第Ⅲ章 子殺し回避大作戦

その日の夜、房江が二人に電話で話した内容を見ておくことにしよう。

直立二足歩行は、確かに牙から犬歯への退化と同時に起きた。このことは発掘調査などで、ほぼ確定されている。歯並びや腰回りの骨格など、掘り起こされて出てきた骨の標本から、そうした変化が特定できるからだ。

一方で、一夫一妻制だったことや直立した理由が餌を持ち帰るためだったことは、物理的な証拠として何かが残っているわけではない。こうしたことは生活習慣なので、写真やビデオなどで残っていない限り、決定的な証拠というのは特定し辛い。飽くまで状況証拠から推測すると、そうでないとおかしいと思われる、ということである。


こうした犬歯や二足歩行と同じように、人間にしか見られない行為や習慣といったものが他にもある。そのうちの一つが、メスの排卵期が分からない、というものである。

人間の女性は、動物で言うならメスに当たるから、当然、排卵期というものがある。俗にいう、月のものというものであり、生理とか月経とかメンスとかとも呼ばれるものだ。これは女性に限ったことであり、妊娠していなければ月に一度は必ず来るものである。ただ、それがその月の何日に来るのかは基本的に分からない。そのため基礎体温などを測ったりするのだが、これもなかなか面倒な上、人による誤差も大きい。かくのごとく、人間のメスは結構な難儀を強いられていると言う次第である。

それに比べて、オスはどうだろう。

「オスは生理なんてないし、暢気なもんだよなぁ。」

と、言い切れるだろうか。オスはオスで、こんなメスの生理現象に影響はされていはしないだろうか。

結局、話しはその日だけでは足りず、三人は翌日に改めて会って話すことにしたようである。


「さて、そろそろ出掛けようかな。」

房江は何時ものおじいちゃん原稿のデジタイズ作業に切りを付け、外出の準備に入った。

「それにしてもおじいちゃん、スポーツカー好きだったのね。」

とは、感想のようである。作業は順調で、気が付けば三分の一ほど完了していた。

「じゃぁ、行ってきま~す。」

何の意味だか、原稿用紙に手を振って房江は外出していった。後には栞を挟んだ原稿用紙の束が、物静かに佇んでいた。


「こんにちは、はじめまして。」

房江が洋平に挨拶する。

「あ、どうも。こちらこそ。」

「あれ?二人は初めてだっけ?」

驚いたような声を出したのはリュウノスケだった。

「そうなのよ。前にビーカーの生物室でお会いした時は、何となく挨拶しそびれちゃって。それとこの前は電話だったので、、、」

リュウノスケから洋平に視線を移し、

「こうしてお会いして直にお話しするのは、初めてですよね。」

と、屈託ない笑顔を見せる房江である。

会釈して頷く洋平を見て、リュウノスケも、

「そうか、クラスは別だもんな。」

と、納得したようだ。席に着いた三人は、早速話の続きを始めた。

「女の私が言うのも何なんだけどね、普通、動物には発情期っていうものがあるじゃない、、、」

昨晩に続いて、房江の話に耳を傾ける洋平とリュウノスケ。三人は、近くのファミリーレストランにやってきていた。ここなら長居はオッケーである。話し込むにはうってつけの場所だ。

「あぁ、『サカリが付く』とかいうもんな。」

「うちの近くの野良猫も、うるさい時が確かにあるね。」

サカリがついて発情した猫は、普通の鳴き声とは一味違ったトーンで鳴くものである。

「あれってオスが発情するでしょ。」

「あぁ。」「あぁ。」

「その理由って知ってる?」

「え?、、、その理由って聞かれても、、、」

とリュウノスケが答えに詰まると、洋平が、

「あれ、お前知らないの?」

「え?知らないって?、、、発情って自然とするもんなんじゃないの。」

「お前んちの猫って、二匹ともオスだったんじゃなかったっけ?」

「あぁ、確かにオスだけど、ムサシもコムサシも保護にゃんハウスで去勢手術受けてるからさぁ、発情したことなんてないし、、、」

「あぁ、確かに保護猫となるとはそうなるよなぁ。」

保護にゃんハウスとは、多分リュウノスケの近辺の動物保護施設の事であろう。こういった施設では、飼育放棄されたり、野生化した犬や猫を保護して、里親を探す活動をしている。その際には、ワクチン接種などの病気対策だけでなく、適切な去勢手術を施してもくれる。

