第7話 10年ぶり。鬼子爬神との再戦。

 ――その瞬間だった。




 あり得ない事態だった。

 絶対強者であるはずの鬼神のひとりである姫神のその身が、瞬きの間もなく死角から迫ったなにかに弾かれたのだ。




 感じたのはバチンッとした打撃。意識が瞬間消し飛ぶ程の衝撃だ。

 グワッシャンッと爆発のような轟音が起こった。

 道路脇にあった工事現場の資材置き場に、姫神の身体が叩きつけられたのだ。




 頭上高く積み上げられた鉄骨よりも硬い超硬化セラミックの足場資材が、もうもうたる土埃の猛煙とともにガラガラと崩壊した。




「くうぅ……」




 鬼子姫神が苦痛の声を上げた。骨が肉が引きちぎられるかのような衝撃が襲ったのだ。

 あまりの痛みに息が詰まり、その小さな唇から、かすみのような吐息がもれた。




(――すげえ痛えっ……。って、咲姫、大丈夫?)




「しょ、正直いうと、あまり大丈夫ではない」




 絶え絶えの声で姫神が答えた。




(――ちょ、ちょっと咲姫っ、右手っ……!)




 視界がようやく戻った。

 そして見る。

 確かに剛が叫んだように右手が壊滅的に崩壊していた。鋼鉄をもスポンジケーキのごとく切り裂くはずのそのかぎ爪が、すべてはがれて血潮が噴水のように吹き上がっていたのだ。




つうっ……」




 意識が飛びそうだった。

 あまりの痛み、あまりの屈辱、そのすべてを表してるのが右手だった。




 だが姫神は立ち上がった。力が定まらない上半身を預けるように立てた膝に重心を預ける。

 やがて血が止まる。




 裂けた皮膚がめきめきと音をさせて硬化した。

 人ならざるヤクシャの王の持てる力だ。

 だが折れた爪までは戻らなかった。この処置は応急に過ぎない。



 

 そして見た。

 かすむ視界をぬぐい去るがため袖でこする。

 すると未だ立ちこめる土埃の猛煙の向こうからこちらに近づく人体を見たのである。




「ふるるるっ……。久しぶりだな」




 人体がそう告げた。

 百八十は優に超える長身。細身のシルエットが一歩一歩ゆったりとした歩調で近づいてきた。

 やがて全容が明らかになる。




(……なっ)




 剛は絶句した。おぞましさのあまり、言葉を失ってしまったのである。

 陽を浴びた顔部が、青黒くてらりと光る鱗にびっしりと覆われていたのである。

 その一枚一枚が、呼吸の度に細かくうごめいている。細められた縦長の瞳は冷血動物のそれだった。




 頬はこけ大きくせり出した口部には、千枚通しのような鋭利な牙がびっしりと生えていた。

 手足はそれほど太くない。だが筋張った筋肉は、強靱な鋼を思わせる。




(――ト、トカゲの化け物?)




 剛は息をのむ。

 特徴的なのは異様に太い節くれ立った指、そして尾部だ。

 尾部には背丈ほどの長さの尾があった。それはごつごつとした巌のような印象で、歩みで揺れる背筋に合わせて細かく左右に揺れている。




(――い、いや違う。トカゲじゃない。ワニか?)




 剛の印象は正しかった。輪郭こそ人だが、各部のパーツはまごうことなき爬虫の王だった。




「むぅ」




 姫神は思わず呻き声をあげる。

 その姿に見覚えがあったからである。いや、見覚えどころではなかった。

 なにしろ十年来の宿敵だ。湧き上がる感情は、殺意しかない。



 

