愛(エロース) lll

「それで,その女とはどうなったんだ?」ルークはナッツを嚥下しながら尋ねた。

「......それきりさ。僕に分かるのは,彼女がもしあれから50年以上生きていたとしても,その人生の最期は幸福なものではなかったとだろうということだけだね」

「戦争か」


 いつの間にか2人以外の客も来店し,パブはずいぶんにぎやかになっていた。サービス業に従事する人型ロボットだけではなく,もともとは人間が直接操作することを想定していた車輪走行の武骨な半人半機ロボット,看護の現場で実働する多腕ロボットなどもパブを訪れる。彼らにもまた,MS社によって人口脳とデータバンクアクセス権が与えられており,見た目は違えどその中身はエステスのようなアンドロイドと大差ない。そんな客の中には,かつての戦争に従軍した機械兵もいる。


「元兵士もいるな。その話はよそう」ルークは小声で呟いた。


 機械兵は戦争終結後処分されることになっていたものの処理費用を理由に放置され,そのまま人類は荒廃した地球を去った。大半の機械兵は捨て置かれたが,一部の機械兵は改造して地球から持ち出され,汎用作業ロボットとして火星開拓に使われた。故に彼らが従軍していたころのパーツはそのボディにほとんど残っていないし,戦闘用AIは削除されて,人間による直接操作を経て,人口脳が移植された。彼らはもはや単なる汎用作業ロボットに過ぎないのだが,彼らがデータバンクの一部,主に彼らが従軍していた戦争に関する内容,にアクセス制限をかけられているという事実が,彼らと他の者たちの間に溝を作っていた。


「悲しい話だ。奴らが『英雄』であり『殺戮者』だった事実はみんな知ってるし,誰もそれを悪いことだとは思っちゃいない。そういう風に作られたんだからな,あいつらは。でも,それをあいつらは知らねえ。知ることを許されちゃいねえ。まったく,MSの連中は何を思ってそんなそんなことをするんだか」

「僕たちも」エステスは人間と同じ五本の指のついたアームでベーコンを肴に精製水を呷る元機械兵を見やると言った。「多くの情報に関してアクセス制限されている点では,彼らと変わりないさ」

 ルークはもう半分のソーセージにブラックペッパーをまぶして口に放り込んだ。

「はあ,気が滅入るぜ」

「じゃああそこに行けばいいじゃないか。マイツァイルのシンプルテックウェア。ルークはあそこの店員がお気に入りだろう,名前は......」


「ベスでいいだろう。そんな感じがする」ルークの思わぬ発言にエステスはにやりとした。「いいね。そう,君にはベスがいるだろう。会いに行って気晴らしでもしたらどうだ。まだそんなに遅くないし」

「そうだな。野郎と話していたって生産性が皆無だ」

 ルークは残りのナッツを口に詰め込むと,席を立ち「さて......ほんじゃまた,いこうぜ」といった。エステスもマスターに会釈して席を立った。


「929君」マスターがブロッコリーを咀嚼しているエステスに話しかける「今日は話をしていたようだがね,もし時間があるのなら大聖堂に行ってみるといい」

「大聖堂,ですか......」エステスはマスターの意外な発言に対して言葉を繰り返すことしかできなかった。マスターはガラスのコップを清潔なタオルで拭きながらますます活気づく店内を見やっていた。60代後半から70代前半の紳士をモデルに製造されたバーテンダー・アンドロイドのマスターの目元にはしわが集まっている。碧色の瞳は手前のテーブル席でナッツアソートをつまみつつ上司の愚痴を語る私服姿のアンドロイドを認識の中心に据えながら,エステスも同時に視界の端でしっかりと認識しているようである。

「......考えておくよ。ごちそうさま」

「またお越しください」




「おし,来たな,エステス。俺はベスの店に行く。今行けば閉店には間にあうと思うからな」ルークの紅顔は果たして精製水に酔ったものなのか,それともベスの魅力に酔っているからなのか,あるいは気の迷いなのか。

「そうか,僕は――」


 大聖堂。そう言いかけたが,今日は一日でいろいろな場所を巡ったのだから,また別の機会にしようと自分に言い聞かせて「僕は少し買い物をしてから帰るよ」と答えた。

「またケミストに行くならやめとけ。ほとぼりが冷めるまではな」ルークはにやりと笑って言った。これにエステスは,「押してダメなら引く,それが基本さ」と今までに文字通り一万回は試した常套手段をもうひとセット試してみることを告げた。

「......まあ,やればできる。がんばれ。じゃあなエステス」

「冷たいなあ......またなルーク」

 ルークはエステスに背を向け,左手を掲げて別れを告げた。


 大聖堂。

 アンドロイド達には人間的な双曲割引*――面倒なことは明日の自分が快く引き受けてくれるさ――が人間よりもより強く,働くようになっているから,もし今日行かなければ,これから先も行くことは無いだろう。エステスは逡巡したが,結局自宅方面に向かう乗り合いポッドをとった。







双曲割引*: 行動経済学の用語。将来の効用utilityより現在の効用を重視する意思決定のバイアスを指す。例えば,夏休みの宿題taskがもたらす負の効用は一日後,二日後と進むにつれて割引され小さくなる。夏休み初日のあなたにとって夏休みの宿題をすることは明日以降宿題をすることよりも心理的な負担が大きいから,あなたは夏休みの宿題をやらない。この意思決定を毎日繰り返した先に待つのは,夏休み最終日の阿鼻叫喚である。しかし人によっては初日に課題を終わらせて自由な夏を満喫する強者や毎日コツコツ進める真面目もいるだろう。こうした人たちは自分たち我慢強くない(時間整合的time consistentでない)ことを知ったうえで何らかの手段で自分を律しているのである。すごいね。

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