第15話 新たなる鬼神、鬼子医神。

 手術室は修羅場と化していた。

 

 

 

 人体に繋ぐ電極ケーブルはずたずたに引き千切られ、あらゆる電子計器は破壊されて床に散乱していた。

 そして逃げ遅れた研究員たちは部屋の隅に集まって子羊のように怯えている。

 

 

 

(――咲姫ちゃん、咲姫ちゃん。私の話を聞いてっ)




「イヤだイヤだイヤだ。できない相談だっ」




 部屋中央のベッドの上でガウン姿で髪をかきむしるのは鬼立咲姫。

 体内にいる新たな宿主の長良希美と問答しているのだ。

 

 

 

「なぜ私が薬師寺英子の言うことを聞かなくてはならないのだ。納得できないっ」




(――お願い。咲姫ちゃん。鬼神が迫ってるの)




「だとしても無理なものは無理だ。

 私はなにも薬師寺英子をただ嫌悪しているからだけではない。

 これには理由がある。貴様の身体ではまだ無理なのだ。

 ……ぐぅ。ぐああああああああああっ」

 

 

 

 咲姫は両の手で胸を抱きしめて痙攣を起こす。

 心と身体が拒否反応を起こしているのだ。

 

 

 

(――さ、咲姫ちゃんっ!)




「だ、大丈夫だ。ただ貴様の身体とうまく同期ができないのだ」




 長い年月を剛と言うたったひとりの人間と同化していた鬼立咲姫はならではの苦悩であった。

 あまりにも剛とのシンクロに特化してしまったために、他人の身体ではうまく操れないのである。

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

「咲姫っー!」




 剛が現れた。

 膝下まで水に浸かりながらジャブジャブと水音をたてて手術室に入って来たのだ。

 

 

 

「待ちかねたぞ」




 鬼立咲姫に笑顔が浮かぶ。

 そして(――剛っ)と希美も驚きの声を上げたが、宿主として日の浅い希美には体内に身があるときにまだ外部に声を出すことが出来ない。

 

 

 

「咲姫っ。鬼子爬神が現れた。早く俺と同化するんだ」




 そして水音を立てながら歩み寄り手を伸ばす剛と、ベッドの上からうまく身体を操れないながらも手を伸ばす咲姫の指先同士が触れ合うその瞬間だった。

 

 

 

「あっ」




 と言う声ととともバシャンと派手な水音が室内に響く。

 咲姫がバランスを崩してベッドから落ちたのだ。やはり身体の制御がうまくできないようである。

 

 

 

「咲姫。大丈夫か?」




「ああ、それよりも早く私と接触して希美の身体から貴様の身体に……」




 剛がそれに応えようとしたときだった。

 

 

 

「そうはいかないンだよ」




 薬師寺英子だった。

 英子は背後から剛を羽交い締めにして動きを止めさせたのだ。

 

 

 

「薬師寺っ。貴様……」




 咲姫は動きを止めた。

 今、剛は英子と身体を密着させている。つまり剛は防磁ジャケットの影響下にあるのだ。

 

 

 

 それもただの防磁グッズではない。軍用のそれは絶対の防磁性を誇るからである。

 つまり今、剛と肌を触れあっても同化できない。

 触れあった瞬間、そこには通常の空間があることで咲姫の身体は希美へと変わってしまうからである。

 

 

 

 英子はそのために防磁ジャケットを着込んだのだ。

 悔しいが先の先を読む頭のよい女性だと剛は思った。

 

 

 

「まあ、聞きな。

 なにもアタシはおめえさんたちの仲を永久に引き裂こうって訳じゃないンだ。

 ある条件さえ飲んでくれたら、未来永劫同化したままで構わないンだ」

 

 

 

「貴様の考えることだ。私たちに貴様の指揮下に入れと言うのだろうっ?」




 全身ずぶ濡れのまま咲姫は英子を睨みつける。

 

 

 

