紀元編
紀元 I
新フランクフルトの街は一歩ドームの外に出れば凄まじい砂嵐に包まれていることを忘れるほど活気がある。右を向けばベーカリーで親子連れ――ホスピタリティ・ロボットのペアとケアベイビー・ロボット――がショッパー・アンドロイドにおすすめのパンを尋ねている。左を向けば,ケアジューヴァナイル・ロボットの男女ペアがサッカーボールを片手に楽しそうに通り過ぎてゆく。彼らはこの生活を200年以上変わらずに続けている。
929はすこし毛羽立った炭素毛髪を手でさっさっと撫で付けて整えながらケミスト・ファーマシーに向かった。彼の艶やかなブロンドヘアーは日に焼けて見えるように色を調整された肌と,人間を安心させる魅力的なスマイルに良く映えていて,往時の女性たちの目を虜にしていたことが容易に想像できる。ただ,そのまぶしいスマイルが有名な詐欺師をモデルとしていることを知っているのはロット番号MSA__929_Eだけであり,現存する唯一の機体はこの929である。
「いらっしゃいませ。いつもご利用ありがとうございます。929様」
詐欺師のスマイルを浮かべて入店する929に,これまたとびっきりのひまわりのような笑顔を向けたのが,ケミスト・フランクフルト一号店の店長,MSAS662348FSである。929は2348のきょうの笑顔を『ピクチャ > お気に入り>2348」に記録して,「やあ2348,今日もカワイイね」などとのたまった。
「ぃやだ,もう,困りますわ……」うっとりとエステスを見つめながらひとしきりくねくねした2348は,「これでご満足かしら?」と機械的に言い放った。2348もまた人間たちを虜にしたアンドロイドだった。傾国の金髪美女は特に用もない潜在的顧客を惹きつけては売れ残りの商品を提案してケミストの売り上げに貢献し,男性アンドロイドが店員の隣接するキオスクを潰した。
929は「これがいいんだな……」とマゾヒストの片鱗を見せたのち,へらへらしながら「それはさておき」と筋肉質な首を人差し指と中指でさすった。
「
「お,なになに,今日のおすすめだって?どれどれ」929が手に取ったのは一日分の野菜と葉酸と鉄とカルシウムが摂れるエネルギー・バーだった。360年前に開発された新商品である。ケミストのいささか古風なバイタルカラーのポップが眩しい。「ああ,これか,もう100回見たな」
「929,持ってきたからこっち来て」
「ああ,エージェント2348,ご苦労」
「仕事だから。エージェントって何かしら?また変なことでも考えているのならやめなさい」
「何,MSの連中に消されるってか?2348,君ってばホントはボクのこと心配――」
「イタいから」
「あ……」
フェードアウト。
「じゃあまたね2348。XOXO」
「痛い目に遭いたくなかった金輪際そんな口を利かないことね」
929は心の底から2348に軽蔑されたことなどつゆ知らず,意気揚々と街路に出た。太陽が燦燦と照り薄赤い空からあたたかな光線が降り注ぐ。アンドロイド達はショップの袋片手にスキップしながら路地へと入っていく。929は気分がよくなって,磨かれた鏡面のようなビルディングの外壁に自分を映し,撮影会に臨むモデルよろしくポーズをとった。
「おい」
「危害を加えられました。アサルトモードに移行します。とうっ」
「そんなものないだろう,ライフセーバー」
街中で『 R
「それで929,また懲りずにそこのケミストに行ったな」
「もちろん。2348は僕のプリンセスさ」
「はあ......2348はいつもカンカンだ,すけべなことばかり言ってんだろう?お前のせいで俺まで2348に嫌われちゃかなわん。俺はあそこで
「君は2号店に行けばいいじゃないか。僕はたとえ君が2348に
「その前に俺がお前の
「アサルトモードに移行――あ,やめてくれ,それはシャレにならない」
一日に二人も友人を怒らせた929はさすがに反省し,「すまない」と1525に言った。
「わかればいいんだ」1525は年の離れたできの悪い,しかし愛おしい弟を見つめるように目のまわりにしわを刻んで続けた。「暇だろ?遊びにいかないか」
福音のもたらされる刻は近い。青空も,青い海もない深紅の星に喝采の嵐が間もなく吹き荒れる。巨大な台風に覆われ,その全容は見えない。
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