ。」

「肝心の塩加減で。」

「そうなんだよ。」

「小さじ三を大さじ三にしちゃったと。」

「そうなんだよ。」

三枝が救いを求めるように房江を見た。

「台無しですね。」

バッサリと切られる三枝。

「ハ、ハ、ハ。その通りだ。」

「先生、笑える。」

その通り笑われた三枝。

「でだ、年甲斐もなく、自分の質問に自分で立ち返るわけだが、、、」

本来の話題に立ち戻る二人。

「料理のレシピを間違えたにも拘らず、逆に美味しくなっちゃいました、なんて経験あるか?」

房江は、考えをめぐらすように視線を泳がすが、やはり、

「まず、ないですね。良くて、まぁ良いかって妥協するくらいかな。」

に落ち着いた。

「そうだよな、良くて妥協、普通なら拒絶だよな。」

「まぁ、食べられないってことは、拒絶なんでしょうかね。」

続けて、何となく言葉の意味を吟味して答える房江。

「まぁ、レシピとかでもあんまり瓢箪から駒みたいな話しは聞かないかなぁ、、、」

と思いを巡らせる。

「確かに瓢箪から駒だよ、間違ったら美味しかったんだからな。瓢箪から駒だ、、、」

房江の例えは三枝も気に入ったようだった。

「瓢箪から駒の例で言うと、、、」

と、閃いたらしく房江は話し出した。

「チョコチップクッキーとかは、やらかしたのが逆に美味しかったっていうので、その口コミみたいので広まったらしいですけどね。」

ご存知の方も多いとは思うが、房江の言う通りチョコチップクッキーは、失敗作から生まれたものである。本来チョコクッキーを作るためのチョコを、溶かしそこねてチップのままチョコを生地に練り込んでしまったがために生まれたスイーツだ。何となくアメリカの南部の州のどこかの主婦がやり始めた感じのする、優しくて食べごたえのあるクッキーである。

「でも、チョコチップクッキー以外に何があったかなぁ、、、」

再び思案顔の房江だ。

三枝が念を押すように、

「確かに瓢箪から駒で生まれる美味しいレシピはないことはないだろう。ただ、如月でも答えに詰まるということは、殆どは逆で不味いってことだ。」

思案から戻った房江が答える。

「そうですね、大体不味いですね。」

「そうだよな。だから、瓢箪から駒は、大体不味いんだよ。」

「で、それがどうしたって言うんですか?」

と、房江が訊ねると、三枝はハナカマキリを指差しながら言った。

「瓢箪から駒で、ああはなりはしないだろうよ。」

ハナカマキリを房江は改めて見つめ直すと、納得したように呟いた。

「あぁ、そういうことかぁ。」

「だから、進化論で言うところの突然変異ってのは、どうもしっくりこないんだよ。」

「突然変異してハナカマキリになっちゃったって言うのがしっくりこないんですね。」

二人の会話を聞いているのかいないのか、ハナカマキリはしきりと蘭の花の上でカマを動かしていた。

一応二人の認識を、誤解無きようおさらいしておこう。進化論では種の進化の発生を、突然変異によるものだとしている。普通なら同じものが生まれ変わるはずなのに、突然のタイミングで変わった種類のものが生まれ出るという。そしてこのように変わってしまうのは、同じもののコピーに失敗したからだというのだ。つまり、これで言うならハナカマキリは普通のカマキリのコピーミスと言うわけである。

「そうだよ。色々試行錯誤はあって良いと思うけどさぁ、これが失敗作とはとても思えないんだよなぁ。」

三枝は、そう言いながら立ち上がり、ハナカマキリのプラケースを確認するように覗くのだった。

その姿を眼で追いながら、房江は言った。

「そうですね。ハナカマキリにしても、ナナフシちゃんにしても、敵から身を隠すっていう目的のためにこういう姿に進化したんですもんね。」

三枝には房江がナナフシを相変わらずチャン付けにするのが、不思議でもありおかしくもあった。

「あぁ、その通り。擬態だからそういうことになるな。」

確かに房江が言うとおり、生物が擬態、つまり何かに身を似せることは、身を隠して敵の攻撃を逃れたり、逆に身を隠して獲物に気付かれ難くするといった目的があるとされている。ナナフシであれば小枝になりきって身を隠しているわけである。更にハナカマキリは蘭の花に身を隠すだけでなく、それと知らずに寄ってくる虫を餌として捕食もしてしまう。

