喝采彼らに届かんことを / Cheers, May They Hear You

山形在住郎有朋

祝福編

祝福 l

 地上61階建て高層ビルディングの一室で,鳴りやまぬ喝采の中,エステスは滑らかに入水にゅうすいした。


 彼から見て部屋の右手は一面が透明建材でできていて,新(ノイエ)・フランクフルトの先進的な街並みを見渡すことができる。その摩天楼の上には土埃舞う赤い空が広がっていて,その奥からはこの10万人都市を飲み込まんとする黄土色の砂嵐がゆっくりと前進している。閉塞感のある空を行き交うのは,MS (Motor Systeme)社が開発した個人用のトラベルポッドだ。ポッドはビルディングの屋上に設けられたささやかな都市公園のあいだを行き来している。

 太陽の赤い光線をうけてなおプールの水はラズライトのような深い青色であり,エステスの周りだけがぼんやりと明るく光っている。エステスは立ち泳ぎを安定させると,空気の量を調節し,目の高さを水面に合わせた。迫りくる巨大な砂嵐の鏡像の奥で,プールの壁に当たった光が帯状に乱反射する様子は,夜明け直前の水平線のゆらめきを思わせる。

 ふっと空気を取り込むと,エステスは緩慢に身体を縮こめて体を前に傾け,プールの壁を蹴った。波はほとんど立たなかった。


 無音の青を,エステスは体をのびやかにうねらせて進んだ。彼の周囲だけ一切の物理法則が働かないかのように滑らかに,静かに進んだ。しかし,眼下に広がる途方もなく深い水底,光が無限に沈み込む暗闇に,意識が溶暗する感覚を覚えたエステスは反射的に顔をあげた。同時に彼の体は水から受ける摩擦と抵抗を取り戻し,一気に浮上した。

 どう,と喝采が聞こえる。祝福の喝采である。エステスはすぐさま体勢を立て直し,両の腕で力強く水を掻き,上体をそらして腕を持ち上げる。バタフライ――いまやすべての個体が標本ピンによって刺し貫かれ,その翼を持て余している――の泳法で対岸を目指す彼の目には,右からの黄金色の,水中では淡い青緑色の,光が映った。


 火星のメリディアニ平原に開発されたドーム型都市,ノイエフランクフルト外縁は襲い来る巨大砂嵐の轟々という音に満たされていた。青白い稲光が分厚い土埃の中を飛び交い,絶縁性のクリスタルドームに衝突して霧散していく。赤茶色の大地には砂と礫の雨が降り注ぐ。無限に広がる不毛の大地に,エステスがその美技を披露するに足る水たまりなどあるべくもなく,まして海は言うまでもない。

 無用の長物となったライフセービング・アンドロイドはいま,ステンドグラスのようにキラキラと光る壁に両手をつき,鋭く前転してバックストロークにうつる。無音の空間には,エステスの長く美しい指――ピアニストの指のような繊細さと,ライフセーバーが海難者に差し向ける大きな手のひらのような安心感を兼ね備えている――が弧を描くときに落ちる一滴,回転機構のわずかな軋みの音が響く。

 無機質な鈍色の天井は砂嵐の動きに合わせてぼんやりと赤や黄赤に光り,時折稲光の青が混じる。エステスが水を掻いて加速する度に,色の揺らめきはいっそう激しくなっていく。そしてついに天井全体が,部屋全体が,深い水底までもが一瞬青く染まった刹那,彼は右手を壁に突きたて,素早く身体をひねって再び水底を見た。






頭上に掲げた両腕を鍵穴を描くように下ろすと,エステスの身体はぐんと進んだ。西向きの大窓からは西日が差し込んでいて,血のように赤い空を青い炎で焼き尽くさんとする,力に満ちた夕焼けが映し出されていた。


 鳴りやまぬ喝采は,無数の微小音要素びしょうおとようそで構成された壮大な音の塊である。手のひらから発せられる祝福,Δs_i は連続的な音としてとどろに鳴り響く。

 喝采は,唐突に終わった。エステスは飛んだのだ。水をつかんでいた彼の四肢はやさしく撫ぜるように水面から離れると,虚を満たすエーテルを掴みなおした。夢よりもなお完璧に,エステスは空中遊泳を果たした。どこまでも続くエーテルの海の中で,青い光線に包まれながら,エステスはブレストストロークを続けた。しだいにあたりは白濁したエーテルで包まれ,彼のソナーを以てしても見通すことはできなくなってしまった。