「じゃぁ、リュウノスケ、本当に知らないのね?」

と房江が確認すると、首を傾げ頷くリュウノスケ。

と、その時、

「あれ、もうなくなっちゃった。」

早くも一杯目のアイスコーヒーを飲み干したことに気が付く房江。初夏の季節で、冷たいものが美味しくなる今日この頃である。

「お代わりしようかな。」

「じゃぁ、俺もお願いできる?」

と、リュウノスケも残りのアイスコーヒーを飲み干しながら言う。それならということで、ついでに洋平もお願いすることにした。

「何にする?」

「何でも良いです。」

と洋平が答えると、ウィンクして房江が言う。

「なら、リュウノスケに説明しておいてね。」

「了解しました。」

丁寧な回答は洋平である。ドリンクバーに向かう房江を見送ると、洋平は口を開いた。

「オスが発情するのはさぁ、メスが排卵するからなんだよ。」

「え?メスの排卵?」

「あぁ、フェロモンとかいうだろ。聞いたことないか。」

「フェロモンって、なんかいい匂いっぽい奴の事だろ、嗅いだことないけど。」

「あぁ、俺もそう言えば嗅いだことないかなぁ。」

「で、そのフェロモンがどうしたんだよ?」

「あぁ、そのフェロモンをメスが出すわけだよ、排卵期に。」

「ほぅ、排卵期に出すわけね、フェロモンをメスが。」

「そう、そのメスが出したフェロモンを嗅いで、オスは発情するってわけ。」

「なるほど、それでオスが発情すると、、、で、それが何か?」

洋平は片手を口の端に付け、やや声を落として言った。

「だからさ、動物のセックスってさ、メスがトリガーな訳ってこと。」

リュウノスケも調子を合わせて声を落とす。

「セックスって、お前、房江がいる前でよくそんなことが言えるなぁ。」

房江はまだドリンクバーで、ドリンクを取り分けているようだ。

「いや、如月さんは動物の発情のメカニズムについて語っているんであってね、、、」

リュウノスケは「房江」で、洋平は「如月さん」である。三人の微妙な距離感ではあるのだろう。

「あぁ、分ってるけど、それで何が言いたいんだよ?」

「つまり、動物のオスが発情するのは、メスがきっかけであって、オスは言いなりってことさ。」

やや時間をかけて頭を整理するリュウノスケ。声のトーンも戻ってくる。

「確かに、そう言われればそうとも言えるなぁ。」

「な、そうだろ。だから、メスの排卵が終われば、オスの発情も終わるってこと。」

「あぁ、そうなるな。」

「年がら年中発情しているわけじゃないんだよ。」

「そんな犬とかいたら、変態だもんなぁ。サカリの付いた犬、ガウゥ、、、ホッ、ホッ、ホッ、ホ!」

受け流しながら洋平は、

「だろ、そうなるだろ。で、多分如月さんが言いたいのは、人間の場合どうなのよ、ってことなんじゃないかなぁ、、、」

「人間の発情ってこと?」

「そう、人間の発情。」

「ってことは、セックスってこと?」

「そう、セックスってこと。」

ここはフォントを小さくしてみた(見えるかどうか分からないが)。小声ということである。

「へー、房江って大胆不敵だなぁ。」

妙に感心するリュウノスケであった。


そんな二人の席に、房江が取り替えたドリンクをトレイに載せて戻ってきた。

「ハイ、リュウノスケはアイスコーヒー、洋平君には、なんでも良いって言うから、コーラにしたわよ。」

そう言う房江はメロンソーダにバニラアイス乗せのようである。

「で、どこまで行ったの?」

「えぇ、人間のセッ」

とまで言って、慌てて言い直す洋平。

「いえ、あ、えっと、動物の発情の仕組みってところまでかな。な、リュウノスケ!」

と、あたふたとコーラにストローを突っ込む洋平である。

「あぁ、そこまでは何となくわかったけど、、、」

と、調子を合わせるリュウノスケ。

確かに回りくどい話ではある。もう少し、房江の言い分を聞いてみよう。

「あぁ、そこまで行ったんだ。」

