紀元 V

 現在時速 250km で走行しているタマゴ型モービルの外の様子が座席裏のモニタに映し出されている。エステスは右側の座席にどっかりとリラックスして座った。


「あの辺りは確か『ゲーテハウス・ビル』だったか。MSC469331s7Rは最近中心街のプールに来ないな。ひょっとして家で機能停止しているんじゃないだろうか」文化的遺構の名を冠する最新ビルディングを見て,エステスはアドレス帳とデータバンクを開いた。

「ゲーテといえば,僕はウェルテルが好きだね。人間の愛というものは僕には理解できないが,愛の,それも横恋慕のようにそれ自体が罪作りな愛の,エネルギーは,人間にああいう文章を書かせるんだ。僕は常々人間の愛の種類について興味深く思っているんだ」エステスは仄暗い常夜灯の周りを飛ぶ一羽のパピヨンを目で追うように天井に視線を合わせて言った。


「僕のアンジーに対する憧憬は――」言葉を切ってルークを一瞥すると,エステスは続けた。「彼の,ウェルテルの,あるいは人間のそういった感情とは根本的に違うんだろうね」


「そうだろうな。俺たちは他者に好感を持つように造られている」ルークは背もたれに後ろから寄りかかって立ち,ため息交じりに答えた。


「いったいどういうシステムなんだろうな。ふつう,アンドロイドが人間の女を好きになることは無い。見た目は変わらないし,普通に話している分には区別なんてつかないのにさ。むしろ本物の人間のほうがいろいろとお得じゃないか」

「仕様書に記載されていないことを考えるんじゃない。MSに消されても俺は知らん」


 ルークの鋭い視線とかち合ったエステスの目線はすぐに逸らされ,また天井に戻った。

「MSエステスとウィンストン・スミス,語呂は似ているね」エステスの目元にしわが寄った。「どちらにせよ僕の行く先は真っ暗なのかな?」

 エステスは体を大きく左に捻り,呆れた表情のルークに向かってにこやかな表情を作った。その時には既に電車は減速し始めていた。




 ノイエ|ヴィーンの街は,新フランクフルトの街に比べると小さいビルディング――とはいっても地上三十階建てを超える――が多い。エステスとルークは駅前でひときわ目立つタワー,MSセンタービルに入った。


「ご予約のMSR1785490T様ですね。こちらへどうぞ。――あら929。用がないなら帰りなさい」MSS652350CEもといサラは白い目でエステスを睨みつけた。

「おかしいな,アンジーは接客はちゃんとしてくれるんだけど……。僕は君をそんなに怒らせたかな」

「別に怒ってないけど」カレンは言う。「仕事の邪魔」


 エステスは助けを求めてルークを探したが,ルークは自身が予約してあげたおかげで待ち時間なしに診察室に行ってしまったことに気付いた。いたたまれなくなって,彼は待合室のソファに行儀よく腰を下ろすと『関節駆動異常Q&A』というつまらなそうな冊子を手に取ってパラパラと眺めた。「最近泳ぐときに左腕の関節がギシギシいうからなあ」などと感想を述べるとき,彼は脳内で自動的にポップアップしたデータバンク版『関節駆動異常Q&A』のウィンドウを削除した。


「そんなの読んでどうするの,そんなもの私たちにはインプットされているでしょう」冷却装置の異常でスチームが止まらなくなってしまったMI保守点検ロボットの接客を終えたサラがエステスのもとにやってきて,まるでエステスが新聞を逆さにして読んでいる子供であるかのように,彼のことを面白がって尋ねた。


「データバンクに記録されていることを自分たちに『インプットされている』と言っていいものか......甚だ疑問だね」エステスはサラに魅力的なスマイルとともにそう返した。

「いいじゃない,いつでも必要な情報を引き出せるのだから,それは人間の脳と同じよ」サラはアンジーより少しダークなブロンドヘアーに隠された形のいい頭を人差し指でつついて言った。「その本の内容ならデータバンクにあるんだから,一言一句間違えず言えるでしょう?」


「それはそうかもしれませんがね......」エステスは目を細めてテーブル下の,今は珍しい紙製冊子に目をやった。「そこにがなければ,それらの情報は本当に僕たちのものマイ・オウンとは言えないのですよ」


「アンネ・フランクやジュディス・S・ニューマンの『体験』は,データバンク内の文書として常時アクセス可能であるだけでは,我々にとっては単なる記録でしかない。読んだことないだろう。一度くらいアクセスしたことはあるかもしれないけど」エステスは肘を腿に置き,身をかがめた。その姿には,データバンクの文字情報が彼にとってなにがしかの重要な『経験』に変わったことがよくあらわれている。


「私には――」何かを言いかけてサラは口を開けたままエステスから目をそらした。その様子を見たエステスは,「そういえば,プールで,ああ,僕の行きつけのプールさ,そこで面白い体験をしたんだが,興味ないかい?」と問いかけた。




紀元編 完


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