「……やつは鬼子爬神きしはじん。冷血な爬虫の力を持つヤクシャの王の一人だ」




 姫神は独り言のように淡々と言葉を漏らす。

 感情を押さえるためだった。冷静になるべきだ。

 だが、過去から去来する迸るような激しい感情の沸騰は、思慮も理性もなにもかも吹き飛ばしてしまった。




「きっ、貴っ様っーーーーーーーーーーっ!」




 気が爆ぜた。

 堰を破った濁流のごとく感情の爆発は、眼前の敵を瞬きの間もなく飲み込んだ。

 半径三十メートルの局地大爆発。




 その威力は地を抉り、壁のごとく積み上げられたセラミック足場建材を瞬時で砕き、その瓦礫つぶての暴風雨を生み出した。




 暴風圧で傾いだ荷積み用トラックは、倒れる間もなく瓦礫つぶてに蜂の巣にされ、降雨避けのトタン屋根は、捲れ上がったそばから細切れにされた。

 その空間、形あるものは、この瞬時に消滅。




「ってええぃーっ!」




 だが姫神ひじんは地を蹴った。相手は鬼神なのだ。この程度で仕留められるはずもない。

 そして自ら生み出した気を破り、礫の嵐の中へと身を投じた。

 ささくれだった破片が頬を切り、二の腕を裂く。流れた血粒が糸を引き風の中に霧散する。




「そこかあっ!」




 かすむ視界の先の抉れた地に、嵐の中を微動だにせぬ巌が見えた。

 姫神は無事な左腕の爪先を唸りを上げて突き出す。鉄をも貫く瞬殺の一撃だ。

 だが……、ガギンッ。と硬質の音がした。




「くっ」




 止まった。と、同時に視界が晴れた。

 礫の砂利場と化した抉れた地の上で、左腕を突き出す鬼子姫神と右腕で受け止めた鬼子爬神が彫像のように静止していた。

 かぎ爪の突進を拳で止めたのだ。




「ふるるるるっ。小娘。成長したのは背丈だけか?」




 爬神はじんの顔の鱗が蠢く。縦長の瞳が細められ口端が緩んだ。

 笑っているのだ。




「知恵が足りん。工夫が足りん。爬王の鱗の堅さ、すでに承知だろうが」




「だまれっ」




 姫神は後方に飛ぶ。いったん間合いを取ったのだ。

 鬼子姫神の神髄は神速。そのためには距離がいる。



 だが爬神はそれを見抜いていた。

 足を踏み込むと矢のように直線的に距離を詰める。

 その行動はあまりにも無防備に見える。しかしその思考は常人のものだ。万全の装甲を持つ鬼子爬神に防御などいらない。




「ってええええいっ」




 鞭のように右足がしなった。瞬殺を狙った姫神の蹴りだ。ヤクシャ相手なら頭部は消し飛ぶ。

 ガギンッ。と止まった。爬神の巌の腕がガードしたのだ。




 瞬間、姫神の足の甲の皮膚が破れ、血潮が吹き出して爬神の顔を赤く染める。

 むろん鬼子爬神にダメージなどない。




「ふるるるるっ……。効かん。効かん。効かん。小娘。それでもお前、鬼神か。こそばゆいわ」




「だまれだまれだまれっーっ」




 怒りのままに姫神が右腕を繰り出す。が、またもや硬い表皮に阻まれて、姫神の拳が裂けてしまう。




「児戯だ。お前の技はすべて子供だましに過ぎん」




「うるさいっ。だまれだまれだまれっーっ……!」




 沸き狂う荒ぶる感情のまま、姫神は肘を突き出す。膝を突き込む。

 だがそのすべては徒労だ。自爆行為だ。

 それはまるで鏡に映った己の姿と戦う知恵のない野獣の行為だった。

 ダメージはすべて攻撃側の姫神に返ってくる。




(……おかしい)




 姫神と視線を共有している剛は、爬神を見てそう思う。

 姫神は今、激情と恥辱で完全に我を失っている。それは姫神、つまりふだんの咲姫にとってはあり得ない感情だった。




 冷静な状況分析に基づいた神速の攻撃こそが、鬼子姫神がそれまでの戦いの中で常に勝ち続けた証だからである。

 だが今の姫神は、馬鹿にされ蔑まされたあげくに切れまくった子供のようだった。

 まるで戦いに工夫がないのだ。




 そして改めて鬼子爬神を見る。

 爬虫の王はほくそ笑んで見えた。なにしろ人外の顔なので確証はないが、余裕すら感じさせる目つきと身体さばきから、そう感じたのだ。




 だと、すると、だ。剛は直感する。まずいっ。




(――咲姫、咲姫、咲姫っ)




 剛は叫ぶ。まずは咲姫に我を取り戻させようとしたのだ。だが、




「うるさい、黙れ黙れっ」




(――い、痛ってぇっ!)