「ああ、そうさ。

 その代わりに今までのことは一切不問。そしてこれからのこともアタシが責任を取る。

 悪い話じゃねえだろうが?」

 

 

 

「貴様は私たちを首に縄をつけた飼い犬にするつもりか? 断固断る」




 咲姫が吠える。 

 だがそれに剛が口を挟む。ふいに考えが浮かんだのだ。

 

 

 

「咲姫。もう今まで通りはできないんだ。

 俺たちの正体はバレてしまったし、この条件を受け入れるしか他に方法がないと思う。

 うん。俺は少なくと悪い話ではないと思う」

 

 

 

「馬鹿な……。この話は私たちに益がなく不利益しかない話だ。薬師寺英子だけが得をする話ではないか」




「そうじゃない。……たぶんだけど薬師寺さんにもデメリットはある」




「どんなデメリットだ」




「俺たちが失敗すれば、それは薬師寺司令官の責任だ。

 それにたぶんだけど、俺たちを配下に入れるってのは薬師寺さんの独断だと思う。

 鬼神を配下に入れましたなんて上層部にバレたらクビになるとかなんじゃないか? 

 そうですよね?」

 

 

 

 言葉の最後は背後の英子に向けられたものだ。

 英子は剛を解放した。

 

 

 

「ああ、そうさ。

 ……やっぱりお前さんは理解が早いね。

 つまりはアタシがすべての責任を取る形で天下御免で暴れられるって話さ」

 

 

 

「……少し考えさせて欲しい」




 咲姫はベッドに腰を下ろす。

 だが時間がそれを許さなかった。

 

 

 

『司令。最終防衛戦が突破されそうです。もう敵は鬼神ルーム手前まで――』

 悲痛な緊急連絡が入ったからである。

 

 

 

「咲姫っ。考えてる時間なんてないってっ! 

 長年連れ添った相棒の言葉だ。頼むから同化してくれっ!」

 

 

 

 

 それは咲姫の弱点だった。

 咲姫はこの言葉に弱い。無論、剛はそれを計算に入れている。

 

 

 

「むう。……わ、わかった。改めて貴様と契約しよう」




 剛と咲姫の指先が触れる。

 すると空間がぐにゃりと歪み、次の瞬間にはその場にいるのは鬼立咲姫と長良希美となった。

 咲姫が剛に転移したのだ。

 

 

 

 だがそこで希美がくたっと倒れる。

 意識を失ったのだ。慌てて咲姫が抱き留めようとするが、それよりも早く英子が受け止めていた。

 

 

 

「お前さんたちは別の任務があるだろう?」




 英子は任務という言葉に力を込めた。

 そして言う。

 

 

 

「鬼立咲姫。必ず勝って来い。そして帰って来い」




 咲姫は頷いた。

 そして瞬く間に鬼子姫神に姿を変えると、膝まで浸かった水の飛沫を天井まで跳ね上げる程に疾駆して手術室を後にする。

 

 

 

 残された英子はベッドに希美を横たえた。

 そして防磁ジャケットを脱ぎ始めた。そして未だ震えている研究員たちに告げる。

 

 

 

「お前たちはちょっと外してくれ。

 この子は慣れない身なのに鬼神を取り込み、そして放出させた。

 そうとう体力を消耗しているから、ちょっと荒療治が必要なンだ」

 

 

 

 最後の研究員が手術室を去りドアが閉まった。

 

 

 

「久しぶりに登場願うよ。頼むから今日は出てきておくれ。相棒」




 すると英子は苦悶の表情を浮かべた。

 体内の芯からマグマのような熱源が産まれたからだ。

 足下の水が蒸発し、辺りはもうもうたる水蒸気に包まれる。

 

 

 

 それは英子が身に宿す鬼神の出現だった。

 英子が強度の地磁場現象下でも防磁を必要としない理由。

 それは英子自身も体内に鬼神を宿しているからであった。

 

 

  

 ザバババババーンッと水音が破裂した。

 膝上まで浸水した通路の赤い非常灯の中を鬼子姫神は疾駆しているのだ。

 

 

 

 あまりの勢いに床の水は爆発したかのように天井まで弾け飛び、後方は霧の猛煙となっていた。

 水を割るその姿、神話のモーゼのごとく。

 

 

 

(――ねえ、咲姫。

 この際だから訊きたいんだけど、どうしてそこまで薬師寺さんを嫌うのかな? 

