chapter2-1 殺し屋アサクラ

 冷え込んだ冷たい廊下を歩くコツコツとした足跡が響く。

 決して大柄というわけではないが、肩幅が広くガタイがいい金髪の男、フィン・フィスクが歩いていた。

「こちらです」

 刑務官の案内で死体の保管所に足を踏み入れるフィスク。

 若き、新参マフィアのボスでありながら、この『東京』の警察組織の深い部分に根を張っているフィスクにとってこの場所は行きつけであり、ほぼ顔パスだった

 検死官が台の上にセリザワの死体を追いた。

 小柄な男の死体だ。

 ただし無傷ではない。右腕と両足の件が切断されている。エスというあの少女の手によるものだ。

 白騎シロキ彗透エス――『東京』からほど遠い地方都市『アラクネ』から舞い戻ってきたという、ナナの騎士を標榜する少女。

 身元を調べては見たものの、かつてはナナの付き人だった少女以外の情報がない。清廉潔白とまではいかなくも怪しいことはない孤児上がりのどこにでもいそうな少女――だというのに『御前会議』の手によって舞い戻ることになったしその手引きを命じられた。何かと不可解な少女。そもそも、経歴のほとんどが『東京』のそとで成立していながら怪しいところが薄いという点が怪しい――と思考を再び巡らせたところを中断する。

 今は目の前の死体に集中しよう。

「死因は?」

「毒殺です。こちらと思われます」

 フィスクの問いに答えて、検視官は小瓶を見せる。

「『ダークフォール』?」

「はい。血液を汚染し心臓を止める毒です。珍しいものではなく血液と反応を起こすので鑑識に使用されることもあり、警察や病院では常にストックがあり、入手は容易かと」

「そんなのは知っている。誰がやったのかを聞いているんだ」

「不明です」

「あっそ」

 フィスクは興味なさげに返答をして、セリザワを見やる。

 苦悶の死相が浮かんだ状態で死んでいる。『ダークフォール』の苦しみに全身を蝕まれたせいだろう。

 こんなことなら捕まった直後に拷問なりなんなりで色々聞いてやればよかったとフィスクは思う。

「はぁ……」

 溜息を吐いた瞬間、けたたましい音が響いた。警報音だ。

「なんだい?」

「警報ですね、音から察するに留置所でなにかあった思われますが……」

 どたどたと慌ただしい足音がしたと思ったら、警官が一人フィスクのもとに入ってきた。

「脱走です!」

「そうか。警備がざるだな、で、誰が逃げたんだい」

「アサクラです」

「アサクラ……? もしかしてあのアサクラか? 殺し屋の?」

「はい。そのアサクラです」

「お前ぇ、そんな重要なことはもっと先に言えよ!」

 フィスクの怒鳴り声が静謐の検死室に響いた。


 夜の風が彼女の髪をたなびかせる。

 黒と蒼のコントラストが波のように揺らいでいる。

「……あんまりおもしろくない仕事。……殺し自体があっさりなのに、その後が大変。……『御前会議』、何を考えてるの?」

 いくばくの困惑を孕んだ声をアサクラと呼ばれる女は溢した。

 年のころは二十代半ばに見える。色白な小顔に蒼く濁る綺麗な瞳、そして端整な顔立ち。通性的で細身なすらりとしたスタイルは留置場で着る灰色の布地すらそれなりの衣装のようにすら見せてしまう。

