第10話 突如発生した地磁場現象。
バスはスピードを落として、やがて剛たちの目の前で停車した。
だがドアは開かなかった。
「え、どうして? あのー、乗ります乗ります。だから開けてください」
希美が叫んだ。
だが中の運転手はこちらを見ていない。見ているのは進行方向。
そしてその表情は呆然としていた。
「なっ、なんだと。ま、まずいっ」
運転手の視線を追った剛は、そう叫ぶとバスの乗降ドアをガンガンと叩く。
坂道の頂上付近の空が赤く染まっていた。
そしてバチバチと音を鳴らしてプラズマ放電が飛び交っていたのだ。
「早く、全員降りるんだっ。地磁場現象だっ」
剛の剣幕に我を取り戻した運転手がドアを開けた。
その瞬間には剛はもう車内へと一足飛びに踏み込んでいた。
車内はすでに騒然としていた。全員がフロントガラスの向こうに見える異常事態に気がついていたのである。
「希美、いちばん近いシェルターは?」
剛が外にいる希美に叫んだ。
「いちばん近いのはここよりもっと上だからダメ。この道はバスじゃUターンできないよね。
だから麓まで歩いて向かったほうが安全かも」
冷静によどみなく希美が返答する。
まったくパニクっていない。剛は数日前に利発で判断力もいいと咲姫が希美を褒めていたのを思い出す。
希美がいう通り坂道の上は無理である。
そこが地磁場現象発生地点だからだ。
そしてこの道はバスがUターンできるほど広くない。
それに校外の都立高の通学バスに地磁場対策などはまだされていないから暴走の危険もある。
そして麓に降りれば人口が多い。人口が多ければその分だけ避難壕も多くなる。
立て板に水を流すような見事な論理だった。
乗客の湖水見高校生徒たちはパニックになることもなく車外に降り立った。
そして運転手を先頭にゆっくりと麓に向かって歩き始めていた。そして
「剛は逃げないの?」
「うん。もう少し様子を見てから避難する。でも大丈夫だから。俺は絶対に平気なんだ」
「そう。……わかった。気をつけて」
予想外の反応だった。
当然いっしょに逃げない理由を深く尋ねられると思っていたからだ。
だが希美は理由を訊くこともなく剛の意見を受け入れた。
それは剛の視線に嘘いつわりやハッタリのかけらも感じられなかったからだ。
剛がいっしょに逃げないと言った理由はもちろんヤクシャのことだ。
今はまだ姿を現していないがプラズマ放電は数を増している。
そしてなによりもの理由は変身を見せたくないからである。
希美なら黙っていてくれる可能性はあるが運転手を始めとした大勢が口をすべらす可能性は高い。
と言うか大騒ぎになるのは間違いない。
やがて生徒たちは、つづら折りの坂道を下り始めた。
そして最後尾の希美も見えなくなる。
「それにしても、警報がならないね」
山道はしんと静まりかえっていた。本来ならばウーウウーウとしたサイレンが鳴り響くはずである。
(――局地的なものなのだろう。半径百メートル程度ならば装置も作動しない)
「確かに」
それなら安全である。小さな地磁場の乱れなら短時間で消滅する場合がほどんどだからだ。
(――それにしても、いい手際だ)
「なにが?」
(――貴様と希美だ。あの生徒たちは迷える子羊のはずだが迷いがない。
それは貴様たちが冷静沈着に行動したからだ。道標さえしっかり示せば混乱は起こらない)
「へえ。咲姫が俺を褒めるのって珍しいね」
(――貴様は私をなんだと思っているのだ?
私はいいことをした者は誰でも褒める。
今まで私が貴様を褒めていないのなら、それは貴様が褒められるようなことをしていなかったからだ。
これを機会に心を入れ替えるといい)
「なんだか褒められても、ちっとも嬉しくないんだけど。それに咲姫ってなんだか偉そうだ」
(――偉そうで当然だ。私は神のひとりだからな)
「……ま、まあ。間違ってはいないけどね」
鬼子姫神は確かに神のひとりではあるだろう。……だけどだいぶ邪神に近い存在だけどね。
と剛は口には出さずにそう考えた。
(――なにか含みがある言い方だな)
「そ、そんなことはないってば。……えっ?」
剛の言葉は中断された。
「キャーーーーっ」
と、いう悲鳴が下方から聞こえてきたのだ。
「しまったっ」
剛は全力で下り坂道を駆けた。
そしてカーブを二つ曲がったときだった。
前方に紫色のプラズマが飛び交い、その頭上ではスポットライトのように空が一部だけ赤く染まっているのであった。
地磁場現象だった。この先にも局地的な地磁場の乱れが発生していたのだ。
いや、違った。
「迂闊だった。考えてみればこの道は急カーブなんだから……」
(――なるほど、先ほどの坂の上の地磁場現象と、ここは同じ場所なのか)
「そうなんだっ。そういうことなんだっ。……!」
つまり繋がっていたのである。地磁場現象が発生していたのは一箇所だけ。
だが場所の高度が違うだけで坂道の上と下は地図でいえば同じ座標地点だったのだ。
まるで進路も退路も塞ぐかのように地磁場現象が発生していたのであった。
「あ、あれはっ!」
下り坂の路面になにかが落ちていた。
(――希美のものだな)
それは希美の防地磁気グッズだった。
ケモ耳のようだと喜んで頭につけていたカチューシャ型のものだ。
「ま、まずいっ」
剛はそれを拾い上げると再び駆け出す。今の希美は無防備なのだ。地磁場影響下に留まると……、
(――鬼神になってしまうぞ)