 やっぱり鬼神の強敵だから?)




 剛は姫神に尋ねた。

 

 

 

「……それもある」




(――それも、ってことはそれ以外もあるってことだよね?)




「うむ。私はなによりもあの女の卑怯さが嫌いなのだ」




(――卑怯? さっきみたいに俺を人質に取るような真似をすることか?)




「いや、違う。あれは駆け引きの範疇だ。

 私が嫌うのはいつの戦いでも、ひとりで真っ先に逃げているに違いないことだ」

 

 

 

(――ひとりで逃げる?)




「ああ。幾たび戦ってもあの女はいつも無傷だ。

 怪我ひとつしてないと言うことはそういうことだろう。

 ……実際に目撃した訳ではないが」

 

 

 

(……そうかもしれない。そういえば確かにはいつも無傷だね)




「うむ。毎回あれだけの戦闘なのだ。部下たちは多かれ少なかれ怪我をしている。

 だからすんでのところでひとりで真っ先に逃走しているは間違いない」

 

 

 

(――なるほどね。それだったら確かに卑怯かも。

 ……それはそうと。あのさ、道順はわかるのか?)

 

 

 

 水煙を蹴立てて狭い通路をただ真っ直ぐに爆走しているように見えるからだ。

 

 

 

「鬼神ルームへの道順のことか?」




(――そう)




「これだけヤツの気配が感じられるのだ。それをたどれば容易に行き着く」




 その言葉に偽りはないようであった。

 複雑に張り巡らされた通路を右に左に迷いもなく鬼子姫神は走って行く。

 

 

 吹き抜けに出ると跳躍し、一気に三階まで飛び上がった。

 ここには水はなく着地した際に通学革靴のカツンとした乾いた音が響く。

 

 

 

 そしてぴたりと足を止める。

 コンクリート製で高さ横幅三メートル程のトンネル状の通路の入り口である。

 この奥が鬼神ルームであった。

 

 

 

(――いるね)




「ああ。いる」




 剛と姫神は濃厚な気配を察知したのだ。

 ヤクシャ程度の弱い存在感ではない。間違いなく鬼神のものだ。

 

 

 

 通路は奥に向かって真っ直ぐ一本道に伸びていた。

 明滅する赤い非常灯は弱々しく、深部は闇になっている。

 この奥に強敵が待ちかまえているのは間違いない。 

 

 

 

 姫神は、今度は先ほどとはうって変わって一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと進む。

 カツカツとした靴音が狭い空間にこだました。

 

 

 

 そのときだった。

 タタタタタタッと、音がした。射撃音だ。

 

 

 

「馬鹿なっ!」




 鬼子姫神は瞬時にのけぞり弾着を躱す。

 上体のわずか数ミリ先をズザザザザッと無数のセラミック弾が通過した。

 

 

 

「どういうことだ?」




(――わかんないけど、この展開はやばい)




 咲姫の問いに剛が答える。

 今のはかなり正確な射撃だった。

 おそらくよく訓練された五人以上の武装した人間が特殊エアガンを一斉にぶっ放して来たのだ。

 

 

 

 通路壁のコンクリートに次々と跳弾が当たり、破片がばらばらと雨のように降り注ぐ。

 その欠片と煙で視界が奪われる。

 

 

 

 通常であれば秒間二百発の極光のバルカン砲をも避けられる鬼子姫神には、この程度の攻撃は通用しない。

 だがこの空間では条件が悪い。狭すぎるのだ。

 

 

 

(――来るっ!)




