chapter2-3 くるくるまわる1
エスの朝は早い。
日が昇る前には目を醒ます。
幼い時分からずっとそうだった。
もとよりショートスリーパーなところがあったのだ。
布団から起き上がり、さっと着替えて身だしなみを整えると凪色邸のリビングへ向かう。
冷蔵庫を開けていくらかの食材を取り出す。
ベーコンエッグでいいかと考える。
ナナは何でも好き嫌いせず食べてくれるのでエスとしては嬉しい限りなのだが、ちょっとだけやりがいがなく感じてしまうところもある。
料理自体はまだ行わない。
ナナが一番おいしく食べれるように調理開始時間は調整している。
食前にコーヒーを飲む。
ぼんやりと窓辺に目をやった。
窓の外、相も変わらない灰色のソラ。
ずっと『東京』の空は変わらない。
変わらないでいてくれる。
ふと。
ジリリリリリリ。
とベルが鳴った。
玄関の呼び鈴ではない。
何の音だろう、と音源を探す。
廊下をいくらか練り歩いたところで電話が鳴っている音だとわかった。
受話器を取る。
「はい。凪色です」
「エスさん。おはようございます」
「あら」
電話口から流れる声の主は聞きなじみのある少年のモノだった。
※
「おはよう。エス」
「おはようございますナナ様。……おや、今朝はなんだかいつもより眠そうですね?」
「ええ、少し鳥のさえずりがね?」
「?」
昨晩、鳥が鳴いていたような覚えがエスにはなかった。
はてなマークを頭の上に浮かべるエスをしり目にナナはテーブルに着く。
朝食はベーコンエッグだった。
「美味しいわ、エス」
「ありがとうございます、ナナ様」
いつもの朝の光景だ。
今日もおそらく、何もないままに一日が過ぎていく。
屋敷の中でエスと過ごす。それだけで良いのだと思う。思っていたのに。
「もうしわけありませんナナ様。わたし、今日は少し用向けがございまして」
「あら。また例の少年関連?」
「えぇと……」
困ったようにわたわたするエスである。
その様子でそうなのだなと確信する。エスはナナに嘘はつけないものなのだ。
「私もついて言っていい?」
「申し訳ありません。故あってナナ様をお連れするわけには……」
「そう――逢引きなのね」
エスはもうそれは面白いように目を白黒させた。
「け、け、けして彼とわたしはそのような淫らな関係ではなく……!」
「はいはい。わかっているわ」
はらはらとナナは答える。
「……すみません」
「ん。好きにするといいわ。私、どうせ一日この屋敷の中にいるもの」
「……はい。ありがとうございます」
そうしてなにごともなかったかのように朝食は進んでいく。
食事を終え、食後のコーヒーを飲みながら、ナナは窓辺を見やる。
いつまでも変わらない灰色の空は。しかし『東京』から吐き出される煙によって絶え間なく厚さと形を変えていく。十年前の空よりも、今の空は暗いのだ。
そんな、益体もないことをナナは考える。
コーヒーに口を付ける。苦みが口の中にある。
あるだけ。そこに美味しいとか不味いとか、思う余地はない。
テーブルの向こう、食器を片し終えたエスが自分の分のコーヒーを淹れて、美味しそうに飲んでいる。
「うん。私、エスのやりたいことは、否定しないわよ」
そう、ナナは一人ごちた。
※
歩き、歩く。
そうしてエスはまた古巣邸にたどり着いた。
古巣邸と凪色邸は酷く対照的だと思う。
やたら大きくて十年前まで改築新築を繰り返しており今やどこかしこがガタついている大きな凪色邸とは対照的に、古巣邸は相応の大きさで適切に管理がなされている。
凪色邸の手入れをしたい気持ちがあるが、どうにも自分では手が回らないままだったし、ナナもあまり興味がない。
古巣邸の綺麗に整えられた小さな庭さきを見ていると穏やかな気持ちになるのをエスは感じていた。
聴けばイオリ少年がずっと手入れをしているらしい。彼が父親を亡くす以前から。
健気だと思う。し、応援したいとも思う。
だからこそ、今日は明確に彼と話さなくてはいけないとも思う。
リンゴン。
「はい」
「こんにちは」
「おはようございます。エスさん」
少年は彼女の顔を見て顔をほころばせた。その眼もとにはうっすらと隈が出来ていた。
「単刀直入に言うとですねイオリくん。そんな殺し屋とは手を結ぶべきではないとおもうのです」
そんなことをエスは言った。
至極当たり前のことだよなとイオリは思う。