 溜息をアサクラは吐いた。

 透明な声音が夜の、外灯と石炭煙に照らされた『東京』に溶けていく。

 からり、と彼女は手の中で小瓶を弄ぶ。

『ダークフォール』、どこにでもあるような毒の小瓶だった。

「……やっぱり、ナイフやダガーのほうが好きだなぁ」

 そう零すと彼女は夜闇の中に溶けていった。



「ハッ、トアッ、‼」

「うん。いい感じですよイオリくん」

「あっ、ありがとうございま――すッ!」

「残念ですが、わたしの隙はそう簡単にはつけないよっと」

 木刀が打ち合う音が響き渡る古巣低の庭先。

 庭先の花々や植え込みは現在の家長であるフルス・イオリ少年の豆さ所以か瑞々しく生きている。

 そんな植え込みに木刀が降ってきた。

 隙をついて突きを繰り出したイオリの太刀筋をエスはさらりと見切り、見事に撃ち返して見せたのだ。

 結果としてイオリ少年の持っていた木刀は彼の手を離れ、くるくると宙を舞ったのち植え込みに刺さることになった。

「あ。ごめんなさいイオリくん。もう少し軌道を考えて弾くべきでした」

 慌てて植え込みに向かい木刀を回収するエスとその後ろを少し困ったように微笑いながら追いかける。

「大丈夫ですよ、それくらい」

「いえ、でも、こんなに綺麗にしてあるのに……」

「手遊びに整えているくらいのものですから、落ち着いて彗透さん、すぐに元に戻せますよ」

 そういって軽く茂みを整えるとそれなりに見れるようになった。

「ほら、こんなところでどうですか? 結構いい感じだと思うんですが……彗透さん?」

 ふと少年が傍らをみると目をキラキラさせているエスがいた。

「い、いえ。すごいな―器用だなーと思っちゃって……わたしはあんまり器用じゃないから凪色邸の庭を荒れたままにしてしまっていて……イオリくんはすごいよ」

「………………器用とか、そういうのでは、あんまりないと思いますけど……でも、ありがとうございます……」

 少年はどこか顔を赤くしながらもごもごとそんなことをいう。

 なにやらな雰囲気が出そうになるところで不意に傍らから茶々を入れる声がした。

 なにやらな雰囲気が出そうになるところで不意に傍らから茶々を入れる声がした。

「エス。そこな少年と仲良くするのはいいけれど、あんまり私は放置しないでほしいわ」

「ナナ様、いえ決してナナ様そっちのけで遊んでいたわけではなくてですね」

「そうです。凪色さん、これは僕からお願いしたことで」

「エス、あなたが元総監の子息と懇意にしてからもうじき半年経とうとしているわ。その間、私との関係だけでは飽き足らず、外で少年に目をかけるなどと」

「ちょ、ちょっと待ってください! そ、そのような人聞きの悪いことは決して……」

 つん、とすねた様子でエスをいじめている様子の凪色ナナ。

 わたわたと困ったように主の機嫌を取ろうとしているエスの様子を見て、イオリ少年はどこか曖昧な微笑みを浮かべた。

 この半年間ほど、彼はエスとの交流を割と深めたほうだと思う。

 もとより、人に気をかけるのが好きな人なのだろうか、それとも単純に彼女が自分を気に入ってくれたのだろうか。自分に随分と良くしてくれた。

 成り行きとはいえ、こうして剣術のけいこまでしてくれるように。

 イオリ少年個人としては、これ以上に嬉しいことはなかった。

 とはいえ、最初の数回はエスと二人で行われていたこの稽古もいつの間にやら凪色さんが見学するようになった。

 なにやらエスとナナの間でいろいろやり取りのあった末の結果のようなことをどちらともなく言っていたが、どうにも二人のやり取りを聞くようになってからは単純にナナの申し出をエスが断れなかったのだろうということが容易に想像できる。