「承知っ」




 ズザザザザッ! と第二射が来た。

 姫神はクッと唸ると床を蹴り飛び上がった。

 そしてその真下を、またもやセラミック弾丸が通過する。

 

 

 

 姫神は戸惑う。相手は人間だ。間違いなくこの基地の武装隊員に違いない。

 だとしたら、敵ではなくて味方ではないのか?

 

 

 

「どうして私を狙うのだ。もしや……、これは薬師寺英子の策略か?」




(――ま、まさか?

 今、鬼子爬神を止められるのは咲姫しかいないんだし、たぶん連絡が来てないだけだとか思うけど)

 

 

 

 続いて第三射、第四射と連続して攻撃が続く。

 その度に鬼子姫神は、腕を足を軸にして、ひらりひらりと身を躱す。

 が、このままではさすがの姫神でも直撃はまぬがれない。

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

『聞こえるかい? アタシだよ』




 剛は驚く。

 薬師寺英子が剛と咲姫の内なる会話に介入してきたからだ。

 無論、英子の姿はここにはない。

 

 

 

『なぜアタシの声が伝わるかのことは後でわかることだから、今は説明をはぶく――』




「貴様。この攻撃は騙し討ちか? 貴様の部下が私を撃っているのだぞっ」




 姫神は怒りをあらわにして英子の言葉を遮る。

 

 

 

『早とちりしなさンな。交戦中の場所に飛び込んだのはお前さんたちだろうが』




(――交戦中だって?)




「馬鹿な。ここには私しかいないぞ」




 攻撃隊の射撃はすでに第七射を超えていた。

 姫神は英子と会話をしながら射線を避けているのだ。

 まさに神業である。

 

 

 

『んー。今確認した。

 どうやら鬼子爬神の姿を急にロストしてしまったンだ。だからお前さんを爬神と間違えたらしい』

 

 

 

 英子の連絡が届いたらしく守備隊の攻撃は終わり、隊員たちは通路の奥へと姿を消した。

 

 

 

「貴様。同士討ちするところだったのだぞ」




『お前さんなら問題なかろう? その程度の射撃をかわすに造作はないだろうが』




 人を食ったような台詞である。

 だが事実でもある。

 

 

 

『まあ聞きな。

 おそらくだが、ヤッコさんは技術員を宿主にしてその記憶でここまで来たはいいンだけど、その技術員の権限では鬼神ルームに入れないのさ。

 おまけにドアは分厚くてヤッコさん自慢の堅い身体を使っても壊すには相当時間がかかる』

 

 

 

(――だから、この辺りに身を潜めて鬼子爬神は機会を窺っていると?)




『理解が早いね。その通りさ』




 そして剛は姫神の目を通して辺りを窺う。

 この通路は高さ横幅ともに三メートル程のトンネルだ。赤く明滅する非常灯が五メートル置きに等間隔に並んでいるだけである。

 身を隠すところなどあるわけがない。




(……いったいどこに隠れているんだ? ――あ、もしかして……?)




「どうしたのだ?」




 姫神が剛に問う。

 

 

 

(鬼子爬神はワニの姿をしているだろう? 

 だから瓦礫に紛れているとか?

 ワニがうつ伏せになれば背中や尻尾の形は瓦礫とけっこう似ているし)

 

 

 

 言われて鬼子姫神は通路を改めて眺め見る。

 この縦横三メートルほどのトンネル状の通路は激しいセラミック弾の跳弾で破片が山のように床に積もっていたのである。

 姫神はつま先でコンクリート片の瓦礫の小山をコツコツとつつく。

 

 

 

「あり得る話だ」




 そして奥の鬼神ルーム入り口を見て閃いたのである。

 

 

 

「薬師寺っ! 警備員を止めろっ」




『あん? なんだって?』




 鬼神ルームの分厚い扉、それが今開かれようとしていた。

 おそらく英子の指示であろう、警備員たちが室内に戻ろうとしていたのである。

 そして扉はゆっくりと左右に開き始めた。

 

 

 

(――ヤツは、鬼子爬神は、床の瓦礫に紛れて移動しているんだっ)