昨晩のアサクラとの対話からこっち一晩の間眠れなかった。
ずっと、形にならないふわふわとした考えが脳裏をくるくる回り続けていた。
そんなわけで今朝、イオリは電話帳を開けて凪色邸に電話をかけたのだ。
エスが出てくれることを願いながら。
結論としてその目論見はあたり、少年はエスに電話をしたのだ。
内容としては端的に「アサクラが自分に接触を図ってきた。彼女には自分に危害を加える意図がない様子だったが――自分にある取引を持ち掛けてきたのだ。その話を受けるのか否か、その相談をしたい」という旨。
残りは会って話したかった。
単純に彼女と会いたかったのだ。
今の自分が最も信頼できる
そんなわけでエスがやってきた。
彼女をダイニングルームに招き入れる。紅茶を淹れようかと思ったら、それはいいよ。といわれてしまった。
二人、テーブルを挟む。
そしてエスの開口一番の台詞が先ほどのモノだった。
「どう考えても碌なモノじゃないですし。人殺しの言ってきたことなんて」
「いえ、確かにそれはそうなのですが」
「わたしは年長者として言わせてもらうけれども、そんな怪しい話は端から聞かないに限りますよ。大体――」
くどくどとした話が続きそうになる。
こういう時の彼女はちょっと面倒だ。
なので、パッとイオリは掌を出して話を制する。
「あの、彗透さん。僕の話をまず聞いてください」
「う……うん。ごめんなさい」
反省するようにしゅんとなるエス。
そうしてイオリは昨晩のこと――、アサクラとの会話の全容を話し始めた。
※
誰かに尾けられている。
アサクラはそう確信した。
昨晩、イオリと話してからこっち寝てないので少々、集中力を欠いていたらしい。普段ならもっと早くに気づけた。
「……だからといって、後れを取るわけではないけど」
さっと物陰に身を隠した。
追っての人間は備考に気づかれたことに気づき、踵を返した。
「……深追いはしないんだね。ちゃんとしてる」
だがそれは無意味だった。
一体いつの間に自分の後ろに彼女がついていたのか、それを理解する間もなく、追ってのものは絶命した。
脳天と頸にナイフが刺さっていた。
「あ、死んじゃった。もうちょっと遊ぼうと思ってたんだけどな」
くるくるとナイフを弄びながら、アサクラはぼんやりつぶやく。
カチャンとナイフを納刀すると、ぼんやりと空を見つめた。
何の変哲もないつまらない灰色の空だ。特にどうという感情もない。
後を尾けられてしまった以上。当初の予定とは違う拠点に向かうべきなのだが――、如何せん遠い。
おそらく一旦帰ったところでそのままとんぼ返しで古巣邸に向かうことになるだろう。
それはいささか無駄だ。
「うん」
だからアサクラは予定を変更することにした。
この死体をさっくり処理した後、とっとと古巣邸にむかうことにしたのだ。
※
「――、というような会話があったのですが…………彗透さん?」
語りを終えて、ふと、イオリはエスを見た。
彼女はじっと、机を見つめるように俯いていた。
「……………」
「……エスさん、どうかしましたか?」
「ううん。何でもない」
「そうは見えません」
「……イオリくん」
「はい」
「イオリくんは……その、アサクラって人が言った話、どこまで信じてる?」
「全部信じてる……わけではありません。半信半疑といったところです。しかし、いくばくかの真実が含まれているのではないかと考えています」
「そう……。それは、……凪色家についてのこともですか?」
「………僕は、凪色ナナさんのことは嫌いではありません。彼女に傷ついてほしいとも思いませんし、アサクラさんが凪色さんに危害を加えるないし傷つけるつもりであるならば、当然放っておくつもりはありませんし彼女と手を組むことはしたくないです……そのうえで、もし凪色家が本当に『御前会議』の権力闘争の渦中にいるのだとしたら、それは僕の手に負える事態ではない、のです」
「……」
エスは、イオリが初めて見るほどに暗い顔をしていた。
それはまるで断頭台にむかう囚人のようでさえあった。
どうしてそんな顔になるんだろうか。
凪色ナナの誘拐事件。十年前、彼女の主人に起きた事件がいまだに尾を引いているのだろうかとイオリは考える。
もしくはまもなく『御前会議』の一員となる凪色家当主のナナを案じているのだろうか。
それだけ?