 それぐらい、エスはナナに弱いし、ナナはそんなエスを好ましく思っているのがふたりからは伝わってくる。

 そのことが微笑ましくも、寂しく思う。

「お茶を淹れましょうか?」

 二人がいつの間にか二人きりで会話を行ってしまっていた二人の様子にイオリはそう提案する。

「あ、イオリくん。それならばわたしが……」

「いいえ、お二人はゆっくりとしていていください。お客様なのですから」

 そういってすたすたとイオリは屋敷のほうに戻っていく。

 壁に立てかけてある脚立を取り出し、戸棚からティーポッドと茶葉を取り出す。

 茶葉をセッティングして湯を沸かす間にちらりと裏庭を見やる。

 エスとナナは裏庭に設置してある椅子とパラソルのもとで二人きり、何やら話している。

 ふたりともあまり口が達者なほうではないのに、どういうわけか二人きりだとあんなに嬉しそうにしている。

 イオリはエスの横顔を見る。穏やかに微笑む、女性的な柔和なその貌はきっとナナの前だから見せるものなのだろうなと思う。

「……かなわないな…………」

 そんなことを思う傍ら、ポッドの湯が沸いたとき、リンリンと古巣家の呼び鈴がなる。


「やあ古巣少年。元気してた?」

「フィスクさん……」

 現れたのは金髪でガタイのいい、異国からきたマフィアの男だった。

「俺に会う奴はなんでそうみんなして苦虫を嚙みつぶしたような顔をしてるんだろうな」

「いえ……決してそのようなことは」

「親父さんとは仲良くやれてたんだけどなあ、……まあいいや。ところでポストに郵便物が入ってたから取ってきてやったぞ」

 怪訝な顔を隠しきれないイオリではあるが、彼が勝手に郵便受けから持ってきたであろう一通の手紙を受取ろうと手を伸ばす。

 するとひゅっとフィスクは手を引いた。

 要するにちょっとした嫌がらせである。

「……なんですか?」

「まあ、そう言うな。今、凪色ナナは来ているな?」

「…………」

「俺はあいつの婚約者だぜ、そう警戒するな。この郵便物も絡めて、お前とナナと、あとエスな。話しておきたいことがあるんだよ、邪魔するぜ」

 そうフィスクは言って古巣邸に入ってくる。

 すたすたと屋敷の中を通り抜けて、裏庭で語らう少女二人を認めると軽く手を挙げてそちらに向かっていく。

 その後をひょこひょことイオリは困ったかおでついていく。

 薬缶のお湯は既に沸いて、ピューと音を立てていた。


『拝啓、古巣様。

 私の名はアサクラ。大変恐縮ではございますが、私がこれより行う『御前会議』への報復、その折にそちら様へいくばくかのご迷惑をおかけすることがあるかと存じます。

 つきましては、あらかじめご了承いただけれると幸いです。

 かしこ。』

 

 以上が、古巣邸に届いていた手紙の内容である。

「……何ですか、これ?」

 純粋な困惑の言葉を最初に漏らしたのはエスだった。

「アサクラとは一体?」

「殺し屋だ」

 フィスクは端的にそう答える。

「この『東京』に殺し屋は珍しくないが――こいつはその中でも飛び切りの変人だ」

「セリザワのような男なのですか?」

「女だよ。すごい美形だとも聞く。セリザワは『仕事屋』、要するに便利屋、何でも屋なのに対して、こいつは基本殺しの専業だ。その過程でいくらかの諜報を行うこともあるが、殺人以外の仕事は基本的に行わない」

「なるほど……」

「それと、セリザワを殺したのはおそらくこいつだね」

「――!」

 エスは表情をこわばらせた。

「その様子だと既に聞いていたかい? まあスルー出来るニュースではなかったか。先日、セリザワ――エス、きみが叩きのめしたあの男だ――が留置所で死亡した。毒殺だった。その直後に同時期に留置所にいたアサクラが逃げ出したんだ。証言や現場、凶器となった毒――『ダークフォール』という血液に作用する毒薬がなくなっていた事実から奴がセリザワを殺害したことはほぼほぼ確定だろう」

「……そうですか」

 複雑な顔をするエス。

 目をしろくろさせているイオリ。

 まるで我関せず、興味なさげに紅茶をすするのがナナ。

 三者三様の反応を見せる。

「結局、彼がナナ様を狙った理由はわからずじまいですか?」

「仕事、ということしかわからないな。なんだかんだで、あの男は誰からのどんな依頼だったかを話さなかった。まあ、警察の追及が温かったのもあるけれどもね」

「……そうですか」

 呑み込めない大きさの石を無理に飲み込んだような感覚が喉の奥にあるのをエスは感じた。

 苦しいが同時に飲み込めないものではない。

 だが同時に心配になるものがあった。

「イオリくん……」

「――」

 事実を受け止め切れていない少年の姿を痛切な眼差しでエスは見つめていた。

「なんだ古巣少年、親の仇が死んだわけだが、もう少し喜んでもいいんだぞ」

「……フィスクどの」

「冗談だよ。ただ、あながち嘘でない。少なくともそれぐらいの心持でいたほうが気楽でいいぞ。変に悩んでもしょうがないことではある」

「父は……」

「うん?」

「結局、父は何故……死ななければいけなかったのでしょう? 一体だれが……」

「……さあな。真相はもはや闇の中だ。アサクラを捕まえて聞けば、あるいはセリザワが消される理由がわかるかもしれないが……その割にはこの内容が内容だ」

「『御前会議』に報復――穏やかじゃないわね。そんなことできるのかしら」

 いつのまにか紅茶を飲み干してしまったのか思い出したかのようにナナは言葉を零した。

「『御前会議』に報復ね。まあ偉い奴ってのはそれだけで恨まれるものだしそういうこともあるんじゃないか? もっとも真意のほどはアサクラ当人に聴かねばわからないわけだが」