 剛が叫ぶ。

 そのときだった。

 瓦礫の一部が左右にうねり鬼神ルームに高速移動しているのを発見したのだ。

 ヘビにも見られるあの爬虫類独特のうねり。

 間違いなく鬼子爬神である。

 

 

 

「ちっ!」




 鬼子姫神は舌打ちをすると神域の速さで床を蹴る。

 そして猛然と瓦礫のうねりを追い始めた。

 

 

 

 おそらく英子の緊急指示があったのだろう、内部から警備員のひとりが慌てて扉の閉鎖作業を始めたが、重い扉は閉まるのが遅い。

 

 

 

(――咲姫っ!)




「承知っ! でああああああああああっ」




 姫神は宙に舞う。

 そして弾丸の速さで右腕の爪を繰り出した。

 その距離は十メートル。鬼子爬神の尾を床に縫い付けようとしたのである。

 

 

 

 だがガキンと音がしただけで手応えがない。

 すんでのところで尻尾に逃げられたのだ。

 

 

 

「ちっ!」




 着地して体制を立て直したときは、扉が閉まってしまっていた。

 

 

 

(――薬師寺さん、鬼子爬神が鬼神ルームに逃げ込んだ。扉を開けてくれっ)




『な、なんだって!? 

 ……今確認した。ああ、ちきしょうあの野郎、ここぞとばかりに警備員をなぎ倒して、機材を壊し回っていやがる。頭にくンな。

 ……今そっちに行く』

 

 

 

 英子はコントロールルームから鬼神ルームをモニタしていたようだ。

 

 

 

『いいかい。これからの手順を言う。まず鬼神ルーム内に、ダミー体をいくつか投入した』




(――ダミー体? なんですか、それ)




『水槽が次々壊されてンだ。だからそれに取り憑かせるンだよ』




 英子の説明によると、それはタンパク質をメインに構成されたもので形こそ人間だがまったくの人形で、憑依しても電気を通さなければ鬼神として具現化することも動くこともできない器にすぎない道具のことであるとのことである。

 ついでに言えば、それらは鬼立咲姫の元の身体であったダミー体の廉価版である。

 

 

 

(――ねえ、咲姫。この扉うまい具合に壊せないかな?)




 剛が鬼子姫神に尋ねる。

 だが、

 

 

 

「不可能ではない。しかし現実的には薬師寺を待った方が賢明だ」




 姫神は分厚い強化セラミックス製の扉に手をかけて答える。

 コンクリート片を巻き込んだ空気弾をいくつも連発すれば破壊できなくもないが、ここは湖の地下なのである。 

 下手に壊せば、ここはあっという間に浸水してしまう可能性が高い。

 天井岩盤の堅さに対するさじ加減が専門家ではない姫神にはわからないのだ。

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

(――ま、まさか……?)




「うむ。考えられないが……」




 姫神が急に身構えた。

 

 

 

 不覚。

 

 

 

 背後に迫る新たな鬼神の気配に気がつかなかったのだ。

 その距離はすでに十メートルを切っていた。

 

 

 

 相手がやる気なら一撃必殺でとうに瞬殺されていた距離だ。

 だが相手は無防備にもカツカツと靴音をさせて近づいて来るのである。

 

 

 

「アタシだよ。さすがの鬼子姫神でも気がつかなかったようだね?」




 驚いたことに非常灯の明滅する赤い光の中で浮かんだ姿は薬師寺英子であった。

 

 

 

「どういうことだ? 貴様も……鬼神を宿していたとは?」




 今、英子の全容が明らかになった。

 姿形は元のまま。

 だが銀髪銀眉銀眼のその顔貌はまごうことなく人にあらざる容姿であった。

 

 

 

「アタシの相棒、鬼子医神きしいしんさ」




(――鬼子医神? 聞いたことないな)




 剛もこれまでの戦いや情報収集から、それなりの鬼神の名前は見知っている。

 だがその名は初めて聞くものであった。

 

 

 

