chapter2-2 接触
夜の闇のなか。ぼんやりとした明かりが灯る凪色邸の一室。
薬缶からゆるゆると湯気が漏れている。
エスが淹れた紅茶をナナは口につける。
ほぅ、と一息を吐いた。
「――、ええ。うん。やっぱり、私、エスの淹れてくれた
「ありがとうございます。今夜の紅茶はいつもと茶葉を変えてみたので、ナナ様のお口に合うのか不安だったのですが……おほめ戴き嬉しく思います」
そういって、エスは自分の淹れた紅茶に口を付ける。
すると口いっぱいに広がる雑味に首を傾げるエスであったが、ナナは案外とこういう雑味が強い味が好みなのかもしれないと納得した。
ぼんやりとした風が屋敷の窓を叩き、ぎしぎしとした音を立てる。
「この屋敷も、もう古いモノね」
「ええ、そうですね。修繕を行いたいのですが、どうにも業者が忙しいようです」
「修繕? そう……でも私、いっそまとめて立て替えてもいいと考えているの。遺された遺産は百年先まで閉じこもっていても不自由しないほど残っているのだし、いっそもう少しこじんまりとしたお屋敷になってもいいと思うわ。この屋敷は無意味に広すぎるし豪奢すぎる……埃をかぶった部屋が多いのはどうかと思うし、小さなお屋敷にすればエスのこと、もっと近くに感じられると思うの……」
「ナナ様がそうおっしゃるのなら……しかし、少し残念に思います」
「残念?」
紅茶の水面が揺れる。揺れた水面に歪んだナナの顏が映る。
「このお屋敷には、かつてのわたしとナナ様のおもいでがたくさん詰まっていますので」
「…………………………。、そう、エスがそういうなら、屋敷の建て替えはしないでもいいわ」
長考の後、ナナはそう答えた。
エスがそういうのならば、それでいいのだと思う。
ナナとしてはこの屋敷自体には何の思い入れもないのだけれど。
「ナナ様?」
「ねえ、エス。今朝フィスクが言っていたこと、どう思う?」
当然の話題の変換に若干のびっくりがあるエスであるが、ナナの話す話題がころころと変わるのは割とよくあることなのですぐに適応する。
「アサクラ、という殺し屋からの手紙は確かにこの屋敷のポストに入っていました。これはフィスク殿の運転手である先さんからも確認済みです。文面はイオリくんの所に来ていたものと似たり寄ったりのモノでした。既にフィスク殿に頼んで処分ずみです」
「そう」
何でもない、どうでもいいことのようにナナは相槌をうつ。
殺し屋から手紙が届いた。そんなことは、それ自体は、本当に、どうでもいいことなのだが。
「だいじょうぶです、ナナ様。貴女のことは必ずわたしがお守りします」
そう、毅然とした眼っすぐな眼差しでエスが答えるものだから反射的に「ええ」と答えてしまう。
再び紅茶に口を付けるするとすぐにカップが空になってしまった。
思うに、このティーカップというものは容量が少なすぎるのだと思う。
「お代わりもありますよ」
「いいえ。もう十分よ」
ただ、これ以上呑むと、お手洗いが近くなるという難点もあるのでそこは考えモノではあるのだけれど。
「ねえエス」
ふと、ずっと言いたかった言葉、聞きたかった言葉を口にする。
「私と貴女、これからもずっと一緒にいられるわよね」
それはたぶん、何でもないような言葉。
「ええ。ナナ様がそう望むなら、私はいつだって貴女とともにあります」
だから、エスはそう答えた。
それが、どういう意味を持つのか、エスはそれを理解できないでいる。
※
夜半。
軽い夕食を取り、使用した食器を洗う。
決して大きくはないが、別に小さくはない古巣邸の一室、一人で過ごすには広すぎるダイニングのなか、橙色の明かりが灯っている。
イオリ少年はさっと食器を洗い、夕食を取ったテーブルを拭く。
それから流れでダイニングの清掃に入る。
昔からまめな性質なのもありイオリ少年が管理する屋敷には埃一つない。