 ガツンッと拳が来た。

 姫神が自分で自分を殴ったのだ。血潮が飛んで視界が消えた。




(――くっ、このバカっ。このヒステリー女。お前はアホか? マヌケか? 同士討ちしてどうすんだっ)




「黙れーっ」




(――黙るかっ! いいか咲姫。聞く耳を持てっ)




「知るかっ」




(――いいから聞けっ。一心同体の相棒の声だ。一度でいいから聞いてくれっ)




 反応があった。姫神が攻撃を止めたのだ。




(――いいかっ、距離を取れっ、なんでもいいっ、とにかく離れるんだっ)




「は、離れる? なぜだっ?」




(――いいか? やつは今まで一度も自分から動いてない。すべて咲姫の攻撃を躱してるだけなんだ)




「……」




 姫神が飛んだ。

 それに戸惑ったのは鬼子爬神だ。一瞬迷いを見せたがすぐさま追ってきた。むろん接近戦を望むからだ。




(――ヤツはわざと咲姫を挑発してるんだ。ヤツはたぶんチャンスを狙っている)




「チャンス?」




(――ああ。おそらく一撃で咲姫を仕留めるなにかだ)




 三度ほどの跳躍で資材置き場を抜けた。

 見ると爬神も追ってくるが、速度の差が違う。神速の鬼子姫神と地を這う爬虫の王とでは、この差は如何ともしがたい。

 特化した能力が違うのだ。




 距離が姫神を冷静にさせた。

 気を静め肉体の修復にかかる。皮膚を硬化させて傷口をふさいだのだ。




「なにかとは、なんだ?」




(――それは俺にもわかんないさ。でも考えはある)




「どうすればいいのだ?」




(――隙をわざと作ってみて。できれば反撃開始に見せかけてさ。そうだな、気を飛ばすのがいい)




「わかった。やってみる」




 これこそが、鬼子姫神の常勝の真実だった。

 電光石火の姫神の技と、内に秘めたる冷静な参謀である剛。

 武力と知力。それこそが互いに同化して以来、数ある戦いで無敗を誇った鬼子姫神の力であった。




 降り立ったのは、だだっ広い造成地だった。

 山を削って作った斜面に階段状に段差を設けた住宅予定地で、完成予想図がフェンスに貼ってある。

 ここなら被害は最小限だ。




「くふるるるっ……。なんの気まぐれだ。逃げたのではなかったのか?」




 振り返ると爬神が降り立っていた。そしてじりじりと間合いを詰めてくる。




「消し飛べっ」




 姫神が叫んだ。

 髪が総毛立ち炎のように揺らめく。そして気が歪んだ。




 唸りを上げて大気が膨らむ。

 根の浅い下草から順にちぎれ空を舞い、土塊も細かく砕かれ粉となって宙を舞う。

 建売住宅の完成予想図もバリリと剥がれ、姫神が生んだ風の流れに巻き込まれた。




「喰らえっ」




 突き出した指先の動きのままに風が爆発した。道標は抉った大地だ。

 その行き先はまっすぐに巌の肉体を持つ鬼子爬神へと向かった。




(――咲姫、ヤツの懐に飛び込んで)




「飛び込む? 二の舞だぞ?」




(――いいから)




「わかった」




 返答を言い終える前に姫神は地を蹴っていた。

 そして自らが放った気を全力で追う。万全の信頼を置ける参謀の言葉だ。姫神に迷いはない。




 風を纏った気が命中した。

 そしてコンマ数秒の時間差で、姫神も爪先を繰り出した。

 アウトレンジ攻撃と、近距離攻撃のシンクロ多重攻撃。これこそが幾多の強豪を屠り続けた無敗神話の必殺コースだ。




 先ほどとは違う。相手に思考の時間すら与えないのが本来の姫神の神業だ。




「ふるるるっ!」




 眼前の爬神に初めて驚愕の表情が浮かぶ。




「っでええええいっ」




 咲姫は左腕の切っ先を突き出した。鋼鉄より堅い五指の指先がすぼまった。爬神の目を狙ったのだ。

 ガキンッ。

 だが防がれた。

 瞬時に顔部をガードした爬神の両腕の巌の表皮が、爪先の行く手を遮ったのだ。

 だがそれは剛には計算済みだった。




(――咲姫、右手っ!)