「……伝説の鬼神だ。戦いには向かない医術専門の鬼神だ」




 姫神がそう剛に伝えた。

 鬼神は異世界の王である。

 そして互いに覇権を争う運命にあるのだが鬼子医神は例外中の例外で戦う術を知らない。

 

 

 

 その代わりに特化した能力がある。

 それが医療技術だ。

 それも鬼神専門で他の鬼神への医術はもちろん己に対する治療もずば抜けており、ある意味不死身に近い存在であった。

 

 

 

「専門分野はなにも医術だけじゃないンだ。

 一度触れた鬼神に対して会話の盗み聞きができちまう能力も持っている」

 

 

 

 どうりで……。剛は思う。

 先ほど剛と鬼子姫神の会話に介入できた訳だ。 

 剛から鬼子姫神を摘出したのは英子である。その際に姫神に触れたと考えるのはふつうだ。

 

 

 

 他にもある。

 人間が体内に宿した鬼神をスキャンする機械。

 これなども英子の鬼子医神の能力の応用と考えるのが自然である。

 そしてなによりも地磁場現象下で防磁対策なしにいられるのも当然なことであった。

 

 

 

「自らの修復に長けた鬼神。

 それならこれまでの戦いで無傷なのは部下を置いて逃げた訳ではないと言うことだな。

 ……少し貴様を見直すことにしよう」

 

 

 

 姫神はそう答えるが、表情は苦虫を噛み潰したようであった。




 □ □

 

 

 

「ぐあああああああっ」




 悲鳴が上がる。

 完全防備のハイブリッドプロテクターが、いとも簡単に殴りつぶされる。

 こうしてまたひとり、またひとりと隊員たちは失神してしまう。

 

 

 

 鬼神ルーム内はもはや地獄であった。 

 五人いた屈強の武装隊員たちが、ものの十秒もしないうちに全滅させられたのである。

 

 

 

 無論彼らも無抵抗だったわけではない。

 射撃に秀でた者は特殊エアガンを掃射し、体術に長けた者は蹴りや突きを繰り出した。

 だが、まるで歯が立たなかったのである。

 

 

 

 もちろん、相手が鬼神だからである。

 

 

 

 鬼子爬神は瞬殺で彼らを失神させた後、すぐさまに行動を開始した。

 武装隊員たちとの戦闘は予期せぬアクシデントであり、彼らとの戦いは腕にたかった蚊を叩きつぶす程度の作業に過ぎないからだ。

 だから殺していないのは手間の問題であって、間違っても決して慈悲ではない。

 

 

 

「ふるるるるる……」




 爬神は入り口ドアを振り返る。

 外には鬼子姫神がいるはずだが、まだ扉が開かれる気配はない。

 

 

 

 それならばと頑強で長く太い尾を振り回し、次々に水槽を破壊し始めた。

 鬼神ルーム内にガラスが砕ける硬質な音が連続して鳴り響く。




 防護プロテクターすら軽々潰す鬼子爬神の力だ。

 強化ガラスなど薄氷を破るか程度の作業に過ぎない。

 

 

 

 水槽を破壊されたアメーバ状の鬼神たちは、宿主を捜して床を徘徊し始めるが憑依できる存在は失神した武装隊員の五名のみなことから、たちまち押し合いへし合いの肉体争奪が始まった。

 

 

 

 だがどのアメーバ状鬼神も取り憑く前に鬼子爬神の拳で叩き潰されてしまう。

 具現化すれば同等の戦闘力を持つ鬼神同士であるが、この状態では鬼子爬神に勝てるはずがない。

 

 

 

 だが、そのときだった。

 英子が操作したことで壁からダミー体が多数射出されたのである。

 

 

 

 ダミー体は放電するタンパク質から構成された人形なことから、アメーバ状の鬼神たちは今度はそちらに殺到する。

 そしてたちまち憑依できる数が満たされたことから辺りは静寂に包まれた。

 

 

 

