愛(エロース)lV

 マイン川を渡った先,ゴルトシュタイン通りでポッドを降りたころには乗り合いポッドの乗客はすっかり入れ替わって買い物帰りの家族連れが増えていた。サービス・アンドロイドの職場となる事務所の多いマイン川以南で家族の体をとって同居するアンドロイドが増えるのは当然のことである。

 「さて,本屋でも行くか」エステスは独り言ちた。この通りはエステスの自宅と彼の働く市民プールがあり,300年以上住み続けた彼にとっては庭のようなものである。中でも彼のお気に入りの場所はブーフ・フランクフルト・アム・マイン(BFAM)という書店だった。この書店は新フランクフルトの中で最も大きな書店のひとつで,エステスがいったことのある書店の中では新ベルリンのドスマンに次ぐ規模だった。まるで百貨店のように華やかなドスマンに比べると,古書や専門書,海外書のラインナップが厚いBFAMは渋い印象で,エステスは後者をより好ましく思っている。


 店内は閑散としていた。一階の文具エリア,二階の絵本・児童書エリアは家族連れのおかげで辛うじて人間がいた頃の賑わいを保っていたが,それ以外は誰もいなかった。「寂しいものだ」とエステスは古書エリアの本の背が生み出す鮮やかなモザイクアートを眺めながら思った。現存する本の内容はほぼすべてテキストデータとしてデータバンクに集積されているためわざわざ紙の本を読む必要もないし,便利机器社の電子端末で読む必要さえもなかった。ウィンドウを開けば頭の中に目的の書籍のすべての情報を取得できるのだから。唯一,親アンドロイドが子アンドロイドに読み聞かせをするときに,伝統的な文化を重んじる家庭が「子供の教育には紙の本がいい」という方針に則って紙の本や新聞を与えるくらいである。

 対してエステスはよく紙の本を読んだ。それも人間の書いたものだ。人間の文筆家がいなくなって以来,彼らの遺したテキストデータに学んだ執筆補助アンドロイドたち自らが研究者や文筆家となったた。彼らの書くものは総じてよくできていた。3811の推理小説『審判の日』(2514)は人間たちの疑心暗鬼がもたらす悲劇を非常に淡々と,しかしひり付くような緊張感を与える筆致で描写した見事な作品であり,彼はアガサ・クリスティーに並ぶ小説家だと評価されている。501はルポライターとして荒廃した地球に赴き,2530年現在の地球の様子について新聞記事の特集欄で3年にわたって報告し続けた。彼の記事は『時の止まった大地』と題した一冊の本にまとめられ,総閲覧・参照回数は10億回を突破した。しかし,彼らの本は何か物足りなかった。『審判の日』は確かにエステスにとって楽しめるものではあったが,アガサの『そして誰もいなくなった』には遠く及ばないと感じられた。アンドロイド達の論文やルポは人間のそれ(相関と因果の違いすら理解していないこともざら)と違って客観性・論理性ともに完璧ではあるのだが,読んでおもしろいものではなかった。


 彼が初めて読んだのはシェイクスピアの『真夏の夜の夢』だった。海でアルバイトしているとき,日に焼けた白髪の老人がサーフボードを脇に抱えて929にこのように問いかけた。「夏だな?」これに929は「そうですね。夏はいいものです。ことを感じますね」と答えた。老人はひげの奥でにやりと笑い,「ああ,最高だ。燃え盛っているよ」と929に言った。老人は鍛えられた肉体を太陽に見せつけるかのように胸を張り,二人の前を横切ろうとして一瞬目を彼らのほうに向けた美しい人間の女性にめくばせをした。女性の視界に老人は入っておらず,その隣の最高にハンサムな929に笑顔を振りまいた。「あの娘はオちたな」老人は見当はずれなことをいったが,929は「さすがですね」と嬉しそうにしている老人を気落ちさせないように言った。老人は「俺はまだまだ現役だぞう」と上機嫌で海に向かって歩いて行った。

 一時間ほど経って,サーフィンを終えた老人が戻ってきた。「ビーチチェアを借りられるかね」と問う彼を929は両隣が男性のビーチチェアへと誘導した。老人はあからさまに不機嫌そうな顔をしたが黙って従った。老人はどっかりとビーチチェアに座ると,前方でビーチバレーをして楽しむ女性たちを眺めながら「お前たちは本を読むのか?」と尋ねた。929は「いいえ。私たちはデータバンクと接続しているので,すべての本の内容が頭の中に入っていますから」と答えた。「そうか......」老人は楽しそうにビーチバレーに興じる若者たちを真剣な眼差しで見つめながらうめき声のようにそう言った。左側の女性たちが右側のチームとの差を2点広げた頃,老人は思い出したように「本は,ちゃんと,紙の本で,読んだほうがいい」と言った。「テキストデータのインポートだけでは読んだことにはならないということであれば――」「いや」929のことばを老人は遮った。「今の時代,紙の本を読むやつなどよっぽどの偏屈か頭のいい学者くらいのもんだ,だからばれない」「......というと?」老人は929を見上げた。「だれも紙の本を読んでえっちなことを妄想しているとは思うまい」「......」929の開いた口はもう二度と塞がらないのではないかと思われた。「俺は外ではこんなんだが,家では,カミさんに気を使っている。だから,シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を読む。あれにはな,妖精がたくさん出てくる。とびきり美人のな。俺にとっては人間よりも妖精のほうが......いろいろと都合がよくてな。だから『真夏の夜の夢』なんだ。あれは最高にイイ」老人は遠くでビーチバレーをする女性たちから手前にやってきた女性に観察対象を変え,それきり何も言わなくなった。

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