「どうして――」

 掠れた声をイオリは上げた。

 ひどく傷ましいが、しかしけしてそれだけではない声音だった。

「こんな手紙がわが家へ? 何の目的があって?」

「手紙が届いたのは古巣家だけじゃない。『御前会議』に連なる貴族連中の家、皆に届いている。さきほど俺の部下であるサキに確認させたが凪色邸にも届いていたぞ」

「脅迫や犯行予告の類ということですか?」

「……しかし、僕の家は『御前会議』なんて高貴な家柄に連なるような血筋ではありません。確かに父は警視総監という立場の上で恨みを買うことは考えられますが、しかし……」

「不可解だよな。俺も君の玄関ポストに見知った封筒があって驚いたよ。だがあまり気にしてもしょうがないんじゃないか? 相手は頭の可笑しい殺し屋なのだからな」

「……」

「イオリくん」

 そっと、エスは少年の肩を抱いた。

 幼く、線の細い少年の体は不安げに揺らいでいて、そのことが彼女の胸をきゅ、と締め付けるようだった。

 それは、どこかかつての自分のようでもあったから。

「それで、私の家に届いたという手紙はどうしたの」

「ああ、サキに始末させたよ。取り合えずしばらくは警戒しておくことだな。俺も色々と手配しておくから。なにせ、警察とは仲良しなのでね」

 痛切な顔をしていたイオリの顏にさらに複雑そうな表情が加わる。

「そんな顔をするなよ少年、皺がふえて老けて見えるからね」

 そんな言葉を残すとおもむろにフィスクは立ち上がった。

「あら、もう行くのね」

「ああ。知っての通り俺はこう見えて忙しい。きみのことを傍で守ってあげられなくて残念だが……」

「エスがいるから貴方はいらない」

「だってよ。酷い婚約者様だよな、エス殿」

「はい。必ずやわたしが貴女をお守りいたします」

「…………まあいいや。ではね古巣少年、邪魔をした」

「お見送りいたします」

「そうかい? 気が利くな」

 そうして席を立つ男衆二人。

 ガタイのいい金髪の男と線の細い黒髪の少年が並ぶ姿は少し可笑しな感じがした。

「……紅茶、なくなってしまったわね」

「では、淹れてきましょう」

「別にいいわ。私たちももうすぐお暇するのだし、エスといたいの。あの子に今日は貴女を取られていたみたいで淋しかったから」

「――はい」


 背中越しにそんな二人の会話が聞こえてくる。

 どうもそれで少し心が軽くなる感じがした。

 特に、エスが嬉しそうにしていると自分も嬉しいなと思う。

「古巣少年、エスに気があるのか?」

「え、あ。そ、その……」

「まあ美人だし優しい女だしな無理もない」

「……ですが、彼女には主人である凪色さんがいます。僕の入る余地はありませんよ」

「そうか? そうでもないと思うが」

「ええ、そうですよ」

 軽く歩いて、玄関先につく。

 古巣邸は凪色邸とは違って、そこまで広くはない。

 少年が一人で、遺産を切り崩しながら管理できるのはその所以があるのだろう。

「ではね」

「はい」

「少年。ほしいモノがあるなら貪欲に取りに行ったほうがいいぞ」

「……ははは」

 少年は困ったように笑った。。

「なあところで、きみにはあの二人がどう見える?」

「エスさんと凪色さんのことですか?」

「そうだ」

 車に乗り込みながら、唐突に男は聞いてきた。

「とても、特別に仲がいい。そう思います。互いを信頼しあい大切に思いあっているように」

「……そうか? きみにはあの二人がそう見えるか?」

 フィスクの表情は見えない。

 ポーカーフェイスを作っていた。

「フィスクさんには、違うんですか?」

「ああ。俺にはその逆に見えるよ」

 フィスクは感情の見えない顔でそうつぶやくと、車を出した。

 呆然とその車をイオリは見送った。

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