 ダミー体の登場は予想外であったが、この状況下、鬼子爬神に動揺はない。

 なぜならば、緊急射出されたダミー体は憑依のみが目的で制作された代物に過ぎないからである。

 それは取り憑いた技術員の知識でわかっていたからだ。

 

 

 

「くふるるるる……」




 爬神は動かぬいくつものダミー体に、その巌のような尾を振るった。

 グシャという肉が潰れる音が響き渡り、取り憑いた鬼神ごと一撃で破壊を終える。

 

 

 

 鬼子爬神は残る最後のひとつの水槽を見てほくそ笑んだ。

 それは真っ黒な墨色のアメーバが静かに脈動しているものだった。

 

 

 

 そして天井を這う太い配水管パイプを見上げるのであった。

 

 

 

 □ □

 

 

 

 扉の外では鬼神ルームのドアを開放する作業は始まっていた。

 中で鬼子爬神が大暴れしたことで施設の電圧が下がったことから非常用のエンジン式発電機が用意されたのだ。

 壁に隠された緊急用電源ソケットが発電機に接続される。

 

 

 

 操作するのはもちろん薬師寺英子、今は鬼子医神である。

 辺りには発電用エンジンのバババという音が反響した。 

 

 

 

「開くのか?」




 姫神が尋ねる。 

 

 

 

「誰に聞いてるンだ?」




 つまり英子は研究のみでなく施設全般をも把握していると言いたいらしい。

 だが、

 

 

 

「ん? なにかおかしいね。なんかが、つっかかってる」




(――なにかって?)




「わかンないね。……鬼神ルーム内側からの強いなにかの圧力でドアが堅くなっているンだよ」




 そのときだった。

 

 

 

「待て。様子がおかしい」




 姫神が耳を澄ましていた。

 内部からグオーッとした地響きのような音が、かすかに漏れ聞こえたのだ。

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

「なっ……!」




(――咲姫っ!)




「な、なんだってンだいっ!」




 扉がゴゴゴといきなり開いたのである。

 そしてその隙間から通路を天井まですべてを飲み込む大量の水が、ゴーッという奔流となって鬼子姫神たちに迫ってきたのだ。

 

 

 

 これが並の人間なら、あっという間に流れに飲み込まれ木の葉のように流されてしまったに違いない。

 だがここにいるのは鬼子姫神と鬼子医神である。

 流されながらもとっさに通路の配管パイプに捕まって難を逃れたのであった。

 

 

 

「ちっ、ヤツの狙いはなんだ?」




 姫神が舌打ちをする。

 鬼子爬神が排水パイプを破壊して水を溢れさせたのを理解したのである。

 

 

 

(――咲姫、あれを見てっ)




 剛の指示で目をこらすと鬼神ルームから黒い墨の川のような流れの固まりが、ものすごい勢いで通過していったのである。

 

 

 

「あれは……確か……?」




 市役所前の通りで見かけ、その後に長良希美に取り憑いたと思われる鬼神である。

 

 

 

 そしてその直後だった。

 爬虫類独特のうねりでそれを追う鬼子爬神の姿を捕らえたからである。

 

 

 

「ぬうっ。逃すか!」




 鬼子姫神が流れに飛び込んだ。

 先頭は黒い墨色の鬼神、次が鬼子爬神、そしてそれを追う鬼子姫神の姿が英子から遠ざかる。

 

 

 

「も、もしかしたらヤツが狙っているのは十年前の再現か! 

 し、しまったっ!!

 ……亜門あもん、聞こえるかいっ?」




 英子は非常電話に取りつくと極光オーロラの機長を呼び出した。

 

 

 

 三階から一階への吹き抜けを大量の水が滝のように流れ落ちる。

 その流れに乗って鬼子姫神は一階に着地した。

 

 

 

「ちっ」




 墨色の鬼神、そして鬼子爬神を見失っていた。

 だが気配は濃厚に漂っている。

 

 

 

「あっちか」




 姫神は迷路のような通路に満ちた水を蹴立てて走り出した。

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