「くっ」
カーブをもう一つ曲がった。息はすっかり上がっていたが足を緩めるつもりはなかった。
するとそこに希美の姿があった。
地磁場に巻き込まれて意識を失った他の生徒たちの両脇に腕を入れてを懸命に引きずっているのだ。
おそらく逃げ遅れた生徒をこの局地的地磁場の外へと運ぼうとしているに違いない。
「の、希美っー!」
剛は叫ぶ。すると希美こちらを見た。
その苦しそうな表情は倒れた生徒の重さだけではあるまい。
すでに身体からは鬼神へと変身する際に発生する内臓を焼き尽くすような激しい熱さと痛みが襲っているのは間違いない。
「早くこのグッズを付けないと」
希美の中の鬼神が具現化してしまう。
剛は手の中のヘッドギアを握りしめる。
大気が歪む。磁度が高いのだ。辺りの紫色の放電現象はどんどん数を増している。
「あうぅ……」
悲痛な声を漏らして希美が引きずっていた生徒を手放してしまった。
あまりの熱さと痛みに髪を掻き毟り激しく首を振る。
そしてガクリと身を崩しビクビクと痙攣を起こし始めた。
それは内に秘めた鬼神が現れる前触れだった。
もはや意識は喪失しているに違いない。
「まずいっ」
(――このままでは間に合わないぞ)
そのとき突如、雄叫びが響いた。
「ヴボボオォーンッ……」
最悪だった。辺りにヤクシャが具現化したのだ。
苦しむ希美のわずか先にそのシャボン玉色の身体が浮かび上がる。その数は五体。そして更に増え続けそうな気配だ。
「うっ……」
全力疾走する剛がつんのめる。
走りにくい下り坂でバランスを崩したのだ。
踏み降ろす足が空を切る。身体は俯せ状態で前方に転倒しかける。
そしてアスファルトが眼前に迫った。
このままでは路面に顔面強打するのは間違いない。
「咲姫っー。頼むっ」
(――承知っ)
その瞬間、体内で猛烈な熱が発生した。まるで炎が体内に出現したようである。
「くっ」
まさに顔面が路面と接触するときだった。
アスファルトとの距離が鼻先二センチと言うところでガキンッと音がして、その落下が止まる。
瞬時に具現化した姫神の鋭い爪先が地への接触を止めたのだ。そしてそのまま爪先を支えにして身体が宙に舞う。落下の力を踏み台にしたのだ。
「ってえええええっ」
空気がビリリと震える。
裂帛の気合いと共鳴したのだ。
長い髪が風に翻弄され角に似た尖った耳にまとわりつく。
顎まで伸びたするどい鬼牙。そして両の手には二の腕よりも長いかぎ爪。
――鬼子姫神、降臨。
人間少女姿の鬼立咲姫ではなかった。
咲姫を経ずしていきなり姫神へと変身していたのだ。
そして地に降り立ち寸暇もなく駆けた。
速いっ。まさに神速。
そしてそのままの勢いで倒れている希美の身体を腕で拾い上げた。そして再び地を蹴る。
(――咲姫。早く)
「わかってる」
姫神は手にしたケモ耳カチューシャを希美の頭に装着した。
そして希美を小脇に抱えたまま利き足で眼前のヤクシャを踏み潰す。
「貴様らっー! 時と場所と立場を知れっ。
我を鬼子姫神として覚えある上での振る舞いなれば、微塵の容赦もせぬぞっ」
すさまじい恫喝だった。すでに十体以上に数を増していたヤクシャたちに一斉に動揺が走る。
姫神は更に追い打ちをかける。うなりをあげて大気が膨らみ始めたのだ。
「さあ選べ。生を選ぶか、それとも塵をも残さぬ瞬時の死かをだ」
むろんこれは脅しに過ぎない。
今、姫神は小脇に希美を抱えている。そしてわずかな先には気を失った湖水見高校の生徒たちがいる。
この状態で気を爆ぜたら塵をも残さずに瞬時に死ぬのはヤクシャたちだけで済むはずがない。
だがヤクシャたちは生を選んだ。ヴボボオォーンと呻き声を漏らすと身体の輪郭を崩したのだ。そして元のプラズマ放電となり、やがてその姿を消す。
「……ふう」
姫神はため息をついた。こういう心理戦は得意ではない。一気に叩きつぶす方が性に合っているからだ。
(――咲姫、ありがとう)
「礼はいらないぞ。私自身が望んでしたことだ」
姫神はそう答えると抱えた希美を地に降ろす。
すると、ううーんっ、と希美の口から声が漏れる。
直後に薄ぼんやりとその目が開かれた。
虚を突かれた。希美が意識を取り戻す前に姿を剛に戻すつもりだったのだ。
今の希美はその視界はまだ完全に戻ってはいないだろうが今更剛に戻るのはもう無理である。
今姿を変えればその身長差を誤魔化すことはできない。
なにしろ姫神と剛は十センチ以上背丈が違うからだ。
(――さ、咲姫、姫神の姿はまずいって)
「その通りだな」
そしてせめてもの小細工として姿を咲姫へと変える。これなら背丈は変わらないし、姿は人間の少女だ。
「……誰? 剛?」
「残念ながら違う。やはり貴様とは縁があるようだな。貴様がいう通り、また出会ってしまった」
「さ、咲姫ちゃんっ! 咲姫ちゃんだ」
希美はふいに立ち上がろうとする。
だがまだ意識の朦朧とした感覚は残っているようで足下がふらつく。それを咲姫が抱き留める。
「無理をするな」
「うん。……あ、あれっ? そのピン……」
咲姫の足下を見たまま希美が身を固くした。
「ピンがどうしたのだ?」
咲姫は希美の視線の先をたどった。そして希美同様に固まった。
ズボンの折り返しに安全ピンがあった。それは希美が先ほど付けてくれたものだった。
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