と、バニラアイスを一口、口に入れてから房江は話し出した。

「今日ね、二人に話したかったのは、犬歯とか直立二足歩行と、人間のメス、つまり女性の排卵の関係のこと。」

「おぉ、やっぱりそう言うことですかぁ。」

どうやら洋平の予想は当たっていたようである。

「な、言った通りだろ。」

「あぁ、確かに。大胆不敵だ。」

「何よ、大胆不敵って?」

不思議そうにする房江を遮るように、

「それはこっちの話。で、何がどう関係している訳?」

リュウノスケが改めて問い直す。気を取り直して房江が続ける。

「つまり、普通の動物には発情期って言うのがあります、と、、、」

「はい。」

リュウノスケが真面目に答えるが、

「それが何故かと問われれば、、、」

と、洋平がリュウノスケに振りなおす。

振られたリュウノスケは、仕方なく答える。

「それは、メスが排卵して、フェロモンでオスに伝えるから、オスが発情するって仕組み。」

「ご名答!」

といって、手を叩く房江。

「では、人間の場合はどうでしょうか?」

二人に謎掛ける房江である。

「なるほどね、それが聞きたかったって訳ですよね。」

半ば予想していたかのように洋平は頷く。

一方のリュウノスケは、

「人間の場合って言われてもなぁ、、、」

と、まじめに考え込んでしまう。


ちょっと時間を先に飛ばす。

気が付けば時間は昼時になっていたが、ファミレスでの三人の会話は続いていた。

「子供を殺されないためかぁ。」

「なるほど、人間の女性って偉大なんだなぁ。」

感心することしきりな男二人である。

なかでもリュウノスケは感心したようで、

「俺ねぇ、仲間由紀恵と宮沢りえだけは尊敬しているけど、お前、それ級に凄いわ。」

と真面目な顔で、そう言った。何やら房江を女性の代表として、褒め称えたい様子である。

「何よそれ?!」

「何で尊敬しているんだよ?」

房江、そして洋平も呆れたような顔をしながらも、多少の興味は沸いたようだ。

すると、リュウノスケはこんなことを言い出した。

「仲間由紀恵は、『TRICK』で自分のことを自分で『貧乳』『貧乳』ってバンバン言ってたじゃんかぁ!?」

「そうだっけ?」

「何となく、そんな感じはするけど、、、」

リュウノスケが言う「TRICK」とは、2000年代から2010年代にかけて仲間由紀恵と阿部寛の主演で評判になったテレビ番組である。ご覧になった方も多いのではないだろうか。

「疑うんならDVDかなんか借りてみてくれればいいけどさ。あれほど自分で自分の事、『貧乳』って連呼できるのは、あの人ぐらいしかいないって思ったんだよね。」

「褒めてんのかね、それって。」

「褒めてるに決まってんだろ。あれだけ下品な自虐の台詞を、計算された緊張感で連発できるんだぜ。下品なのに品があるんだな。あんなお芝居を成立させられる女優さんは、他に誰がいるかなぁ、、、」

「何か、それなりの女優批評っぽく聞こえるのはなんでかしら?」

と、まともにリュウノスケの意見を受け入れたかのような房江は、続けて聞いてみた。

「で、宮沢りえは?」

リュウノスケが即答する。。

「ほら、野田秀樹と三谷幸喜の舞台を天海祐希が病気で途中降板した時、ピンチヒッターでその後の舞台を引き受けたのが宮沢りえだったじゃん!?」

「そんなことあったっけ?」

「何か聞いたことあるかも、ぐらいだけど。」

2013年の舞台「おのれナポレオン」での出来事である。主演の一人である天海祐希が、公演の最中に軽度ながらも心筋梗塞を発症し、入院せざるを得なくなったのである。その時に急遽、ピンチヒッターに選出されたのが宮沢りえであった。詳しい経緯は分からないが、たまたまスケジュールが空いていたのであろう。兎にも角にも宮沢は、わずか二日の舞台稽古で一幕二時間二十分のお芝居を完璧に演じ切り、観客を総立ちにさせたという。