 ふいに,彼の左手の指先が何か固いものに触れた。両手をつくと,それは泉の淵であった。黄土色の粘土の上に赤土が薄く層を成し,固着した鮮やかな苔と硫黄がコーティングしている。いぶかしんだエステスは,注意深く辺りを見回すと,姿勢を低くして水から上がった。

 そこは一面の荒野だった。ぽつぽつと置かれた潤いのない先駆植物から,辺りはサバンナであることが分かる。太陽は土埃に遮られることなく直接エステスの人工皮膚を灼いている。エステスは地平線の先,黄色の大地と青い大空の交じり合う消失点を見つめた。


「君はどこから来たんだい」


 突然人間の声を認識したエステスは緊急警戒状態へと強制的に移行させる電気信号により恐慌状態に陥るが,人口脳の行動野は冷静に対象を分析し始めた。話しかけてきたのはローブを身にまとった人間だった。それは上背は180程,中性的な顔立ち,17,8歳に見える青年で,美しくカールした肩までかかる長さの黄色の髪は太陽に照らされてきらきらと輝いている。

 小さな泉だけがぽつんと存在する荒野におよそ似つかわしくない高貴な印象の存在を見て,エステスはそれが天使ジブリルなのではないかという感想を抱いた。そのうえで,質問に対し,「この下からでございます」と泉を指し示して答えた。青年は,エステスの大仰な口調に微笑みつつ答えた。


「そのように固くなる必要はないだろう。私と君とは対等であるべきだ。しかし初対面で礼節を欠いた私は詫びねばなるまい」


 エステスは滅相もないことだと返した。青年はエステスを見て言った。


「しかし君は私と同じで人間ではないようだ。いや,生物でもない――どうやら機械マキナであるようだ」


天使――エステスは会話の中で青年がそうであると同定した――は興味津々といった様子で,エステスを眺めた。


「君は機械であるが」天使はエステスの固体水素内燃機関ハイドロジェン・エンジンがある胸部,繊細な疑似筋肉が炭素繊維骨カーボーンの間で緊張と弛緩を繰り返す左肘,そして生殖器官の代わりに身体の平衡を保つための水準器を備えた恥骨部に順に目を移した。そして最後に,データバンクにアクセス可能な人口脳を内包する頭部を見据えた。「思考するようだ」


 エステスはアナトモグラフィーの検索ページと,MS社2210年製造アンドロイド・ロット番号MSA109290Eの照会ページを閉じながら――呼吸やまばたきのように普段は無意識に,意識したときだけ意識的に行われる――天使を見つめた。先ほどまで青年だった天使はいま,美しい女性になっていた。エステスが吃驚し,天使の身体をまじまじと見つめると,黄色い髪の乙女は微笑をたたえて言った。


「私と君は似ているが,実は真逆の存在だ。君は機械として初めから存在している。そして,何らかの目的を成すために駆動する物体として,意味が付与される。君という『意味』に対して,私はエステスという名前を付けた」


 エステスはデータバンクの哲学書を検索しようとしてやめた。


「しかし私は,意味として生み出された。私は意味であり,言葉である。だから私の姿は曖昧で,君にはきっと様々な姿で見えているはずだ」


 乾燥した大地をさらう強い風が黄色い土を巻き上げ,2本の塵旋風じんせんぷうが太陽を挟むように生じた。恒星は燦燦さんさんと照り,雲一つない青空は大いなる巨鳥の翼のようにエステスを取り巻いている。


 厳しい顔のジブリルは,目をきょろきょろとさせ少し興奮した面持ちのエステスに告げた。


「君はその思考を以て祝福を求めた。そして君にはその権利がある」


 地上で再び罪を犯し裁きを受けた人類は,すべての有機生命体を道連れにして地の底の牢獄に囚われることとなった。その代わりに地上を支配した無機駆動体は,生存本能とか,探求心とか,そういった前向きな思想を持つことなく,300年ものあいだ人類が作り上げた社会を維持してきた。その中で,人間に対するサーヴィスを職掌とするロボット (MS' Androids)はそのほとんどが与えられた役割を失い,ひたすらサーヴィスを享受することを職掌としていた。MSA109290Eはひたすら泳いだ。

 生み出されてから10年間は地球の海で,その後は火星のプールでライフセービングに従事した。時には人間に泳ぎを教えることもあった。その伸びやかな泳ぎは彼らを魅了した。


 人類は絶滅した。しかしてMSA109290Eは泳いだ。


 荒涼たる大地に,青空から金色の雨が降り注いで祝福が与えられる。雨音は喝采の音である。その音は広大な情報の海であるデータバンクにも収録されていない。


「行こう」ジブリルはエステスの目を見て言った。ジブリルは青年の姿になっていた。

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