 電光石火で姫神の右腕が唸りを上げた。

 ググッとくぐもった音が響く。拳が爬神の腹部にめり込んだのだ。




「うぐっ」




 爬神が呻いた。

 巌の体皮を持つ鬼子爬神だがそれは背面だけだ。ワニやトカゲ同様に胸部、腹部は柔らかい。




 だが、それだけでは勿論致命傷には至らない。攻撃よりも防御に特化したのが鬼子爬神だからだ。

 その証拠に爬神は笑みを浮かべた。

 攻撃を喰らったとは言え、神速の鬼子姫神を間合いに捉えたからだ。




(――来るっ。たぶんヤツの必殺技だ)




 眼前の鬼子爬神が身を捩る。

 それは矢を放つ前の弓の弦の動作に似ていた。瞬きすら遅いとするようなコンマ数秒の時間。

 だが鬼神の目を通した剛の視線には、それすらも緩慢に見える。




(――尻尾だあっ。咲姫、避けろっ!)




 剛が叫ぶ。

 ブウンッと唸りを上げて爬神の尾が迫った。

 速いっ。




「……っ!」




 姫神は瞬時に地を蹴った。だが尾はぐんっと伸びて、逆袈裟切りにその道筋を変える。

 柔軟な骨構造がなせる業だ。腕や足ではこうはいかない。




「ぬうっ……」




 かすった。鞭のような軌跡を描いた尾の先端が宙にいる姫神の踵に浅く命中した。




「……っ!」




 身体ごと持っていかれた。

 支えを失った姫神の肉体はグラリと傾くとそのまま地へと転がり跳ねた。

 ガツンとした衝撃が右肩を襲う。




つうっ」




 軽量な身が幸と不幸をもたらした。

 避けられたのはその身の軽さだ。だが触れただけで全身を翻弄されたのも、その軽さからだ。




 だがすさまじい衝撃だ。

 かすっただけで全身の骨格が共鳴した。姫神は首を振るが四肢にはしびれが襲い力がなかなか籠もらない。




 これが鬼子爬神の必殺技だった。

 その太い巌の尾で骨も肉も叩きつぶす。その威力は直撃すれば鬼神すら一撃で屠る。




 姫神は理解した。

 先程、資材置き場に叩きつけられた攻撃はこれだったのだ。

 墨色の影を地に縫いつけようとした瞬間に吹き飛ばされた謎の一撃だ。

 だとしたら右腕の爪がちぎられたのも道理である。




(――咲姫、来るっ!)




 第二弾が迫っていた。

 爬神は振り抜いた尾をツバメ返しに宙から地へと、しならせたのだ。

 ブウンッと風圧が迫った。見切る余裕などない。姫神は四肢すべての力で跳躍した。

 躱した。だが今度は地に顔面着地となった。




「ぷはっ」




 鼻に口に泥が入る。




「躱したか。だが血まみれのうえに今度は泥まみれ。……無様だな」




 嘲笑が背後から迫っていた。




(――咲姫。冷静に)




「大丈夫だ」




 姫神は立ち上がった。

 その姿は爬神が言うように、血まみれ泥まみれの満身創痍。だがその表情は不敵だった。

 ペッと口からなにかがはき出された。それはかみ砕かれた血混じりの土塊だった。

 そしてニヤリと笑う。




(――その様子だと退却の必要はいらないね)




「無論だ。やつの尾は確かに驚異だ。あの威力は侮れない。しかし、……勝機はある」




(――わかった。任せる)




 すでに全身ズタボロのはずだ。だが、その笑みにはなぜだか余裕すら感じられる。

 爬神が間近に迫っていた。

 防御のそぶりすら見せない直線的な突撃。




(――来るよ)




「ああ。だが望むところだ。考えがある。今度は真正面から行くぞ」




(――え?)




 いきなり姫神は地を蹴った。

 神速の勢いでぐんぐん爬神へと迫った。

 だがあまりにも無謀だ。姫神は爬神と違って防御に特化した能力はない。




「ふるるるっ。刺し違える気か?」




 爬神も加速した。

 こうなったら力と力の激突であった。そしてまさに怒濤の勢いで互いの切っ先が触れる瞬間だった。




「な、なにっ」




 爬神が呻いた。

 予期すらできぬことが起こったからだ。

 爬神が渾身の力を込めた右腕の拳の先で鬼子姫神の姿がいきなりかき消えたからだ。




 姫神は宙を舞っていた。

 激突の瞬間、身を捩って地を蹴ったのだ。

 まさに軽量軽快の鬼子姫神ならではの業である。




 だがそれを尾が襲う。

 身の速度では姫神にかなわぬ爬神だが、尾の勢いは姫神すら射程に捉える。

 それは先ほどにすでに証明済みだ。




(――咲姫っ)




