トランペット
夕飯で食べた貝のお刺身にあたって、くちびるが、ひどく
以前にも一度そういうことがあったから、わたしは貝でかぶれる体質なのかもしれない。ずっと昔のことだったので、すっかり忘れていた。わたしのくちびるは、いつもの二倍くらいぷっくりとふくれあがり、ほんのりと赤くもなって、でも、わたしはくちびるの薄いのがコンプレックスだったから、それはむしろよかったのだけれど、くちびるに小さな心臓ができたみたいにズキズキして、ちょっと熱も出てきて、おかあさんは学校を休んだらといったが、あしたは吹奏楽部のオーディションがあるから、どうしても休むわけにはいかなかった。
わたしときたら、だいじなことがあると、いつもその前に悪いことがおきて、ふだんの実力を出しきれない。どうしようもなく運が悪いのだ。
あしたのオーディションのために体調をととのえて、はやく寝なくてはいけないのに、気分がざわざわして、どうにも落ちつかない。わたしは楽器ケースからマウスピースを取りだして、くちびるに押し当ててみた。夜だから音は出せないけれど、感触は悪くなかった。それにあしたになれば、腫れもひいているかもしれない。そう願いながらベッドに入ったのだが、朝になっても、くちびるは腫れたままだった。
落ち込んだ気分のまま学校へゆくと、仲のいい友だちがやってきて、わたしの顔を見るなりびっくりして、どうしたのときいてきて、きのうのいきさつを話すと、友だちは、アメリカのなんとかという女優みたいだとほめてくれて、わたしはその女優のことを知らなかったけれど、ほめ言葉にも、いいほめ言葉と悪いほめ言葉があって、悪いほめ言葉はただの皮肉だから喜んではいけない。でもそれは皮肉なんかではなく、ほんとうに、心からの、いいほめ言葉らしかった。
男子からは、からかわれるんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなくて、遠巻きにうわさしているような、興味、好奇心、そういう目線を感じ、トイレに行って鏡を見ているうちに、わたしの顔は、まあまあ整っている方だと思うけれど、くちびるが薄くて、プールに入りすぎたみたいにちょっと青みがかっていて、暗い、つめたい感じのする顔だから、あんまり気に入ってはいない。でも、きょうのわたしは、くちびるが赤く腫れているせいで、親しみやすい、明るい顔に見えて、だんだんとこのくちびるがイヤではなくなってきた。
放課後、部活動の時間になっても、腫れはひかなかった。しかしオーディションを待ってもらうわけにはいかないから、覚悟を決めて、このままやるしかない。
オーディションにはまず音階のテストがあって、わたしは基礎練習が苦手なので、いまだにハイトーンが出せなかったり、安定していなかったりで、あんまり自信がなかったけれど、きょうはなぜか上手くいった。くちびるのふくらみが、マウスピースにぴったり合っていたせいかもしれない。
そのあとの課題曲も、たいしたミスもなく吹けた。悪いどころか、ふだんよりもずっと調子がよかった。いつもはきびしいことをいう顧問の先生も、たいへんけっこうでしたとほめてくれて、これならレギュラーに選ばれるかもしれない。
部活が終わると、どういうわけか、ひそかにあこがれていたセンパイがいっしょに帰ろうとさそってきたので、いっしょに帰った。センパイの楽器はフルートで、長いこと吹いているわりにはそんなに上手くない。はっきり言ってヘタだ。時どき、警笛みたいな調子はずれの音を出して、顧問の先生に怒られている。でもいつも明るくて、おもしろいことを言うから、けっこう人気があって、わたしも好きだ。
かえりがけに、やっぱり、センパイはいろいろとおもしろいことを言って笑わせてくれて、とても楽しく、友だちの評判も、男子からの視線も、部活のオーディションも、それにセンパイのことも、くちびるが腫れたおかげですべてがうまくいって、結果的にはよかったのだけれど、それもきょうまでのことで、あしたには腫れがひいて、また元のわたしに戻ってしまうのかと考えると、なんだかつまらない気がして、悲しくなってきて、やっぱり運が悪いんだなと、わたしは思った。
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