「いや、依頼が来てから一週間もなかったんじゃないかなぁ。なんせ突然のピンチヒッターだし、舞台だから生だしね。しかも、原作は三谷幸喜と野田秀樹の共作って上さぁ、二時間はある舞台の主役で、相手役は原作の野田秀樹当人なんだぜ。」

「あそう、大変なのはわかるけど、、、」「というか分かるようで分からないような気もするが、、、」

と、戸惑う二人を気にせず、

「大変というか、普通なら不可能だよね。どう頑張ったって出来るもんじゃないよ。普通なら三ヶ月くらい稽古とかリハーサルをするところを、たったの一週間だぜ。バケモンだよ。見上げた女優魂って奴だよ。」

「そ、そうなのね。」「わ、わかったよ。」

顔を見合わせて、リュウノスケの言いようのない迫力に圧倒された二人。

「だから、お前もそれくらい凄いってこったよ。」

そう言って、

「おめでとう!」

と、力強く頷きながら房江に祝辞を送るリュウノスケ。

「あ、ありがとう。」

仕方なく感謝の意を表す房江。

「おぅ、俺なりの最大級の賛辞だと思ってくれ。」

「なんか上から偉そうだけど、まぁいいか。」

と、リュウノスケは彼なりの最大級の賛辞を房江に送ったのだった。そんな賛辞を受けた房江が話した内容とは、次の通りであった。


インドで親のオスザルが子供のサルを殺すのが発見されたのは1960年代の事であり、発見したのは日本の学者だった。

というのも、日本の学者が発見したのには理由があった。何故なら、この時代の日本の生態学は、京大の霊長類研究所を筆頭に世界を牽引していたからである。特にサルの生態に関する研究は盛んで、捻りも何もなくそのまんまサル学と呼ばれていたほどであった。補足だが、「サル学」とは飽くまで愛称であり、動物行動学上のサルを研究する学問、という意味では正式な名称ではない。ただある時期の日本国民の人口に膾炙した名称であったことは間違いない。

それは兎も角、その他国の追随を許さない研究の要は「個体識別」であったという。つまり、「個体識別」が日本のサル学の必殺技だった、というわけである。今のAIで言うなら、ディープラーニングに相当する、とでも言えばいいだろうか。

では、そんな「個体識別」とは何だったのか?それはその名の通り、サル一匹一匹の個体を識別し、その生態を追跡観察して研究すると言う手法であった。しかし、相手はサルである。首輪を付けさせてはくれないし、ICチップを埋め込めるような時代でもない。では、何故そんなことが出来たのか。答えは簡単で、

「名前を付けたから。」

つまり、太郎とか花子とか、日本人では誰でもやるように、サル一匹一匹に名前を付けていたというのだ。そのため自然と観察や研究が個体ごとになり、結果として「個体識別」という手法に意識せずともなったのだという。逆に言うと、海外では、サルはサル、としてしか研究対象として思い浮かばなかったと言うことなのだろう。瓢箪から駒というか、コロンブスの卵というか、そんなこぼれ話である。本題に戻ろう。


本題はサルの子殺しである。少々長くなるが、その本題の前提から始めよう。

1960年代に日本人の学者が、サルに関して衝撃的な報告をした。サルのオスがサルの子供を殺すというレポートである。しかも、報告されたサルはハヌマンラングールという、可愛らしい小型のサルで、西遊記で有名な孫悟空のモデルにもなったサルである。インドでは神の使いといわれ、大事にされることから街中でもよく見かけることが出来る。人気もあり、ごく一般的なサルだ。写真で見ると、確かに小型の細身で、薄い白っぽい体毛に、顔の周りだけ黒い、クリッとした可愛げなビジュアルをしている。とても自分の子供を殺してしまうような残忍さは、窺い知ることが出来ない。

また、この時代は自然界は平和である、といった考え方がもてはやされていた時代でもあった。世界中で自然の乱開発が告発されるようにもなった時代でもあり、残酷で殺し合うのは人間、調和してお互いの多様性の中に生きるのが自然、みたいな二項対立が時代の背景にもあった。そんな時代にハヌマンラングールという神の使いと言われている可愛げなサルが、子供を殺そうなどとは誰も思わなかったわけである。