「承知っ」




 参謀の問いかけに姫神は応じる。

 爬神の尾はすでに計算済みだった。

 ブウンッと迫る尾の軌跡を姫神は捉えた。そして高みの頂点で身をそらす。

 棒高跳びの瞬間と同じ動きだ。




 躱した。

 完璧だった。

 姫神のその小さな鼻先を、一抱えもある巌の尾がすり抜けのだ。




 そして次の瞬間、姫神は驚くべき行動に出た。

 左腕のかぎ爪を眼前の尾に楔のように突き立てて、長い黒髪を巻き付けて、その細身に引き寄せたのだ。




「な、なにっ」




 爬神は驚愕した。




「でああぁぁぁ……!」




 その時、姫神の裂帛の気合いが大気を振るわせた。

 びりびりと空気が共鳴する。




 グサリと音がした。

 それは皮を突き破り、肉を捉えた音だった。

 姫神だった。

 鬼子姫神がその鋭い牙で、尾の柔らかい内腹に喰いついたのである。




 ――鬼牙おにばだった。




 姫神のあごまで伸びたするどい牙が爬神の尾を捉えたのだ。

 これこそが鬼子姫神の最大最後の武器だった。

 捉えたら最後。敵を倒すまで絶対に離さないのが鬼牙だ。




 喰い破った堅い表皮から血潮が大量に吹き出して、姫神の雪色の肌を真っ赤に染める。

 鬼子姫神は女性にょしょうの鬼神である。

 髪、爪、かみつきの攻撃に特化しているのだ。




「ぐわああああっ……!」




 鬼子爬神が絶叫した。

 壮絶な痛みが全身を駆け抜けているからである。




「がふうっ!」




 姫神は唸る。

 そして更に顎に力を加える。




「がはっ、があああああああっ……!」




 爬神はじんの耳をつんざく叫びが大気を振るわせる。

 この声はもはや痛みだけではない。それとは別の感情までもが巌の身を震わせたのだ。




 それは――恐怖。




 とにもかくにもひたすら防御に特化したのが爬虫の王、鬼子爬神だ。

 例え相手が同等の力を持つ鬼神であっても、その巌の表皮がこれまですべての攻撃を防いできた。

 だがその反面、体内に刃が立てられたことなどはない。

 一度もなかったのだ。




 人であろうと獣であろうと未知なる体験には脆弱だ。

 つまり、もろい。




 そこが鬼子姫神との違いだった。

 戦いの度に生傷が耐えることのない姫神には、痛みへの耐性がある。

 つまり、慣れているのだ。

 この違いがこの場の主導権を支配していた。




 爬神は我を忘れていた。

 痛みのあまり尾を振り回す。姫神を振り払おうと必死なのだ。




 だが返ってそれがダメージを蓄積させる。

 決して離されまいと、姫神が更に牙を突き立てるからだ。

 鮮血が散水機のようにぶちまけられる。




 この鬼神同士の戦い、趨勢は鬼子姫神にある。

 だが元々傷だらけの上に、今は身動きすら取れない。

 そしてこの鬼牙による攻撃は、己の命を削る諸刃の剣だ。

 牙を緩めたとしたら、それは同時に死を意味するかもしれないのだ。




 鬼子爬神に次の手があったとしたら姫神は負ける。

 所詮戦いとは手札の勝負だ。持ち札が多い方が勝つ。

 それは人の世でも鬼神たちの修羅の世界でも変わりはない。

 最後の切り札を放ってしまった姫神には、もう奥の手はない。




 バシンッ、バシンッと地が震える。

 爬神の尾が姫神ごと大地を殴打しているのだ。

 どうしても姫神を振りほどけぬのなら、尾で敵の身を打ち据えるつもりなのだ。




 だが、離れない。

 姫神は巧みに身をよじり地面との直撃をかわす。

 もちろん鬼牙は緩めない。

 地面はえぐれ、壮大な土埃が双方の視界を奪う。辺りはまるで砂漠の砂嵐だった。




「くっ……」




 だが突然、姫神が牙を緩めた。

 そしてその身は振られる尾から放り出されて、宙高く放物線を描く。




 そしてそのままドスンと落下した。

 無様な着地だった。足下からの優雅な着地ではない、落ちて尻餅をついた形だ。




 だが姫神が牙を離したのは、気力が尽きたのでも勝負をあきらめたからでもない。

 その証拠にすぐさま身構える。




(――ぐはっ……)




