ただ手帖

多田いづみ

蟄居

 わたしは海沿いの町にやってきた。

 家族も仕事も何もかも捨てて、トランクひとつ下げてここへ来た。

 といってもトランクは大きすぎて、手には下げられず引っぱってきたのだが――。


 ゆるやかに湾曲する海沿いの通りをずっと歩いていくと、民家もだんだんまばらになった。

 わたしは通りから階段を降りて、海岸へ出た。


 海岸には誰もいない。

 季節は真冬で、夏の海水浴シーズンに見る海とはまったく違う。

 海は灰色に濁っており、空は鉛のように重苦しかった。砂はかがやきを失い、暗く沈んでいた。


 まだ正午を過ぎたばかりだったが、空いちめんを厚い雲が覆い、どんよりした、夕立ち前のようなうす暗さだった。が、水平線のあたりだけが妙に明るかった。

 遠くまで目をこらしても船は一艘も見えず、海鳥の一羽も飛んでいなかった。


 強い風にあおられて、コートの襟がバタバタと揺れた。

 波はうなりをあげて、激しく浜辺に打ちつけていた。砕けた飛沫が風に乗って、わたしの顔を針のように刺した。


 わたしはトランクをズルズルと引きずりながら、色のない海岸を歩いていった。

 とくにあてはなかったが、たまたま良さそうな場所を見つけて落ちついた。


 そこは海側をのぞく三方を岩に囲まれた隠れ家のような砂地で、はじめて来たのにもかかわらず、どこか懐かしさを感じさせる場所だった。

 なぜだろうかと考えていると、ふとむかしのことを思い出した。

 そうだ、ここは子供のころ近所の空き地につくった秘密基地に似ている。


 いまは波打ちぎわから離れてはいるが、ここも潮が満ちてくると海に沈んでしまうかもしれない。

 まあいい。かまうものか。


 わたしは砂を平らにならし、トランクを倒してフタをあけた。

 中には何も入っていない。空っぽである。


 わたしはおもむろにトランクに入り、猫のように丸くおさまった。

 フタをしめると、ようやく肩の荷がおりた気がした。すべてが終わったのだと感じた。


 トランクのなかは暗く、狭く、ほのかに暖かい。

 息ができるようフタにコートの端を挟んでおくと、すき間から、水平線が白くかがやいているのが見えた。


 波の音、潮の香り、しめった砂の感触。

 いまやわたしは波打ちぎわに生きる、大きな二枚貝だった。

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