そんな時代の1964年、京都大学の杉山幸丸により、サルの子殺しの報告がなされた。そんなわけで、当初この報告は異常行動としてしか扱われなかった。まぁ、気が狂うことは人間でもサルでもたまにはあるさ、という扱いだったのだ。しかし、杉山はこの表面的な見方を否定して、サルの生態における世代交代のための、ある種合理的な行動だと主張した。何故、子供を殺してしまうことが、世代交代に合理的なのか。子供を殺してしまっては、その種の生き残りには不利になってしまうではないか。

これに対する杉山の答えが、メスの発情であった。


以下、やっと本題である。

実は、オスのサルが子供を殺すのは、そのオスが新たにその集団のボスになった時に発生するものであった。何故か?

メスのサルは、子供が小さいうちは発情しない。何故なら授乳に忙しくて、発情していている暇などないからである。授乳が終わり、子ザルが一人で餌を食べられるようになって初めて、また発情するのである。理に適った行動と言えよう。

ところが、これでは困ってしまうものもいる。誰かといえば、授乳中に新たにボスとなったオスザルである。授乳中にそのメスの集団を乗っ取ったオスのサルにとっては、そのままだと授乳が終わるまで、そのメスとはセックスが出来ない。つまり、自分の子孫を造ることができないわけである。それではなかなか効率が悪い。しかし、授乳している赤ん坊がいなくなれば、そのメスは発情する。つまり、セックスをして自分の子供を作ることが可能になる。ならば、殺してしまえホトトギス、となるわけであった。

事実、こうした子殺しの行動は、それ以来サル以外の動物でも観察されるようになった。そうした経緯で、杉山の説は正しいことが証明されて行ったのである。つまり、生態学的な合理性が認められたと言うわけだ。

ただし、それ以来ハヌマンラングールといえば子殺しの代名詞みたいになってしまった感はある。事実、「子殺しする動物」などで検索してみると、ハヌマンラングール、という記載がかなりの確率でヒットする。何となく言いがかりというか、出会い頭の事故というか、ファウルチップが当たったようでもあり、可哀そうな気もしないでもない。ただ、インドではヒンズー教の神の使いであるので、これからも大切にされていくのだろう。因みに日本の動物園ではなかなかみられない貴重なサルのようである(2023年現在では、山口県にあるときわ動物園のみ。)。

本題も長くなった。本題の大元に戻ろう。先に飛ばした時間も、これでリアルタイムに戻る。


「で、問題は、人間の女性の生理な訳よ。」

房江の説明である。

素直に洋平とリュウノスケは耳を傾けている。

「人間の女性は生理がいつ来るか分からないの。だから基礎体温とか、色々やっている訳よね。」

「大変なんだな。」

「男には分かんないけどね。」

年頃の三人だが、男女の微妙な差異を話すらしい。最近のこの年頃は割と簡単に男女の壁を乗り越えられるようである。そういう時代なのであろうか。時代は令和である。少なくとも昭和の時代には考えられなかった光景には違いない。