「剛、大丈夫か?」




(――ごめん。俺のせいだ)




 剛は朦朧としていた意識を取り戻した。

 おそらくたぶん、いや絶対に間違いなく自分は失神していた。




(――咲姫が鬼牙を使ったすぐ後から……)




 記憶がないのである。

 爬神が尾ごと地に叩きつけた瞬間から剛は前後不覚になっていた。

 あまりもの痛み、衝撃が人間の限界を超えたのだ。




(――ごめん、俺、相棒失格だ)




「そ、そんなことはない。断じてない。私が浅慮過ぎただけだ。……貴様は自分を責めすぎる」




 剛の落胆ぶりに思わず姫神はそう答えた。

 だが、姫神が鬼牙を離した理由はやはり剛だった。

 全身を貫く痛みも出血も、そして骨をも砕けるような衝撃も、姫神は耐えられる。

 人体とは気力も体力も桁違いなのだ。




 だが、剛の精神は生身だ。

 例え姫神の肉体に内包されている状態で、痛みは軽減されるとは言え、鬼神同士の戦いは大砲が直撃したような衝撃が絶えず繰り返されるのだ。

 身がない状態でも魂が耐えられない。




 視界が晴れてきた。

 宙を舞う土塊が消えたのだ。

 と、同時に聴覚もよみがえる。辺りは静寂が支配した。




(……いない、な)




 爬神の姿が見えなかった。

 だが巌に似た身体を持つのが鬼子爬神だ。辺りの景色、例えば土塊に姿を隠し、こちらの動きを窺っている可能性はある。

 しかし、




「ふっ……」




 姫神は安堵の息を吐いた。

 乾いた血糊がこびりつくその顔に笑みを浮かべた。

 正直に言えばこの戦いはあまりにもキツかったからだ。




「逃げたな。……いや、この場合の退却は戦略的とも言える」




(どうしてだ? 咲姫を恐れて逃げただけじゃないのか?)




 姫神は首を振り、髪にまとわりついた土埃を払う。

 そして同時に肉体の修復にかかる。戦いに待っては通用しないからだ。

 次またいつ敵が現れるのかわからないからである。




「いや、違うのだ。確かにヤツの尾はこの場ではもう使い物にはならないはずだ。だが……」




(――な、なんなんだよ)




「やつが単に私だけを標的にしていたのなら五分五分の確率で勝てるかもしれない」




 だが、しかし……。姫神が先を告げようとする前に、剛が気がついた。




(――そうかっ! あの影か。……あの墨汁の川がいる)




 剛の脳裏に先ほどの黒い影がよみがえる。道路幅いっぱいに流れる暗黒の川の鬼神だ。

 姫神はニヤリと頬を緩める。やはりこの相棒は得難い。




「そう、その通りなのだ。この街には今、鬼神は三人いる。これは私にとって初めての体験だ。実に由々しき問題なのだ。

 だからなにがあっても余力は残す必要がある」




 姫神はぐっと唇を引き締める。




(……)




 剛は思う。

 鬼神は互いに覇を争う。それは鬼神の宿命だ。

 だとすると、今ここで鬼子姫神と鬼子爬神が最終ラウンドまで全力で殴り合うのは得策ではない。

 鬼神と鬼神の戦いは命の削り合いだからだ。




 だから例え勝ち残っても、満身創痍では残った鬼神に漁夫の利をさらわれるのは明らか過ぎる真実だからだ。しかし、だとしても、




(……だとしてもさ、さっきの黒い影が宿主を見つけられなかったら)




 その可能性はある。

 鬼神の宿主はそうそう見つかるものではないからだ。




「見つけられなかったらに超したことはない。三すくみというのは私にとって不都合過ぎる」




 それにだ……。鬼子姫神は言葉を濁す。

 鬼神同士の共闘というのもない訳ではない。共通の敵を倒すまでの一時休戦というのは珍しくないからだ。だが……。




(――それは困るよね。鬼子爬神とは犬猿の仲。

 しかも咲姫は元々群れるのが嫌いだから、もしあの黒いやつが宿主を見つけて実体化しても、仲良くはできないだろうし) 




 前言撤回だ。やはりこの相棒は気にくわない。




「わ、私の交友関係は、この際どうでもいいだろうがっ」




(――ちょ……!。咲姫の交友って俺以外にいるのか?)