それはもう、誰も使うことがない背の高い椅子や父の書斎も同様である。
そのことに虚しさを憶えないわけでは、ないのだけれども。
リンゴン。
ふと、屋敷のベルが鳴った。
掃除と入浴を済ませて趣味の読書を嗜み、あとは眠るだけだったイオリは怪訝な顔をして屋敷の古時計を見た。
文字盤は11時を指している。
いくら自分に社会経験が薄くてもわかるこんな時間の来客は非常識だと。
リンゴン。リンゴン。リンゴン。
呼び鈴がなる。怪訝な顔が深まる。
しかして、このままずっと鐘を鳴らされても困るわけなのだが。
「……どうしよう」
半年より以前、仮に不審者が現れたら父上が追い払ってくれていたのだろう。
父は厳格で強くて、正しいひとであったから。
「………」
リンゴン。リンゴン。リンゴン。
呼び鈴はなり続けていた。
イオリは父の書斎に向かう。
厳かな書斎だ。
何やら分厚い木製本棚とごついデスク。
生前は、この部屋に入ることを固く禁じられていた。仕事の邪魔だったからだろう。
きょろきょっろと周囲を見回すと確かにあった。
ゴルフのパターである。
「父上……結局ゴルフなんてやったのかな?」
新品でピカピカの鉄の棒を手に持ちながらイオリは玄関先に向かう。
リンゴン。リンゴン。リンゴン。
けたたましく、呼び鈴は一定のリズムでなり続けている。
「……どちらさまですか?」
ぎゅっ、と父のパターを握りしめて問う。
果たして分厚い玄関の扉越しに届くのだろうかというようなか細い声であったのだが、しかして呼び鈴はすぐにやんだ。
「やあ」
女の声がした。
とても澄んだ、高いが耳障りではない、そんな綺麗な声だった。
「……そのか細い少年の声……きみが古巣イオリくん?」
「……」
「……黙りこくらなくてもいいんだ、これでもちゃんと調べて来たよ。この屋敷にはきみしか住んでいない」
「……」
「ところで、私を屋敷にあげてほしいんだ。きみとお話がしたくてね。こんな時間に非常識であるとは重々承知の上ではあるのだけれども……きみにとっても決して損がある話ではないと思うんだ」
「……アサクラさんって、貴女のことなんですか」
「うん。そうだよ」
「殺し屋と聞いています」
「まあね」
「僕を殺すのですか?」
「しないよー。私のターゲットはきみじゃないからね。ただきみとお話がしたいなーと思ったんだ」
「……どうして」
「今、私はね、とある組織を追っているんだけど」
「『御前会議』ですよね?」
「ありゃ、知ってたの?」
「手紙に書いてありました」
「んー、そういや書いたかも。あは、ごめん、覚えてなかったわ」
「『御前会議』――『東京』の政治経済の決定権をも中枢機関のようなものと説明を受けました。『東京』でも特に高貴な方々が代々運営しているとも――それ以上の詳細は知りませんが、そのような方々を相手どるような真似は、僕にはできませんし貴女も、やめたほうがいいと思います」
「……ふむ」
扉の向こうが静かになる。
何やら考え込んでいる様子だった。
すると、
「きみは、うん。正しいね。あんな連中を相手するものじゃない。けれどもね、とうの私としては、連中に一泡吹かせなくてはいけなくなってね」
「……」
「聞いてくれないかな? 連中、私にセリザワの処分を頼んだくせにその分の報酬を支払わなかったんだよ。しかも毒殺なんていう、つっまんねー。なやり方を指定してきたくせにね。さらには私の拠点に爆弾を仕掛けていやがった。おかげさまで私はいまホームレス。家なき子。哀しみがあるね」
「……それは、大変だと思いますが…………もしかして泊めてほしいとか言いませんよね?」
「だめ?」
「……………ダメです!」
「ふふふ、逡巡が見えたね。人がいいんだ、イオリくん」
困った気持ちだ。扉の向こうにいるのが人殺しだというのに全然そんな気がしないでこうして話し込んでしまっている。
というか、家がないのか。それは、困るだろうな……。
