第5話 魂が喜ぶことをするといいさね!


6月の梅雨の合間の曇り空だった。立川駅のホームは、朝なのに夕方みたいに薄暗く、蛍光灯の明かりにゾンビたちの背中が照らされていた。

ゾンビたちは精気のない様子でゾロゾロと歩いていた。ふと曇り空を見上げるゾンビに後ろのゾンビがぶつかって2人とも転倒した。


ホームのベンチに座って、セレナは、ぼんやりとゾンビの群れを眺めながら『涙そうそう』を口ずさんだ。誰にも聞こえないような小さな声で歌った。

沖縄出身のグループ「BEGIN」が歌って大ヒットした曲だった。なぜ、この歌が口から出てきたのかわからない。

どこか、いまの気持ちにぴったりの響きがすると思った。



すべてが、どうでもよくなっていた。仕事も恋愛も人生も、なにか、別の世界の出来事のような氣がした。


「どうするんだい? 会社には行かないのかい?」

耳元で沖縄オババが小さい声で言い、ニヤリと笑った。


「どうしよう」

セレナはいままで、無遅刻無欠勤の優等生で勤務してきた。


今日も、出勤するために髪をとかし、メイクをして紺のスーツを着てマンションを出てきたのである。でも、そんなの、もう、どうでもいいやと思い、セレナは髪留めを外し長い髪をたらした。


「いま、世界で1番行きたい場所はどこだい?」


「どこだろう? 会社でないことはたしかね」


「魂に聞いてごらん。お前さんの魂が喜ぶことをすればいいんだ。そうすれば、幸せなお金持ちになれるさね」


「魂に聞くって、どうすればいいの」


「そうさね。目を閉じて、深呼吸して、静かに自分の内面の声に耳をすますんだ」


セレナは言われた通り目を閉じた。



駅の喧騒が聞こえた。電車の音、駅員のアナウンス、通勤客の足音など。さまざまな雑音が聞こえるなかで、セレナは自分の呼吸に集中した。

気管や肺や喉を通過する空気の音、心臓の鼓動、血液の流れる音さえ聞こえてきそうだった。


雨が降るのだろうか? 雨の匂いがした。

五感が敏感になっているのだろうか? 音や匂いに意識がむいた。


『私の魂が喜ぶことって、なんだろう?』


素朴な疑問が浮かんだ。そのとき、まぶたの裏に子猫の姿が浮かんだ。猫、猫だ、と思ったら、急に猫を抱きしめたくなった。



「どうだい? 魂が喜ぶことを見つけたようだね」


「え? どういうこと?」


「どういうことって、いま自分のやりたいことが見つかっただろ?」


「猫?」


「そう、猫だよ。猫に会いたいんだろ? 猫を抱きしめたいんだろ? だったら、それをすればいい」


「でも、仕事があります」


「それはやりたい仕事なのかい? 楽しいのかい?」


「辞表は出してますが、辞めさせてもらえないんです」


「辞めるか、辞めないかは、誰が決めるんだい? お前さんかい? それとも会社かい?」


「私です」


「だったら、サッサと辞めればいいじゃないか。会社が辞表を受理してくれないから辞められないなんて、変な言い訳だね。それとも、わずかな退職金がもらえなくなることを惜しんでいるのかい?」


「お金なんか、どうでもいいんです」


「だったら、バックれたらいいんじゃないか!」


「バックれる?」


「そうさ。従業員にはバックれる権利があるんだよ。このまま猫を抱っこしに行ったらいいじゃないか」


「でも、会社を休むとなったら、連絡しなければいけません」


「連絡したければすればいい」


「でも、あの上司の声なんか、聞きたくないです」


「だったら、電話なんか、しなくていいんじゃないか? 魂が嫌がってるんだろ?」


「はい。嫌です」


「魂が喜ぶことをしなさい」


「毎朝、会社へ行くこと、休むときは連絡すること、私たちは、そう教わってきましたし、就業規則というものがありますから」


「だからよ」


「ルールを破るというのは、ちょっと氣が引けます。みんなツライのを我慢して働いているわけですから、私だけわがままを通すのは違うと思うんです」


「もちろん、わがままはいけないよ。でもね。お前さんがいなくても、会社はちゃんと回っていくよ。お前さん1人が抜けて潰れるような会社なら、潰れていいんじゃないか? そもそも、ブラック企業は積極的に潰すべきだよ」


「でも・・・」


「でも、なんだい? じゃ、次の満員電車に乗って会社へ行けばいいさ。魂のメッセージを無視して、いつもの習慣を優先させればいい。人は、自分の頭で考えることを忘れて、いつしか習慣で生きるようになる。まるで習慣の奴隷さね。


猫を抱っこしたいという願望が浮かんだのに、それをすぐに打ち消して、魂が嫌がることを選ぶわけだ。人生は選択の連続だよ。その選択が、お前さんの生きるパラレルワールドを決めるのさね。


魂が嫌がることを選んだら、この先、ずっと魂は嫌々しながら生きることになる。いずれは悲鳴をあげて心も体も破壊される。どうする?」


「どうしよう?」


セレナは悩んだ。ベンチにお尻が接着されたみたいに、身動きできなくなり、大きなため息をついた。


いつしか、曇天から霧のような雨が降りはじめていた。





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