そのことも一応伝える三枝。

「まぁ、このハナカマキリは、身を隠すだけじゃなくて、餌も食べちゃうけどね。」

房江もそれは知っていたらしく、

「カマキリなんですから、そりゃぁ虫ぐらい捕まえますよ。」

房江も立ち上がると、ハナカマキリのプラケースに近寄って三枝の横に並んだ。丁度、肩辺りか。背の高い三枝であるので、意外に身長のある房江に、三枝は内心やや驚いた。

「オスだって食べちゃうんですから。ガブッ!」

そう言うと、房江は三枝に噛み付く真似をする。こういうちょっと笑える仕草が素直に出来るキャラクターなのだろう。似合ってもいる。

三枝の脳裏に、

『そういえば、カマキリ夫人なんてのもどこかで聞いたかなぁ?』

などという、目の前の現実とは似ても似つかない記憶が、突如として去来した。

『AVとかできる前の時代だったよなぁ。』

確かに女優の五月みどりがカマキリ夫人シリーズの映画に出ていたのは、AVが出来る前のまさに映画の時代、正しくは、

『あ、そうだ、日活ロマンポルノだ。』

三枝は三二才なので、実際の日活ロマンポルノというのは見たことがない(因みに日活ロマンポルノとは、1971年(昭和46年)から1988年(昭和63年)にかけて日活で制作・配給された日本の成人映画レーベルであり、思えば今から四五十年程前の事である)。ただ、大人の男としての基礎知識として、何となくは知っていたのだ。とは言うものの、勿論そんなことを口に出すことはない。

「ほぅ、良く知っているね。」

その通り、話題はカマキリの習性であった。カマキリのメスはオスを交尾中に食べてしまうことで有名である。

『その意味で言えば、科学的なタイトルだったんだよな、日活ロマンポルノも。』

これまたその通りである。自然界にいるカマキリの習性を模して、魔性の女のイメージさせるように、その昔日活のロマンポルノ制作チームは、「カマキリ夫人」シリーズを企画し、その主演に五月みどりという女優を採用したのである。

