遁走(続 色騒ぎ)
白昼の街なかを、わたしは必死に逃げていた。後ろから包丁を持った男が迫ってきている。
まるで悪夢のような光景だが、現実の出来事だった。痴話げんかを見ていたらとつぜん渦中の女が、男にわたしを刺すようけしかけたのだ。
女は愛を証明するためにわたしを刺せと言ったが、どういう理屈なのだかさっぱり分からない。彼らとは初対面で、恨まれる理由もない。あるいは彼らの言い合いをおもしろそうに見ていたのが気に障ったのか。
男は女に言われるがままにわたしを刺そうとしたので、わたしもだまって刺されるわけにはいかないからあわてて逃げた。
五分も経たないうちに息が上がった。ふだん運動なんてしないからこれでも頑張ったほうだ。刺される恐怖で、アドレナリンがドバドバと出ているのかもしれない。
だが男もあきらめず、しつこくわたしについてくる。
男は背は高いがやけにヒョロっとしており、とてもスポーツマンには見えないけれど、とにかく若いからわたしよりは体力がありそうだった。
しかし着ているものが悪い。服は体にぴったりとした細身の上下で、見栄えはいいが動きにくそうだし、妙につま先のとんがった革靴を履いている。あんな格好で走るのはたいへんだろう。
わたしも運動に適した服装とは言えなかったが、歩きやすいスニーカーを履いているだけまだマシというものだ。
くそっ、警察はまだ来ないのか。このままじゃ、やつに刺されてしまう。
わたしは走りながら、
「おい、ここまで来たら女も見てないし、おれを刺したことにして戻ったらどうだ?」
と説得を試みた。が、男は頭を振りながら、
「いや、そんなわけにはいかない。もう彼女にウソをつくのはご免だ。なんとしてもあんたを刺す」
と取りつくしまがない。
「でもおれを刺したら刑務所に長く入ることになるぞ。もしおれが死んだら、一生出られないかもな。そんなやつをあの女がずっと待ってると思うか?」
なんとか男を押し止めようと、息を切らしながらひねり出した言葉は、男の心に響いたらしい。
男はとつぜん走るのをやめ、立ち止まった。ようやく自分のしていることのバカらしさに気づいたようだった。
しかし愛を証明するとかなんとか、そんなことで見ず知らずの人を刺そうとするとは、いったいどんな頭のつくりをしてるんだか……。わたしをこんな恐ろしい目にあわせたこいつも女も、ぜったい刑務所に送ってやる。
そう思いながら走る速度をゆるめた途端、急に男が距離を詰めてきて、背中にドンと固いものが当たった。
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