無論、どちらも大ごとではある。エスにとってナナが大切な存在であることをイオリは理解しているつもりだった。
だが、だとしても。
どうしてそんな、断罪を待つ罪人のような顔をするのだろう。
ふと、脳裏にフィン・フィスクの言葉がよぎる。
『……そうか? きみにはあの二人がそう見えるか?』
「………彗透さん? 貴女は一体、何を案じて――」
リンゴン。
呼び鈴がなった。
二人は時計を見やる。
まだ正午まで時間がある。しかし、古巣家にほかに来客の予定はなかった。
「……わたしが出ます」
「彗透さん……」
彼女が扉に向かう。
リンゴン。リンゴン。リンゴン。
一定のリズムで打たれ続ける呼び鈴。
ガチャリと扉が開かれる。
女性がふたり、対峙する。
「…………」
「…………」
「…………アサクラ?」
「きみは誰?」
抜刀、
エスは絶えず腰に差している刀を抜きはらった。
がきゅる、と音がして切っ先の軌道はしかし跳ね上げられる。
懐からナイフを取り出すアサクラのが速かった。
そのまま勢いでドアの外から屋内に突っ込む。
崩れそうになる体勢を体を捻りながら無理やり修正するエス。
眼前に迫るナイフをギリギリで躱す。
「うん? きみは……」
振り降ろし続ける両手のナイフとは切り離された思考のもと目の前の斬りかかってきた人間について考察する。
「ふうん……」
乱打される刀の斬撃を両手のナイフでいなすアサクラ。
「……ッ⁉」
対し先ほどからいくら斬りかかってもいいようにいなされて焦りが隠せないエス。
「――彗透さんっっ!」
「お、やあイオリくん。この人はきみが呼んだの?」
「はい……アサクラさんのことを相談しようとして。彼女は――彗透さんは僕が一番、信頼している人なので」
「エス……ふーん。なるほどね、だとしたらイオリくんは適任とは程遠い人間を選んでしまったと言わざるを得ない……ねっ!」
二刀のナイフがエスの刀を抑え込む。
跳ね上げられた刀の切っ先は天井に突き刺さった。
「まるで素人だ。刀を使うなら屋内では脇差しを利用するのがセオリーだろうにっ」
アサクラ、エスの腹を蹴り飛ばす。
ぐえ。といううめき声とともに廊下の奥にゴロゴロと転がっていく、と思われたが、
「ほ⁉」
完全に態勢が崩れたと思っていたらそこから復帰を果たし、手を床につき勢いで蹴りを頭部に当てに行く。
腕で咄嗟にガードするアサクラ。が、流石に勢いまでは相殺できない。
今度は彼女が体勢を崩すばんだった。
アサクラの懐から小瓶が落ちて、くるくると転がる。
そちらに一瞬、視線を移す一同。
刹那の硬直。
双方の復帰は一瞬のことだった。
アサクラは両手のナイフを、エスは天井に刺さった刀を無視し素手で。
双方の交錯は一瞬のこと。
※
ジリリリリリリ。
凪色邸のなかに電話のコール音が鳴る。
受話器は置かれていない。こちらから電話をかけているのだ。
『はい。フィスクです』
「フィン。私」
『ああ。なんだナナか。どうした?』
静謐な屋敷の中に少女の声が響く。印象に反して、低い声だ。
「なんだ嫌な予感がするの」
『予感? なんだ? エス関連か?』
「そう。エス、また件の少年の所に行っているの」
『おお、なんだい。大事な大事な王子様がどこの馬の骨とも知らない男に取られそうってんで焦ってるのかい』
「………」