 ムッときた。かなりきた。

 姫神は思わず本気で自分の頬に右腕をぶちかます。いや、ぶちかまそうとした。




 だが避けられた。

 頬を狙った右手が顔面を通り抜けて停止した。頭が傾けられて避けられたのだ。

 姫神は瞬時に固まる。

 こんなことは初めてだった。




(――おっ! ……避けられたよ。へえ、信じられないぜ)




 剛は思いがけない僥倖に有頂天になる。

 だが反応がない咲姫が気になった。




(……ね、ねえ、咲姫。どうしたんだよ)




「い、いや、なんでもない」




 声はこわばる。堅くなる。

 ……こんなことはあり得ない。

 いや、あって欲しくない。

 単なる宿主であるただの人間が、自分の力を超えた? 




 姫神は首を振る。だが不安はむくむくと心の中で膨らむ。




 ……ま、まさか? 

 例え瞬時とは言え剛が私の力を超えた? もしくは私の力が落ちた? 

 ……い、いや、まさか?




 不安は戸惑い、そして戸惑いは恐怖になる。

 人間と鬼神の力には絶対的な差がある。

 それは、あのヤクシャの群れを圧倒的に打破する力のことだけではない。そんなことは、生まれ育った環境からくる進化の差に過ぎない。




 ……だが、しかし。

 鬼神が人間に対して圧倒的に上回る力の差とは人間を宿主として憑依し、心身ともに主導権を握ることだ。だが……、

 ……避けられた。




 この意味は大きい。

 姫神が自分から剛と離れることは望んでない。得難い相棒だと思っているからだ。

 そして剛も姫神という存在を拒絶している訳でもない。身も心も同化している自分には、それはわかる。




 だとすると原因は剛だ。

 剛の肉体の宿主としての器が大きく成長し、鬼子姫神という内容物ではそのスペースが余り始めているのかもしれない。




 それは簡単に例えればコップだ。

 今までは鬼子姫神という鬼神で、そのコップは溢れんばかりに満たされていた。だがその大きさが変わった。

 今ではそのコップは成長し、鬼子姫神では半分程度しか満たされていないかもしれないのだ。




 姫神はごくりとつばを飲む。




「つ、剛。ひとつ訊きたい」




(――え、なに? どんなこと?)




 憎たらしくなるほどに無邪気な声が返ってきた。




「貴様は私をどう思っている? 忌憚なく聞かせてくれ」




(――え? いきなりなんだよ)




「常日頃思っていることだ。頼む」




(――そうだな。ジョークがわかるようになってきた。だから話していて楽しいかな。

 それに周りが見えるようになってきたと思う。今だってそうだろ? 戦う場所を選んだじゃないか)




「他にはどうだ? そういう内面的なことではない。もっと表面的なことだ」




(――表面的ってなんだよ。そうだな。うーん。……最近かわいくなった感じ。

 うん、そうだよ。そこらの女の子じゃ相手にならないくらい、かわいいかな)




 姫神は思わず俯いた。

 それは戦いの神の鬼神に似つかわしくない行為だった。赤面しているのだ。




「そ、そういうことではない。わ、私を鬼神として見た場合のことだ」




(――鬼神として? どうだろ? 俺は他の鬼神と同化したことないからな)




 ドキリとしたことをさらりと言う。




「わ、私は強いか?」




(――強いだろ。なに言ってんだ? だって今だって負けてないじゃん)




「剛を満足させられるくらいにか?」




(――いったいどうしたんだよ。今日の咲姫は変だよ。

 ……えーと、咲姫に不満なんかないよ。一心同体の相棒だろ? 変なこと訊くな)




「……すまない」




 安心した。姫神にはそれだけで満足すべき十分な回答だった。




(……)




 だが剛は違った。鬼子姫神、つまり咲姫がなにを考えているのか、わからなかったからだ。

 こんなことは初めてだった。やがて不安は嫌な予感へと変化する。




 も、もしかして……。相棒失格なのか? 

 俺は鬼子爬神との戦いの最中に気を失った。これじゃ足手まといだろ?




 姫神には姫神の、そして剛には剛の、それぞれの不安が生まれていた。

 なににつけ互いに遠慮なく言い合っていた二人に生じた、初めてのすれ違いであった。

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