紀元 lV

「飛んだ?」ルークは素っ頓狂な声を上げた。その声は犯罪者が高飛びしたことをその知人に聞かされた刑事の痛恨の念のこもった叫びに似たものがあった。それに対してエステスは「ああ」と平然と答えた。


「おま,いや,まあ,そんなこともあるかもしれねぇ」ルークは納得した。


「普通はそんなことないのは間違いないんだけど,あ,駅のホームについたよ」


 二人は福音協会(こちらは最新のビルディング)正面のストップで電車を待つ。電車のストップは,電子モニタなどの技術は使われているものの,人間が滅ぶ100年ほど前からほとんど変化していない,やや旧時代感を抱かせるものだった。


「飛んだっていうのは,スーパーマンのようにか?それともイカロスのようにか?」

「いや,ブレストストロークで」

「おーん」

 ルークはエステスを抉るような疑いの目で見つめた。


「いや,夢ではないよ。君だって我々駆動体が夢を見ないことぐらい知っているはずだ」

「だが文筆家の7611,ライターネームはたしかディアンだったか,が言っていたことには,タスク終了時にタスクの振り返りを30秒程度で行うようオートメーションにプログラムしておくと,作業効率が103パーセントに増加するというぞ」

「それは夢というよりタスクマネジメントだと思うけどな。おっと,電車がきたようだ」


 電車は,真空の筒の中を飛ぶタマゴという表現が最も適切といえる珍妙な形をしていた。2230年代に敏捷机器クイックモービルが開発したそれは,時速800kmを実現しつつ従来のリニアモーターカーよりエネルギー消費を90%も削減した小型旅客輸送機である。究極の流線型はほぼ真空を維持している管の中を摩擦から解放されて駆け抜ける。

 タマゴの殻に四角く切れ込みが入ると,中に通じる扉が開いた。


「なあ,これから行くのは修理センターだろ,レンタルポッドのほうが小回り効くし早かったんじゃ……」ルークが問うと,「いや,一回乗ってみたかったんだよ。それにいま予約すれば修理センターで待つ時間は減るんだからいいじゃないか」とエステスは暢気に答えた。

 これから無音の空間を駆け抜ける乳白色のタマゴを,エステスはまじまじと見つめ,ぬらりと光るボディを指でつんつんと触り,小麦色の人工皮膚でごしごしと撫でた。エステスは海やプールにやってくる人間の子供たちを相手する(と同時にその隣の母親をうっとりさせ,父親に怪訝な表情をさせる)役割を担うライフセービング・アンドロイドであるから,子供目線の,言い換えればやや子供っぽい性格の思考パターンが設定されていた。それゆえに,ファンシーな豪華客船で紳士淑女を相手に接客するシェフ・アンドロイドのルークにとってエステスは一回り下の若い青年という印象だった。

 しかし,フランクフルト大聖堂前で起こった先程の現象を経て,ルークの中でエステスの印象は大きく変わったのである。そもそも,何かが「変わる」ということそのものが彼らにとっては非常に新鮮,それこそ人間が消えてからはほとんど体験しない事象だった。


「外側はホワイト・ポーラス多孔質カーボンが主成分の皇室素材だけど,内側は今では珍しい人工コットンのマットでおおわれているんだねえ」エステスは興味深そうに高級感のあるダークヴァイオレットのシートを確かめた。

 エステスは昔から好奇心旺盛だった。それは,初めての海で興奮した子どもたちを相手したり親とはぐれて不安な迷子をなだめたりするときに役に立ったものだ。




「うわぁ,うみだ!」

「気を付けるんだよ。遠くに行くと波が強くなるからね」

「うん,いってくるー」


 2213年7月,地球,ギリシア,ミコノス島のビーチに配属されたMSA109290Eは,エメラルドグリーンの海に良く映えるブロンドヘアーと小麦色の身体,眩しい笑顔を惜しげもなく披露していた。


「君も海の近くにいくといいよ。今日は気温が高いから,海の水は冷たくて気持ちいいはずだ!」MSA109290Eは,「LIFE SAVING」と書かれたワッペンの目立つオレンジのキャップを片手に持って日差しを遮りつつ,ビーチに来てからずっと砂浜で俯いている少女に声をかけた。


「ううん,海は波が怖いからいい」そう少女は人のよさそうな青年に返事をすると,「ビーチの砂は普通の砂より白くてきれいだね」とうれしそうに言った。


 MSA109290Eは子ども用浮き輪の無料レンタルがそこから50メートルのビーチサイドショップで行われているなどと事務的なことを伝えたうえで,「海の砂はどうして白くてきれいだかしっているかな?」と少女に問うた。彼女は少し考えこんで,

「海の水で洗われているから」と答えた。


「ふむ,遠からず,といったところかなあ。80点!」とMSA109290Eは答えた。少女に目線を合わせようと膝を曲げていた彼は砂浜に腰を下ろし,サブ・アイサイトを起動した。


「ビーチの砂は大きく分けると二種類に分けられるんだ。一つは普通の砂と同じ鉱石。もう一つは……なんだと思う?」

「うーん」

「じゃあヒント,そこに白いものが落ちてるね。なにかな?」

「あ,貝がら。正解は貝がら?」

「その通り!海の水で現れた貝がらは,割れて小さくなって,白い砂浜の一部になるんだよ」


 脳内で形式的に開かれた様々な検索結果,例えばビーチの砂の主成分を調査したデータや,火成岩の風化速度に関する査読済み論文などから大半の情報を捨象して子どもが理解できるように伝えるのは,汎用的な言語操作能力しか与えられていないMSA109290Eにとって難しい作業だった。彼と同型のアンドロイドは,人間から状況を聞き出すことと,人間の子どもをなだめることさえできればよかった。




「多孔質カーボンは,ウズラの卵殻のバイオインフォメーション生命情報をもとに作られたんだったな,ルーク」

「ルーク……は俺のことだったな。俺は奥に座る。――エステスは手前に座るんだ」

「ああ,わかった」


 タマゴは真空空間となった駅を飛び立った。

 

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