『あの頃は、本番なんてすることはなかったんだろうなぁ。』

とは、三枝の感慨である。思えばAVなどない、遠い昔の事である。

と、そこまで考えて、正気に戻る三枝。

軽く首を振ってから、

「だから、突然変異、言い換えるなら、コピーミスで、そんなに上手く変われるのが、あんまりしっくりこないのさ。」

そう言って、プラケースから離れ、三枝はもう一度丸椅子に腰を下ろした。

房江もそれに従って、椅子に座りなおした。スカートを手でひざ下に仕舞う仕草が女子高生らしい。

三枝は、ナナフシやハナカマキリのプラケースの方向を顎でしゃくり、改めて言葉を繰り返した。

「突然変異が上手い具合に行き過ぎだとは思わないか?」

「ハナカマキリやナナフシちゃんですか?」

「まぁ、そうだな。如月はそう思わないか?」

「上手く行き過ぎかぁ、、、」

「そう、上手過ぎ謙信、那須川天心!ってね。」

「プッ。」

房江はどうやら、三枝のダジャレを素直に受け止めてくれたようである。そんな奇跡を天に感謝した三枝。

それはともかく、房江は三枝の言わんとすることを理解したようだが、こう切り返した。

「それって、生徒が教師に言う言葉であっても、教師が生徒に言うことではないですよね。」

確かにそう言われればその通りである。三枝には冷静な房江が、頼もしくもあり、可笑しいようでもあった。

「でもさ、如月も思わないか、ハナカマキリが遺伝子のコピーミスって言うんだぜ。」

確かにその通り、突然変異とは遺伝子の遺伝誤り、つまりはコピーミスである。

「チョコを溶かし損ねてチョコチップクッキーになっちゃいました、見たいに済まされるもんじゃないだろう?」

「そりゃぁ、そうですけど。」

「なら、ナナフシちゃんも間違って枝の真似しちゃいましたって話しになっちゃうだろうよ。」

「まぁ、そうですけど。」

三枝も房江に倣って、ナナフシにはチャン付けである。

「そんなこと言い出したら、そこらじゅうでミスばっかだよ。ミスってしかも結果オーライばっかだよ。」

「確かにそう言えなくもないのかなぁ。」

「ナナフシちゃんしかり、ハナカマキリちゃんしかり、オオコノハムシちゃんしかりだよ。」

「全部チャン付けする必要はないと思います。」

「逆にミス最高。ミスしてくれてありがとう。その分世界が豊かになりました。これからもミスり続けてくださいね、ってなもんだよ。」

「いや、そこまでは誰も言っていないと思いますよ。」

「ミスにしちゃぁ、出来過ぎてはいませんかってさ、思うんだよねぇ。」

「ですから、それって、生徒が教師に言う言葉であっても、教師が生徒に言うことではないですよね。」

「全くこれじゃあ、出来すぎだよな。出来過ぎ晋作、高杉晋作、、、」

今度は睨みつけられる三枝。

暫しの沈黙が二人を包む。口を開く三枝。

「確かに、如月の言うとおりだ。」

ぺこりと三枝は頭を下げた。そして続けた。

「先生、ちょっと興奮してしまった。スマン。」

と、もう一度頭を下げた。

「良いですよ、頭なんて下げなくたって。」

と言いつつ、ふと思いついたように房江は続ける。

「でも、突然変異じゃなかったとしたら、何でなんですかね?」

房江が何気なく問題の核心を突くような発言をした。

「そうなんだよ、突然変異を否定しちゃうと、その代わりの何かが必要になっちゃうんだよなぁ。」

「じゃぁ、その代わりを用意すればいいじゃないですか。」

「用意するって何を?」

「何って言われても、、、」

「ギリシャに戻る?」

「ギリシャって言われても、行ったことないしぃ、、、」

「それとも神様?」

「私日本人だし、神様はちょっと、、、」

「だよなぁ。」

そう言って考え込む三枝に、房江も同じ思いをするようで、頭を抱え込んでしまった。

確かに、突然変異を否定するとなると、何か神様のようなものを想定したくなってくる。まるで昔のように、全知全能の神って奴だ。いや、昔は誰もが本当に何か理由があると思っていたのだ。ギリシャの昔は万物が水からできていたり、万物の源が、火と水と空気と土だったりしたのだ。キリスト教になると全ては神様が創ったりもした。日本だってイザナギノミコトやイザナミノミコトが頑張ったりしていたのだ。

しかし、それを否定したのが進化論であり、ダーウィンだったはずである。別に神様がいたのでもなく、何かの目的があった訳でもない。ただただ環境とそれに適合しようとした生物がいただけの話である。そしてその適応こそが突然変異なのだ。突然変異があったからこそ、進化は続き、房江が最初に言ったように適者生存と言うには相応しくないと思えるほど多種多様な生物が生まれたのだ。

だから、突然変異を否定してしまうと、再び昔のように何かを必要としてしまうわけだ。突然変異の理由ないしは目的がないと、居心地が悪くなってしまう。折角、玄関から追い出したと思ったのに、わざわざ裏口から再び招き入れてしまう様なものである。