『冗談だよ。で、それ以外だと何が不安なんだ? あの忠犬はきみに操を立てているように見えるが?』
「……忠犬? …………まあ、いいわ。エスね、今回は私の同行を許してくれなかったの」
『ほう。じゃあふたりきりがよかったと? これは怪しいね』
「………もうそれでいいわ。気に入らないから、貴方、邪魔してきて。じゃ」
ガチャリと受話器を置いた。
あの男はこれで動くだろう。相変わらずデリカシーというものがないのかと思うが、アレはあれでわざとなのだろう。
流石に長い付き合いなので彼のことは理解している。
相手がどうかは、別として。
ナナはため息をついた。
悪い予感がする、というのは本当だった。
あの少年――意地でもナナは彼の名前を憶えたくないらしい――は警視総監の息子で、善良でエスに良くなついている。
なにか、正しい行いを為してしまうような雰囲気がある。
だからこそ、胸がざわつくものがある。
いずれ彼は――、あるいは――。
※
「やっば」
そういったのはアサクラのほうだった。
左手に持っていたナイフがエスの脇腹を裂いた。
見ればわかるが急所は外れている。
問題はアサクラの利き手である右手のほうであり、それが曲がって持ったナイフの切っ先が深々と右肩に刺さってしまっているのだ。
――それは交錯の刹那のこと。
エスはアサクラの右腕に意識している。
勢いよく右腕を掴むと、そのまま折り曲げる。
結果、アサクラの右手のナイフはまるで流れるかのように自身の右肩を貫き、もう一本のナイフを持った左手はあらぬ方向へ流れ、結果としてエスの脇腹をさくっと斬る形となった。
そして、エスはアサクラの右腕をまだ話してはいない。
ず、とより深くナイフを刺しこもうとしている。
「……ち」
アサクラは軽く舌打ちをすると容赦なくエスの傷口を蹴り飛ばした。
「―――――!」
声にならない声を上げてエスは倒れこむ。
同時に肩に刺さったナイフが抜けるアサクラ。
少しのよろめきをみせるが、しかし涼しい
ふと、どこからか響くエンジンの音。
「……この車の音……フィクスさん……」
ぽつりとイオリがつぶやく。
「え、まずいね」
アサクラはイオリにすたすたと歩み寄った。
そして怪我をしていな左腕で少年をひょいと持ち上げる。
「わ」
「ごめんよイオリくん、前言撤回だ」
「どの前言ですか?」
「私との関係を決めるのはきみの自由だ、的な事を行ったこと。悪いけど事情が変わってしまったからね、きみを誘拐させてもらう」
「ええ⁉ 困ります⁉ 彗透さんを放ってはおけません!」
「あ、そっちなんだ。でもごめんよ、急所は外したし重たい怪我は負わせていないから、多分あの
「そ、それなら……いえやっぱり彼女を放っては⁉」
「本当に申し訳ない。というか、きみは自分の心配をしないんだね」
「というかアサクラさんだって怪我してる!」
「……」
少し困った顔をしてしまうアサクラであった。
だが、これ以上話す余裕はない。
どやどやと、金髪のマフィアが押し寄せてきている。
ばっ、とイオリを抱えたまま彼女は古巣邸の窓から飛び出した。
フィスクは入れ違いに出ていったアサクラに気が付かない。
小瓶が床の上を転がり、蹲るエスの傍に触れた。
『ダークフォール』とラベルには書かれている。
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