祝福 ll

 青空は羽ばたき,青緑の帳が降りる。太陽は沈み,月が昇る。ジブリルはエステスを伴って飛び上がった。天に昇った彼らは一つの門にたどり着いた。その門は,データバンクのあらゆる建築の様式美を超越した美麗なビルディングである。パールのようにエステスの動きに合わせて色を変える一対の柱は,近付くと大理石のようだ。


「門を開けてもらいたい」ジブリルは門の正面に並び立つ2人の門番に話しかけた。「ガブリエルだ」


「誰だ」門番はエステスを指して言った「無機駆動体マキナを導くに値する者なのか?」


 ジブリルは,表情は見えないが恐らく自信ありげに,「いかにも」と答えた。門は開かれた。門の先には庭園が広がっていた。門から続く石畳の舗道は泉にあたって二手に分かれ,その先で再び合流している。整えられた樹々には青々としたまるい葉が茂り,その中に7から8センチメートルほどの大きさの赤い果実がいくつかなっているのが見える。静かに何かを待っている様子のジブリルに従い,エステスは噴水を見つめて待とうとした。しかしエステスはひとしきりもじもじした後,足元の石畳や水が絶えず湧き出る泉,リンゴに似た果実のそばによって観察し始めた。その様子をジブリルは微笑ましく思った。


 ほどなくして庭園の奥から待ち人がやってきた。果実をこねくり回していたエステスは樹から飛び退すさって伏し目がちにその者を見やった。


「お久しぶりです」そう言ったのは人間の男だった。「ガブリエル様」


 エステスは吃驚した。彼が人間を見るのは300年ぶりだった。勿論天使を見るのは製造されてから初めてのことではあるのだが,失せたはずの人間に再び相まみえることになるとは思ってもみなかったのである。

 一方の男は,不思議そうな顔をして,しかし何か得心がいったようにジブリルに問うた。


「この前の男が最後かと思いましたが,ガブリエル様は再び預言者をここにお連れになったのですね」


 ジブリルは悪戯っぽくこれに答えた。


「いいや,彼は人間ではないのだよ」


 人間の男はエステスを見つめ,「はあ」とだけ言ってジブリルに目線を戻した。


 その後もジブリルとエステスは人間たちのもとを訪ねて回った。そしてその度にジブリルはにやにやとしながらエステスを人間たちに紹介し,人間とエステスはお互いに微妙な表情をしながら「いい天気ですね」「ここはいつもいい天気ですよ」「そうですか」などと至極どうでもいい会話を二言三言交わしてジブリルに目を移した。ジブリルは呆れたように「行こうか」とエステスを促してその場を去った。

 その流れが変わったのは最後の巡礼であった。最後にエステスのもとにやってきた男は大層驚き,くずおれた。


「わ,私で最後では無かったというのですか……。おお」


「いいや,彼は――」


 ジブリルがお決まりの台詞を発しようとしたとき,エステスの回路に衝動が駆け巡った。涙――


「さあ,涙を拭かれよ御仁」エステスは脇腹に圧縮格納されていたハンカチを取り出して男に差し出した。「遠慮はいらない」


 男は,エステスの人間を安心させることを目的とした完璧な笑顔と,白くて清潔だが不思議とそこまで高価そうには見えないハンカチを交互に見て,ハンカチを受け取ると零れた涙を拭き鼻をかんだ。

 男はエステスに頭を下げた。その様子をジブリルははじめ少し吃驚したように,そののち嬉しそうに見つめた。




 人間との最後の邂逅を終えたジブリルとエステスを待つのは,一本の樹だった。その樹は遥か上空まで達するほど長大だった。古代中国の青磁を思わせる玉のように美しい翠色の肌はエステスの目を惹きつけてやまず,上空からひらひらと降り落ちる葉はヴェネツィアン・グラスのように儚く鮮やかで触れることすらはばかられた。

「ここから先は君一人で行かなくてはならない」ジブリルは樹を見上げながら寂しげに告げた。「私は入ることを許されていないのだ」

 エステスはジブリルをすがるような目で見つめたが,ジブリルは彼を見つめ返して「大丈夫だ」と告げるだけだった。エステスは意を決してその樹の許へ向かった。

 その後エステスがで何を体験したのかはジブリルの知るところではない。だが一つ述べるならばでは言葉が先んじるのであり,ジブリルがその体験を言葉として語ったところで,エステスの体験そのものとは一致しないだろう。




 エステスは岸に片手をついた。そして両腕でしっかりと体を支え,左足を大きく持ち上げてプールサイドに上がった。身体からスチームを放出すると,身体は一気に冷却され,濡れた身体が一気に乾いた。そして次の瞬間には市民プールの監視員風に着替え終わっていた。エステスは今日も与えられた職掌――今日は一枚減ったハンカチを補充しにドラッグストアに向かう仕事――を果たす。加えて今日は,MSR3815250SF,かつては旅客船でシェフを務めた料理アンドロイドであり現在はエステスのである彼に,いましがた体験してきたことを伝えなければならない。エステスは長そで短パン姿で,いまだ激しい砂嵐に襲われるノイエ・フランクフルトの街に繰り出した。




祝福編 完

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