「でも、ミスって結果オーライはなぁ。」

「あぁ、チョコチップクッキーの話ですね。」

「そうだよ。どうしてもそこが引っ掛かっちゃうんだよ。毎回毎回チョコチップクッキーだもんなぁ。」

三枝が再び唸った。

「そうですね、良い方にばっかりミスっちゃうんですもんね。」

房江も三枝の言わんとすることに理解を示したようだった。つまり、突然変異が毎度のように都合が良く良い方にばかり変化すると言うのはおかしな話だ、ということである。

「まぁ、何でもかんでも良いことばかり、というわけでもないけどな。」

三枝が混ぜっ返すようなことを言い出した。

「え?つまり、突然変異が悪い方に影響するって言うことですか?」

「まぁ、本当に致命的な悪さだったら生存を危うくしちゃうわけだけど、そこまでではないけども、どうなのよ、みたいのものはあるよね。」

「例えば?」

房江はどうやら思い付かないようだ。確かに、突然変異が良いことづくめというのもおかしなものだが、かと言ってその逆の悪い例というのもそう多くもない気もする。皆さんはどうだろうか?

「例えば、人間はビタミンCが生成出来ないじゃないか。」

「えぇ、だからお肌とか荒れちゃうんですよね。」

ビタミンCと言えばお肌なのが女子高生、いや女性なのだろう。

「そうなのだが、元々は自分で生成出来ていたのさ。」

「え?マジですか?」

「あぁ、その証拠にネズミやウサギは体内で生成することが出来る。」

「ふーん、そうなんですね。」

やや驚いた表情の房江だが、腰を抜かすといったほどではないようだ。そして続けた。

「じゃ、止めちゃったってこと?」

「まぁ、そういうことになるな。」

「何で?」

「今と同じさ。食べれば良いからね。」

「まぁ、そう言われればそうですけど。」

「食べればいいから、人間はビタミンCを体内で生成しないように進化した。つまり退化したわけだ。」

「ということは、サラダを摂る必要が出たと言うことですね。」

「そうだな、サラダとかフルーツとかだな。」

「先生、食べてます?」

「あぁ、一応気にはするようにしているつもりだよ。」

「本当かなぁ?一人暮らしですよねぇ。」

三枝はまだ未婚で、都内のアパートに一人暮らしだ。

「あぁ、一人暮らしだよ。」

「ちゃんと食べてます?」

「あぁ、一応自炊もするけど、、、」

なんとなく劣勢になる三枝。

「大丈夫かなぁ。彼女さんとかいないんですか?」

「いや、特にいないなぁ。」

「実家はどこでしたっけ?」

「え?実家は横須賀だけど、、、」

「微妙な距離感。」

確かに、微妙といえば微妙な距離感である。念のため付け加えると、横須賀とは神奈川県の南東部の三浦半島に位置する市で、都内からは電車で一時間ちょっとで行ける範囲だが、遠くはないが近くもない距離にある。それが房江曰く、微妙な距離感ということだ。

話がそれた。三枝が話しを戻す。

「だから、ビタミンCは体外から補わなくてはならない。」

「そうですね。」

「男性はあまり関係がないが、女性はビタミンCは大変なんだろ。」

「そうですよ。お肌のコラーゲンにビタミンCは欠かせないんですから。抗酸化作用でアンチエイジングだから、もう大変。」

そう言う房江は、まだ高校生だ。女子高生の頃から、お肌のケアは欠かせないらしい。

三枝がまとめる。

「てのが、チョコチップクッキーが不味かった例かな。」

「確かに、不味かった例ですね。」

房江も頷いた。

「キーンコーンカーンコーン」

その時、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

「あーぁ、次は英語だぁ。」

房江が伸びをしながら、呻くように呟いた。三枝の授業は次の次からである。

「ごちそうさまです。お邪魔しました。」

房江がペコリと頭を下げる。

「あぁ、そのままでいいから。」

房江は軽く微笑むと、振り向いて部屋の扉に向かった。

「林によろしくな。」

その背中に声を掛ける三枝。

振り返り笑みを浮かべる房江。長い黒髪が肩越しに揺れるのが印象的に思えた三枝だった。

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