伝道 III
ルークが目を開くと,そこはなじみのアジア食品店,ヤンヤンマートだった。
(俺はデータバンクとの接続を切ったのか。まったく,こんな気持ち悪い感覚,よく929は耐えられるな)
データバンクとの任意接続遮断は,アンドロイド本体に与えられた視覚と視覚情報を処理する中枢とのバイパスの喪失を意味する。教師データたる画像のほぼすべてはデータバンク側にあるため,通常ならばアンドロイド本体は視覚情報を自前で処理することができず,水槽の中のイカとパイナップルを区別できない。
(929は,データバンクとの接続を切ってもデジャヴュで頭がおかしくならないだけの情報を真に記憶しているわけだ...)
ルークはのん気な青年が日頃行っている過酷なトレーニングを思い,素直に誇りに思っていた。
あたりを少し見まわしてみると,辺りには見慣れた食材が並んでいる。奥のエリアは中央アジア,手前は東アジアとオセアニアの食材が雑多に陳列されている。手前の生鮮品コーナーには,バナナ,ピタヤ,ドリアンなどのバスケット,イカ,タラ,そしてルークの記憶にない鮮やかな魚などの水槽,そして合成ミート――残念ながら小さなアジア料理店に並ぶほど本物の肉は市場に出回らない――が積まれた冷蔵庫が所狭しと配置されている。
通りがかりの潜在的顧客の目を引く中華屋台風のおもての先では,スーツ姿のアンドロイドたちが今日の昼食を求めて商店街の北側から歩いてくるのが見える。そのうちの一人,グレーのスーツの男はヤンヤンマート正面の鹹点心専門店の前で立ち止まると,しばらく店の前の電子メニュー表を操作した後,商店街の奥の方へ去っていった。彼は何を食べるのだろうか。ルークは彼がベトナム料理を食べると予想した。根拠は料理人としての経験に基づく勘である。
次に目が留まった女性には見覚えがあった。ベージュのショートコートに桜色のスカートあるいはドレスを合わせた婦人は,ルークの記憶するところでは929と同じアパートメントに住んでいたはずである。職業は教師――ご苦労なことに10年ごとに習ったことを忘れる鳥頭な子供たちを指導するしごと――を務めているとルークは929から聞かされていた。独立した子供が二人いるという設定(記憶も記録もあるが,かれらが同じ家で過ごしたという事実は恐らく存在しない)で,エステスと並んで歩いていてたまたま会った時に言葉を交わした際には気さくでこのましい婦人だという印象を与えた。婦人はヤンヤンマートをのぞき込み,手前の野菜からルークに視線を移すと,眼を細めて会釈した。ルークが返すと,女性はいくつかのトマトを手に取って確かめた後,ふたたびルークに目を向けてから店を後にした。ルークは婦人が店の壁に隠れて見えなくなるまで見送った。
「オイ!イチゴ!なにぼーっとしてるんだ!すっぽんとミルクの他に何が欲しかった!」
「おっと,22y......じゃなくてヤンヤン,うーんと,フォーが欲しいんだ。ライスヌードル。すっぽんはいらない。要るのはスパイス」ルークは目の前の華奢なアジア系アンドロイドにはヤンヤンという名前があることを思い出した。
(そうだ,あいつにお土産でも買っていこう)
「それと,ついでに1/4カットのパイナップルをくれ」
ヤンヤンは破顔して「それはいいな!お土産か!ニャインは果物が好きだと言っていたからな!ほら,もたもたしてないでビニールで包む!」と言い,そばのフィドマーンを小突いた。
ルークは思い出したように「ああ,最近929のことをエステスと呼ぶことにしたんだ。今度あいつが来たときはそう呼んでやってくれ。きっと喜ぶぞ」
それを聴いたヤンヤンとフィドマーンはそろって目を丸くし,フィドマーンは「君たちもようやくあだ名をつける仲になったか。いいことだと思う。まあ,私たちにはかなわないけどね」
「こら,早く包まないと褐変しちゃうよ!こっちはジュースにするから冷蔵庫に入れるんだよ!」やんやんはまんざらでもない顔を隠すようにそっぽをむきながらフィドマーンに指示した。
「それにしても,なんだねエステスってのは。大層な名前だね
イチゴニャンコ,あんたはなんて呼ばれてるの」ヤンヤンはルークの保冷バッグに品物とおまけのお菓子を詰めながら尋ねた。
「俺は
ヤンヤンはルークをじっと見つめると,「だめだね,あんたはスカイウォーカーにも
「なんでだ!詐欺師はエステスだろうが!」
「あの子はいい子だよ!あんたのほうがよっぽど悪人面だね!」
(そうか,これがデータバンクを使わない時に感じられる「喜び」なのか)
何にも
世界観が変わる衝撃,蒼空を切り裂く稲妻,金色の大地を揺らす烈風。どうと乱れ,再凝固し,形を成す。
(聞こえる,聞こえるぞ,エステスの聞いたという「喝采」の音が。)
局地豪雨がアスファルトを叩きつけるかのような長く激しい破裂音がルークの胸の高鳴りと同期する。記憶の中にかすかに残る火星駐留軍隊の行進の映像が脳内で再生される。
いま,とめどない喝采の嵐と完璧なリズムの鼓動が互いに共鳴し,今にも耐えられなくなって破裂する,その瞬間,何かが弾け,ルークは海の中にいた。
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