「…………」
しかし、彼女を家にあげるのはいくら何でも無防備が過ぎるというか、そもそも男子一人の家に女性を上げるのは倫理的に云々。
「悩めるきみにひとつ、わたしからお話をもちかけてあげよう」
それをまるで何でもないことのようにアサクラは言葉にした。
「きみの御父上を殺すように言ったのは『御前会議』だよ」
がちゃりと扉が開いた。
小柄で細身な少年が顔を出した。
その形相は、けして穏やかな物ではなかった。
「ああうん。やっぱり、きみ、良い貌をしている。私の中のビビっとは間違いじゃなかったね」
※
「……どうぞ」
「ありがとう、イオリくん……うん、美味しい、きみは紅茶を淹れるのが上手いね」
「ありがとうございます」
紅茶を嗜むアサクラ。
背の高い中性的な容姿にラフな格好をしたアサクラは古風な古巣邸の中にあって割と浮いていた。
イオリとしてもあまり見ないタイプの女性なので少々戸惑ってしまう。
「ほら、イオリくん。いつまで立っているんだい? 座って」
「……はい」
ダイニングルーム。テーブルをはさんで向き合うように二人は紅茶をすする。
「その、先ほどの話なのですが……」
「ああ、まあそう慌てないで」
アサクラはまっすぐに澄んだ眼差しでイオリを見つめる。
とても人を殺して生計を立てている人間には見えなかった。
「そうだね、どこから話したものか」
少しばかり思案する様子のアサクラではあったが、おもむろに語りが始まる。
「『御前会議』にはリーダーがいるんだ。『陛下』と呼ばれている。どのような人物でどのような来歴であるかは不明瞭だ。なにせ、その高貴な血筋は下々の目に触れてはいけないことになっているからね。さて、とりあえず『陛下』と呼ばれる存在がいることは覚えておいてくれ」
「はい。『御前会議』のリーダー、『陛下』ですね」
「うん。さて、そこで話は十年前に遡る。凪色家のお嬢様の誘拐事件だ。これは知っているね」
「はい」
「私はね『御前会議』のメンバーのうちの誰かしらが企てたものであると思っている」
「……な、」
「凪色家が代々、『御前会議』のメンバーであったことは知っているだろう、それは当時の凪色家の母、
「ポストの奪い合い、ですか?」
「そう。私は十年前の凪色伊呂波の死をきっかけとした『御前会議』内での権力闘争で凪色ナナの誘拐事件は発生したと思っている。立場が強く世襲される『東京』において凪色伊呂波の亡き後、そのポストを継ぐのは凪色ナナだ。順当にいけば彼女が成人した後、『御前会議』のメンバーとして迎え入れられることになる。しかし、その前にナナがいなくなれば、そのポストは永久に欠番となり、仕方がないから別の誰かが入らなくてはならなくなる」
「……たしかに、そう考えるのは普通ですね」
「そうだね。ただ、そんな情報は憶測も含めて報道も何もされなかった、不自然なくらい噂すら立たなかったんだよ、当時はね。不思議だね」
「……」
「さて、時計の針は現在の半年前にまで進むことになる。何でも屋なセリザワくんによって、連続殺人が発生することになる。対象は、十年前に凪色家にいたメイドや使用人、仕事上の関係者、誘拐事件の実行犯たち――その中にセリザワくん自身も含まれているね――捜査関係者たち。直接的に当時の事件を知っている人間たちをターゲットにして口封じが行われたと考えられるね。ここまで共通点が明快だと隠す気がないのかと思うが、自分たちが圧倒的に上位の存在だからという驕りがなせる業だね。――私だったら、途中でフェイクに無関係な人間を何人か殺して共通点を探らせないようにするけど」
「では――」
途中で入ったアサクラの言葉を遮ってイオリは尋ねる。
「どうして……父が狙われたのですか?」
「……それは、――きみの御父上が誘拐事件の指揮を執り、そして無理やり操作を打ち切った人間だったからだよ」
