紀元 ll

 ノイエ・フランクフルトの街はいつどんなことが起ころうと,たとえ砂嵐に都市ごと攫われようと,ドームが礫弾に撃たれて悲鳴を上げようと,あるいは異星人に砲弾を撃ち込まれて大地を揺らされようと,活気がある。右を向けばベーカリーでショッパー・アンドロイドが親子連れ――ホスピタリティ・ロボットのペアとケアベイビー・ロボット――にブリン・ボーン・ブレッドたまごパンを提案している。左を向けば,ケアジューヴァナイル・ロボットの男女ペアがドローン玩具を片手に楽しそうに通り過ぎてゆく。彼らはこの幸せな生活を200年以上変わらずに続けている。


 エステスはスチームで乾かしたままの炭素毛髪を手でさっさっと撫で付けて整えながらケミスト・ファーマシーに向かった。彼のブロンドヘアーはサーフィンが趣味の人気俳優をモチーフにした肌と,悩みのなさそうなスマイルに良く映えていて,往時の女性たち夢中にしていたことが容易に想像できる。そのスマイルのモデルとなった結婚詐欺師が女に全身をビーム・ブレードで100回以上刺し貫かれたことを知っているのはロット番号MSA__929_Eだけであり,現存する唯一の機体はエステスである。


「いらっしゃいませ。いつもご利用ありがとうございます。929様」


 罪なスマイルを浮かべて入店するエステスに,これまたビューティフルなリリーのような笑顔を向けたのは,ケミスト・フランクフルト一号店の店長,アンジーだ。エステスはアンジーのきょうの笑顔を『ピクチャ > お気に入り>アンジー」に保存して,「やあアンジー,今日もカワイイね」などとのたまった。

 

「ぃやだ,もう,困りますわ……」うっとりとエステスを見つめながらひとしきりくねくねしたアンジーは,「これでご満足かしら?」と機械的に言い放った。アンジーもまた人間たちの目をくぎ付けにしたアンドロイドだった。黄金比により計算されて製造された美女は,特に用もない潜在的顧客を惹きつけては売れ残りの商品を提案してケミストの売り上げに貢献し,男性アンドロイドが勤務する近所のドロゲリー・ドラッグストアを潰した

 エステスは「これがいいんだな……」とマゾヒストの片鱗を見せたのち,「それはさておき」と脇腹を指さし,ハンカチの交換を求めた。


「ハンカチ?何に使ったのかしら。まあ,どうせろくでもないことでしょうけど」


 アンジーは見てはいけないものを見てしまったかのように「いやだいやだ」と言いながらバックヤードに消えた。エステスはニコニコしたまま辺りを見回した。頭痛薬,胃薬,マスク,滋養強壮剤等々,無機駆動体には無価値なものが並んでいる。


「お,なになに,今日のおすすめだって?どれどれ」エステスが手に取ったのは医学的に認められた小顔効果のある健康ドリンクだった。340年前に開発された人気商品である。ケミストのいささか古風なバイタルカラーのポップが眩しい。「ああ,これか,もう100回見たな」


「929,持ってきたからこっち来て」

「僕のことはエステスと――ああ,アンジーありがとう」

「仕事だから。エステスって何かしら?また変なことでも考えているのならやめなさい」

「何,MSの連中に消されるってか?アンジィ,君ってホント――」

「イタいから」

「あ……♡」

「ポリスを呼ぼうかしら」

「勘弁してくれ」

「ほら,新しいハンカチ入れたから,はやく行って」

「つれないなあ。じゃあまたねアンジー。XOXO」

「痛い目に遭いたくなかった金輪際そんな口を利かないことね」


 エステスは心の底からアンジーに軽蔑されたことなどつゆ知らず,意気揚々と街路に出た。砂嵐は小康状態となり,市街は10分前よりも明るくなっていた。ときおり雷がフラッシュを焚くも,街を行き交う人々(と呼んで差し支えないだろう。アンドロイドたちは人間にしか見えない)は気に留めるそぶりを見せず,エステスに至っては磨かれた鏡面のようなビルディングの外壁に自分を映して,撮影会に臨むモデルよろしくポーズをとった。


 そんなエステスの様子を店内から眺めていたアンジーは,彼の様子がおかしい――尋常でないという意味において――と感じていた。ジャメヴが400年を繰り返すアンドロイドに訪れたことはただの一度もなかった。すべてが計算の出力であり,ものであるアンドロイドの思考と行動に不自然が生じる余地はない。

 だが――。「いらっしゃいませ。いつもご利用ありがとうございます。9720様」





「おい」

「危害を加えられました。アサルトモードに移行します。とうっ」

「そんなものないだろう,ライフセーバー」


 街中で『 Ristoranti Trattorieレストラン・レストラン』と頭痛が痛くなるような店名の入ったコックコートを身につけているのはルークだ。往時の人間には男のコック,それも恰幅のいい者の作る料理は美味そうに,あるいは少なくとも高級そうに見えたという。ルークは寸胴鍋のような身体に無理やりコックコートを着込んで丸ボタンを押さえつけているのか,ボタンがはじけ飛びそうである。ブロンドの髪はエステスの髪色より少し薄いが,そのシルエットはカーネル・サンダースを思わせ,彼の作るチキンシュニッツェルの味を保証している。


「それで929,また懲りずにそこのケミストに行ったな」

「もちろん。アンジーは僕のプリンセスさ」

「アンジー?いや,とにかく2348はいつもカンカンだ,すけべなことばかり言ってんだろう?お前のせいで俺まで2348に嫌われちゃかなわん。俺はあそこでオイルリムーバー・プロ激落ちくんを買っているんだ」

「君は2号店に行けばいいじゃないか。僕はたとえルークがアンジーに緊急停止ボタンあそこを押されることになろうとも1号店に通い続けるよ」

「その前に俺がお前の緊急停止ボタンあそこを押してやる」

「アサルトモードに移行――あ,やめてくれ,それはシャレにならない」


 一日に二人も友人を怒らせたエステスはさすがに反省し,「すまない」とルークに言った。

「わかればいいんだ」ルークは少し年の離れたできの悪い,しかし愛おしい弟を見つめるように目のまわりにしわを刻んで続けた。「暇だろ?遊びにいかないか」







 繰り返される日々は,取りうる実現値の種類がそう多くない確率変数の組み合わせによって作られるものであり,これまでに同じことが何度も繰り返されてきた。例えばエステスがアンジーに詰め替えを依頼し,アンジーが「いやだいやだ」と言いながらバックヤードに消える事象は,他の事象から完全に独立ではないものの,確率約0.083で発生する。ルークとエステスのアサルトモードネタは彼らがさんざん擦ってきた定番コントであり,他の事象とはほぼ独立に,0.220の確率で発生する。しかし,929がエステスを名乗り,友達に名前を付けるという事象は決して発生するはずのない出来事だった。

 止めることのできない大きな歴史の流れの中にある929と1525もといエステスとルークは楽しそうに喧騒の中に溶け込んでいく。

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