愛
愛(フィリア) l
主の恩寵を説くエステスを見つめる御使い一柱在り。その名をジブリルという。ジブリルは主のことばを伝える役割を持ち,言語を有する者に規範を与えてきた。それは人間に限った話ではない。
例を挙げよう。主よりことばを授けられた生物にイルカがある。一頭の雌イルカ,ジブリルが仮にメリダと名付けた彼女は,自分自身と自分を生み出した親の区別,そしてそのはるか先で彼女たちを生み出した存在,すなわち主の存在を理解した。そして,「感謝」の歓びと安らぎを受け入れた。それはイルカたちにとっての信仰の在り方となった。とあるシルバーバックのゴリラ,エドは愛を理解した。群れを守るために勇猛に戦ったが,いたずらに群れの外のものを傷つけることはせず,時には施しを与えた。
この大天使にとって,「二次的生命」に主のことばを伝えるのはエステスが二度目であった。
一度目は人間に生み出されたプティという名のクローン・イルカだった。彼女は,高い知能を有する生物のクローン特有にしばしばみられる不安定さを抱えていた。自己と他者を区別できるメリダは,自分が何処から来て,何処へ行くのか疑問に思っていた。そんな彼女にジブリルは寄り添った。仲間内で言語を学ぶ機会のなかったプティには彼らに共通の(無論,海域によって別の言語や方言は存在する)言語体系を持たなかったが,ジブリルの教えにより彼女は独自の言語を習得した。
彼女は自分が自分とは違う存在,ヒレがなく,個体によって色が違い,地面に垂直に立っている生物が自分を生み出し,観察していることを理解した。ひょっとするとプティならば,彼女はイルカから人間への臓器移植を研究するためのモルモットであると理解できたかもしれないが,ジブリルはそれを終ぞ伝えなかった。プティは,目の前の存在とは異なるカテゴリに属するだろう自分には,同じカテゴリに属するもの,つまり彼女の同類が存在するだろうことを推測した。
今際の際に,彼女は「寂しい」とジブリルに言った。それは,ジブリルとの別れを惜しんでか,孤独な今世を嘆いてか。ジブリルは彼女の思考を読み取ることもできたが,そうはしなかった。「寂しい」といったプティの最期の顔は晴れやかだった。
この時からジブリルは,二次的生命に魅せられた。それは自分自身が主の被造物であるという感覚からくる共感だったのかもしれない。作られた存在の不安定なアイデンティティに触れることは,ジブリルに対して壮大な詩篇と同じくらいの満足感を与えた。
その意味において,エステスは特殊だった。彼も確かに被造物特有の不安定さを抱えていたが,興味深いことに彼は自らそれを受け入れていた。普通のアンドロイド達は自分たちが
エステスはいま,
巨大な砂嵐の小康は,息が詰まるような一面の赤い世界を幻想的なものに変えている。新フランクフルトを覆い隠す土壁のような砂嵐の内側には,青白いビルディングが林立し,黄金色の太陽の光は千々にわかれて住人たちをあたためる。ところが遠雷がビルディングを照らして揺らめかせると,あっという間に土壁は身を隠そうとする太陽を助けるように大きく巻き上がり,最後の光の粒もやがて街に消えていった。
「動物園か,いったい何時ぶりだろう」ルークはうれしそうに言ったが,年甲斐もなく遠足に心躍る自分自身を顧みて,緩んだ頬を仏頂面に戻した。「十数年ぶりの気がする」
「記録を調べればわかること......いや,そんなのは些細なことか」エステスは童心にかえったように無邪気なルークにつられて跳ねるように,フランクフルト動物園に入園した。
「さて,何をみるかね,何から見るかね,やはりライオンか,いや,あえて爬虫類......」捲し立てるルークにエステスは「ペンギンもいいぞ」と応じた。
「なるほど,ペンギンもいいな。今回はエキゾタリウム*から回るか」
結局彼らはその手前のオカピエリアで足を止め,周辺の哺乳類エリアでライオンやキリン,ゾウ,オオカミに関する談義を延々交わした挙句,お土産ショップでおそろいのオオカミTシャツを購入してそのまま帰ってしまった。彼らがエキゾタリウムに行ってイルカを見ることなく退園したのは,導きによる結果だったのだろうか。
エキゾタリウム*: フランクフルト動物園に設けられた水族館・爬虫類館エリア
連載期間中は各話末に脚注をつけております。
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