と思いきや、話はいきなり脱線する。させるのはリュウノスケだ。

「あ、女性の生理で思い出したんだけどさぁ、、、昔、上岡龍太郎って言う人が嘘か本当か分からないこと言ってたなぁ。」

「上岡龍太郎って誰?あのヨガとかやっちゃう人?」

房江がそう言うと、洋平が反応し、

「それは片岡鶴太郎って人じゃなかったっけ。芸人なのに絵とかも上手いんじゃなかったっけ?」

と応えると、思い出したように房江がそれに反応し、

「あぁ、その人ね。でも、結局、絵もヨガも全部、辞めちゃうのよね。」

とのこと。リュウノスケは続けて、

「まぁ、そこら辺の年代の人だろうな。でね、その上岡龍太郎って人はさぁ、『俺の芸は二十世紀まで』って言って、本当にニ〇〇〇年に引退しちゃったんだよ。」

「うわー、何かカッコ良い!」

房江が手を叩く。

「そんな人、いたんだぁ。」

洋平も素直に感心したようである。

「なんか、最高の引退の仕方、とか言われているらしいんだけどね、、、」

確かに人生の引き際は難しい。

「同じ芸人でも、紳助とかとは大違いだな。」

反社との付き合いが露呈して、引退を余儀なくされた超の付く売れっ子芸人の話である。詳しい方も多いと思うので、余計な説明がいらないくらいだ。

「で、その上岡さんがどうしたの?」

房江が話を戻した。リュウノスケが続ける。

「で、その上岡龍太郎によると、料理の担当は生理のあるなしで決まるって言うんだ。」

「は?」「え?」

洋平も房江も皆目見当が付かない。リュウノスケは続けた。

「家の中でご飯を作るのは嫁さん、つまり女性だけど、レストランのコックは男性だ、って上岡龍太郎は言うんだ。」

「何か、ジェンダー的に問題がありそうな発言ね。」

まぁ、確かに今となってはポリコレなりハラスメントなりに抵触しかねない発言かもしれない。

「それは時代もあるんじゃない。今、コックって言わないし。言うならシェフだもんな。」

別に差別語でも放送禁止用語でもないようだが、いつの間にか使われなくなる言葉もあり、使われ出す言葉もある。時代の移り変わりなのかもしれない。

「本題がそこじゃないことは、二人とも分かっていると思うから続けるけど、、、」

と、一応念押ししてリュウノスケは話を続けた。

「何でレストランのコック、いやシェフが男性かというと、上岡龍太郎に言わせると、それは生理がないから、ってことなんだよ。」

「え?」「何で?」

と、顔を見合わせる二人。

「だってレストランでは何時も同じ味を出さなきゃいけないじゃないか。つまり、毎日同じ味付けをしなきゃいけないってことさ。」

「あぁ、なるほど、毎日同じ味の感じ方をしなきゃいけないってことかぁ。」

「確かに、女性は生理の前後で味覚が変わるって言うものね。」

「だからレストランのシェフは、生理のない男って訳だ。」

二人とも異論はないようだ。

「一方、家庭の味付けは毎日同じだと、逆に飽きてしまう。」

「なるほど。だから、同じ味噌汁でも、味付けが微妙に変わる女性の方が合っている。」

「その微妙な味付けの変化というのが、生理の周期から来るって言うわけね。」

「なるほど、塩加減でも、出汁の濃さでも、微妙に違いが出て来るということかぁ。上手く出来てんなぁ。」

こちらにも素直に感心する二人だった。

「まぁ、上手く出来てるのは上岡龍太郎の話の方かもしれないけど、多少の説得力はあるにはあるな。」

「でも、最近は料理の世界にも女性が進出していることは確かだから、どうなのかしらね。」

房江は女性だから女性の社会的な地位向上には関心があり、賛成ではあるものの、過激なフェミニズムには距離を置く考えでもあった。そこら辺はその内触れる時もあるかもしれない。

