第6話 なぜか猫が浮かんできた


人生ではじめての経験だった。『バックれる』なんて、いままでやったことがなかった。


小学生のころ、頭が痛いといって休んだ。そのときは、母親が学校へ連絡してくれた。

母親は、セレナの体調を氣づかうよりも、自分が学校へ電話しなければいけないことに不機嫌だった。


セレナの母親にはコミュニケーション障害があり、人と関わることが大嫌いだった。父親とも喧嘩が絶えず、セレナが小学3年生のときに離婚した。


セレナは、母親に引き取られたのだが、ある事件があったとき、家出して父親のもとへ走った。


ある事件というのは、近所で幼稚園児が母親のネグレクトで餓死したのである。セレナはそのことをテレビニュースで知った。


徒歩3分ほどの近くの家で起きたことにゾッとした。衝撃だった。


セレナの母親はネグレクトはなかったものの、セレナに対して毎日罵声を浴びせた。おもちゃの片付けをしていなかったら、容赦なく捨てられた。裸でバスマットの上に正座させられたこともあった。


「目が死んでんだよ」と罵られた。

「あんたなんか、生むんじゃなかった」とけなされた。

「なんで、いつも、私の邪魔ばっかりするの!」と怒られた。


小学6年生のときだった。この母親と一緒にいたら、自分も、殺されるかもしれないと思って怖くなったのである。


中学・高校は父親の家から通った。

高校を卒業したら、東京の大学へ進学した。いい思い出などない広島の街から逃げ出したかった。少しでも遠くへ行きたかった。


大学の4年間は無遅刻無欠席だった。


真面目にルールを守ってさえいれば無事に過ごせるのだと思った。

父親からの仕送りは潤沢にあったし、バイトをする必要もなかった。


会社員になってから1度だけ欠勤したことがあるが、そのときは、自分で会社に連絡した。仕事を休むときは連絡するのが当たり前だと思っていた。


無断欠勤など、ダメ人間のすることだと思っていた。ダメ人間になってはいけないと思っていた。


しかし、いま、自分は、その境界線を超えてしまった。



どうしよう。



ダメ人間になってしまうのだろうか? 

ダメ人間の生きる道は、どんな世界だろうか? 

幸せなのか? 不幸なのか? 


セレナはそう思いながら、立川駅の改札を出て歩いた。


「どうした? 怖いか? いままでとまったく違う世界へ飛び込むような氣がするさね。でもね、それがパラレルワールドさぁ。


考えが変われば、意識が変わる。意識が変われば住む世界が変わるんだよ。


世界が変われば付き合う相手もガラリと変わる。2度と会うことのない人のことを考えるのはやめな。これから出会う人たちのことを考えるんだ。


新しい船に乗るのは、新しい水夫さね」

セレナの耳元で沖縄オババが囁いた。


「私はどうすればいいの?」


「魂が喜ぶことをすればいいさぁ」


「魂が喜ぶこと?」

セレナは先ほど心に浮かんだことを思い出した。猫を抱っこするシーンである。


猫? 

なんで、猫? 


なぜか猫を思い浮かべると、心の底から温かいものが込み上げてくる。

ほんわかとした楽しい気分になれた。


理由はわからない。

前世で自分は猫だったのかもしれない。


まさか?


セレナは、何度か行ったことのある猫カフェに向かって立川の街を歩いた。雨が降っていたので、赤い折りたたみ傘を開いて肩に乗せた。雨の匂いがした。



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