窓の外に音が鳴る。
どうやら雨が降り、風が激しくなってきたようだった。
※
「じゃあ、私はこれで帰るね。紅茶、ごちそうさま」
「え、家、ないんじゃないんですか?」
「んん? ああ、あれは嘘。確かに拠点の一つはぶっ飛ばされちゃったけど、セーフハウスは他にいくつもあるんだよ」
「なんでまたそんな変な嘘を……?」
「きみの反応が見たくてさ、そしたらきみがいい子なことが分かったんだ。ごめんね?」
てへ、と小さく舌を出すアサクラ。
「もしかして、期待しちゃった?」
「いいえ」
あくまで毅然と答えつつ、困ったような、呆れたような顔をイオリはした。
「通報する?」
「……」
「別に構わないよ。その前に私はずらかるから。でも……できればしないでほしいな。もし万が一逮捕されちゃったら、すぐに殺されちゃうだろうし『御前会議』の鼻を明かせないからね」
「……」
少年は考え込む。
自分の中の正しさは今すぐ目の前に美しき人をしょっ引くべきだといっているけれども、それと同時に。
「……貴女を泳がせたら、何が起こりますか?」
「『御前会議』が何をしようとしているのか解き明かしてめちゃくちゃにしてあげる」
「……彼らの目的は、凪色さんのポストの簒奪ではないのですか?」
「だとしたら直接的に凪色ナナを殺せばいい。当時の関係者を一人一人消していくなんて面倒な事なんかしなくていいんだ。所詮、『東京』のほとんどの人間にとって『御前会議』のごたごたなんてコップの中の嵐に過ぎないんだ、彼らが何をしようとほとんどの民にはどうすることもできないんだから。おそらく、もっとごたごたした何かがあるのだと私は踏んでいるよ」
「それは……」
「『東京』という社会は実に歪だね。多少の立場の変動があれど血脈と立場が密接に絡みすぎている。あまりにも硬直化した社会だ」
「そうですね……」
「でも、おかげできみに会えた。わたしがきみに会いに来た理由なんだけれどもね、きみが一緒なら調査が楽になるかなーという思い付きによるものなんだ」
「?」
一番に怪訝な顔をするイオリ。
アサクラのいうことはどれもどこか自分が話したいことを話している感じがするが……その中でも飛び切りに要領を得ない言葉だった。
自分はただの少年で、何かをできるような人間ではないのだけれど。
「……ふむ。ところで、イオリくんは今の警視総監が誰だかしっているかい?」
「? 前に副総監だった方では?」
「違う。彼は確かに現状の警視総監の仕事をしているが、肩書は副総監のままだ。それが『東京』という場所なんだ――――きみだよきみが総監なんだ。たしかにまだ幼いからその仕事をしていないけれどもね、そのポストはきみのものなんだ。きみの御父上はそのポストを『御前会議』に与することで手に入れた。立場が常に世襲されるこの『東京』で信じられないことに成り上がりという奴を成し遂げてね」
「……」
「きみの御父上は、けして善人とか正義の味方とかじゃなかったのかもしれないけれど、すくなくともきみにはそういうものを残していたんだよ」
イオリには父がわからなかった。
厳格な人間であると思っていたが、それだけの人間ではなかった。
正しいひとであると思っていたが、よく考えれば、自分は家の外での父のことを何も知らなかったのだ。
自分の中で、釈然とかみ合わないものが増えていた。
「一晩、考えてもらいたい。明日の正午、再びきみを尋ねるよ。きみが一緒だと色々心強いかもしれないけれど、断る権利はきみにある。わたしと一緒に行くにしても袖にするにしても警察を使って逮捕するのもきみ次第だ。無論、自分ではない誰かに選択をゆだねてもいい」
そういってアサクラは古巣邸から去っていった。
少年は一人、また夜の仲に取り残されてしまう。
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