「それはそうと。話してたのは生理が判らなくなったってことよね。」

「あぁ、そうだ。」

「話しが逸れ過ぎたね。」

話がようやく元に戻った。元々の問題は、何で人間の女性だけ生理の時期が分からないのか、というものだった。


上岡の話がひと段落すると、改めて思案気に洋平が呟いた。

「男を惑わせるため、とかかなぁ?」

「え?自分でも分からなくなっちゃうのにか?」

リュウノスケはそう応じたが、房江の答えは意外だった。

「ちょっと違うけど、結果的にはそうかな。」

「え?」「え?」

驚く二人に房江は続けた。

「ハヌマンラングールの話で、子供をオスが殺したでしょ。」

「あぁ。」「あぁ。」

「その理由が、メスが発情しないからだったわよね。」

「そうだな。授乳中のメスは発情しないから、その子供を殺して発情させようとしたってことだよね。」

リュウノスケが確認した。すると洋平は、

「え、ちょっと待って。まさか、、、殺させないため?!」

「え?何のこと?え?何のこと?」

リュウノスケにはピンとこないようである。

「何でそう思ったの?」

房江の問いかけに対する洋平の推理を聞いてみよう。

「つまり、ハヌマンラングールのオスは、メスを発情させようとして子供を殺したわけだよな。」

「あぁ、そうだな。」「そうね。」

「勿論、メスが発情するのなら、殺しはしないわけだよ。」

「そりゃ、そうだな。」「その通りね。」

「でも、実質、子供に手がかかる時期は、発情しないんだよ。」

「しないな。」「しないわね。」

「でも、発情しないってわかったら、子供は殺されちゃうわけだよ。」

「だからそうだって言ってんじゃん。」

というリュウノスケだが、

「で、どうしたって言いたいの?」

と、面白そうに答えを促す房江。

「ならさ、わかんなくすればいいんじゃね。」

「何言ってんだよ、お前。」

「フフ。」

「だからさ、発情しているかしてないか、わからせないんだって。」

「誰が?」

「人間のメスが。」

「誰に?」

「人間のオスに。」

「何で?」

「子供を殺されないため。」

「ピンポン。」

何故かグータッチの房江と洋平。それを口を開けて見つめるリュウノスケ。

まだ解せないリュウノスケのために、補足しておこう。

ハヌマンラングールの子殺しにあるように、授乳中のメスは発情しない。よって、その間のオスは、仮にメスが他のオスの子供の授乳中だとすると、自分の子孫を残すためには、授乳が終わるのを待たなければならない。しかし、それを待っている暇などないから、子供を殺してメスが発情できるようにし、自分の子孫を残せるようにしたのであった。

これに対して、人間のメス、つまり女性は自分の排卵日が何時なのか、自分でも良く分からない。これをオス側から見ると、発情しているのか、発情していないのか、良く分からない状態となる。これだと授乳していても、もしかすると発情しているかも知れないと勘違いする輩が出ても仕方ない。下世話な言い方をすれば、何時だってセックスが可能なのが人間のメスだ。勿論、実際にするかどうかは個々人の問題である。また、実際には妊娠中や子育て中に浮気をする男性が多いとも聞く。しかし、それは現代の話であり、また、機能的な話ではない。少なくとも人間のオスにとっては、発情させるがための子殺し、という動機がなくなることは確かである。


話しの順番が逆になったが、ここまでが房江の説明の内容である。ファミレスの三人の会話に戻ろう。

「ということで、女性、つまり人間のメスは発情期を有耶無耶にしたって言うわけ。」

房江が話をまとめる。

「なるほどなぁ。」

「上手くやったもんだなぁ、しかし。」

首を振りながら、房江に拍手を送る二人。首を竦め、チロッと舌を出す房江。お互い男性の代表と女性の代表ということらしい。

「でも、これはハヌマンラングールの子殺しみたいに証明されたことじゃなくて、あくまで想像ね。」

房江が念を押す。

「でも、待てよ。」

リュウノスケが考え込んだ。

「どうした?」「どうしたの?」

「女性が発情期を有耶無耶にしたってことは、男性はどうなるんだ?」

そう呟いて沈黙するリュウノスケ。

すると同様に、洋平も暫く沈黙して、

「確かに、有耶無耶にされちゃったんだもんなぁ、、、」

と、賛意らしきものを表明する。

「フフ。」

不敵な笑みを浮かべる房江。

更に自問自答するリュウノスケ。

「ってーことは、ずーっと、メスが発情してるかしてないか、わかんないってこと?」

「そうなるわよねぇ。」

とは房江。

洋平もそれに続く。

「ってことは、オスはずーっとモヤモヤしてるってことになるなぁ。」

「そうなるわよねぇ。」

とは再び房江。

「オスはモヤモヤしっぱなしかぁ。」

「メスに振り回されっぱなしだな。」

と、二人の男は顔を見合わせ頷きあった。

それを見る房江は余裕の笑みである。

確かに、人類の男性が年がら年中、女性の尻を追い回すのは、女性の発情期が有耶無耶だからである。であるが故に、世界中の男は年がら年中モヤモヤしっぱなしである。モヤモヤしっぱなしの、振り回されっぱなしなのだ。

すると天然の洋平が呟いた。

「ってーことは、立って歩いてモヤモヤしたってことか。」

リュウノスケもそれに続く。

「モヤモヤしてブラブラしたんだよ。」

「何よ、ブラブラって?」

「男って、そうなるもんだから。」

「何よ、そうなるもんて!?」

「そうなるから、そうなるんだよ。」

「意味わかんない。」

「分かるかなぁ~。」

「分かんないだろうなぁ~。」

「だから意味わかんないってばぁ~。」

三人の話しはなかなか終わりそうになかった。

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