chapter2-6 圧力

「大丈夫、イオリくん」

 冷たいステンレスの机に突っ伏していた古巣イオリはゆっくりと胴体を起こした。

 耳を打つ、低くあたたかな声の主は心から心配そうに、少年を見つめている。

「大丈夫です。これぐらいのこと、なんてことありませんから」

 そういって微笑みを、少年は浮かべた。

 ほんとのところをいうとフィスクにぶちのめされた箇所はいまだにじんじんと痛むのであるけれど、目の前の女性の前では少しばかり見栄を張りたかったのだ。

「エスさんも、そんな顔しないでください。まるで、僕よりもずっと、痛いみたいな」

「……そう、だね」

 エスはぎこちなく微笑む。

 痛みをこらえるように。そしてきっとこの痛みは彼女自身の自責からくるのだろう。


「エスさん」


 イオリは正面から聞いた。

 いささか唐突ではあったけれど、

 自分にとっても彼女にとっても今ここで話さなければいけないような気がしたから。


「エスさん。僕の父の話を聞きました。――サキさんからです、秘密ですよ?――父は確かに御前会議の指示を受けたセリザワに殺されました。理由として、まもなく行われる御前様――この『東京』の当主の――代替わりを邪魔しかねない不安要素として」


「父は十年前、凪色家の誘拐事件の捜査、そしてその陣頭指揮を執っていました。その事件自体は御前会議の一部による暴挙であったと聞きます。そしてその捜査の過程で、父は凪色家と御前会議にまつわる何らかの秘密を知りました。それが父を出世させた要因であり、父が死ぬことになった原因でもあると思われます」


「うん……」

 エスはうなずいた。その表情を、イオリはもう見たくないと思った。

 どうしてそんなにも、苦しそうなのか。

「エスさんは、父の知った秘密を、知っていますか?」

 エスは何も言わない。

「噓の吐けない方ですね」

 イオリは、そういった。

「フィスクさんは、父が御前会議の指示で殺されたこともセリザワのこともアサクラさんの動向も、ある程度把握していたと考えられます。彼は、その秘密を知っているのでしょうか」

 エスは首を横に振った。

「それはないよ」

「ええ、そうでしょうね。きっと、本当に限られた人間しか知らない秘密なのでしょう。気にはなりますが、きっと僕が知ることは生涯ない。

 ……でも、いいんです。父がどうして死ななくてはいけなかったのか、断片ではあれど知ることができて」


「イオリ君は、」


 どこかかすれた声で、エスは聞いた。

「わたしが、憎い? 君のお父さんの死の要因となったわたしが?」

「いいえ」

 イオリは否定した。それはきっと、まっすぐな言葉、まっすぐな青年の声だった。

「僕は、人を憎むことはしません。罪を憎んで人を憎まず、父が幼い時に教えてくれた言葉ですから」

「お父さんを、尊敬しているのね」

「はい」

 そう、少年は答えた。

 エスは、その場を立ち去った。





「凪色家には秘密がある。いい加減、自分にもそれが何なのかをですね……」

「ならぬ」

 きっぱりとアーサー・チューズデイはフィスクに告げた。

 武骨で不気味な玉座に縛られながら、落ち窪んだ眼はしかしてギラギラとフィン・フィスクを見据えている。

「……お前は、自分の役割をちゃんとわきまえているのか?」

「もちろんです。私の仕事、本来の目的とは――」


 凪色ナナの失脚――それに他ならないと。


「セリザワという小回りの利く良い駒をみすみすと喪いました。今さら、引き返したりなどはしませんよ」

「ああ。それでいい、それでいいんだよ」

「直接に手を下せれば、楽なのですが」

「それはだめだといったであろう。アレ《・・》が直接に『御前会議』に加入する意思を放棄する宣言をする必要がある。もともと、その手はずだったのが、どういうわけかアレはいまだに自分の立場を放棄しないでいる。よもやアレは本当に『御前会議』入りを考えているのかもしれない」

 アーサー・チューズデイは忌々しげな、滑稽なものを見たような、不気味な笑みを浮かべた。

「身の程知らずのエンプティめ……」

 口の端を引きつったよう上げるチューズデイを跪いたままでフィスクは見据える。「お前もだよ……名前は忘れたが――――この玉座が欲しいのだろう?」

「フィン・フィスクです。まさか、もとはよそ者の私が『御前様』の椅子をいただこうなどといった不敬を働くことなどありませんよ」

「ふん……まあいい。どうせこの椅子に座ることはできんのだ、みろ」

 ぎしりと軽くチューズデイは腰を浮かせた。

 するとカチリ、奇妙な金具の音がした。

 フィスクが怪訝な顔をしてその音のもとを見る。

 椅子が、男を拘束していた。

 禍々しい玉座から伸びた注射器の先のような管がアーサー・チューズデイの背中にいくつも刺さっている。

 管の間を流れているのはアーサー・チューズデイその人の血であった。

 ぐおんぐおんと異音を鳴らし、椅子そのものが体の一部であるかのように血液を循環させている。


「この椅子はな、血を飲むのだ。そして坐ったものを死ぬまで拘束する。我が血族、『御前様』の系譜の血を持たぬものは坐ることを許さない。そのとたん、この椅子は瓦解する。それはすなわち『御前様』並びに『御前会議』そのものの瓦解を意味する。――くくく、真の意味で『御前様』、すなわちこの『東京』を支配するものはこの玉座そのものなのかもな」

「……たしかに、私がその椅子に坐ることはなさそうですね」

「ああ。わかったら戻れ」

 フィスクは粛々と頭を下げてその場を後にした。

 淀みの溜まった『御前会議』から、さながら逃げ帰る下っ端のような様子で。



 「君は権力というものについてどう思う?」

 凪色屋敷の庭先。荒れ果てたテラス席でナナの淹れた不味い紅茶を飲みながら、フィスクはそう尋ねた。

「そうね」

 凪色ナナはフィスクの体面に坐り、相も変わらない無表情のままで答える。

「自分の思うことを為せる、させることができる力のことを権力というわね」

「そんな辞書の要約みたいな話ではなく、きみはそれに魅力を感じるかという話だよ」

「ええ。感じるわ」

 あっさりと、ナナはフィスクの問いを首肯した。

 それが少し意外ではあった。

 この女とは長い付き合いではあるが、およそ欲望というものを持たない人間だと思っていたからだ。

 何者にも、何事にも興味をいうものを抱かない、自我の薄い女。

 妻にするならこんな女がいい、と、初めて会った時から思っていた。

 凪色ナナがフィン・フィスクの予想から外れたことは今までほとんどなかった。

 だが、最近はその限りではない。

 その理由は明白だが。

「……そうか。それならもう少しできみも『御前会議』いりを果たすわけだが」

「ええ。そうね」

「きみ。『御前様』と面会したことは?」

「ええ、あるわよ。幼少の砌ではあるし、彼もまた『椅子』に縛られていなかったころではあるけれど」

「……そうか」

 

 当たり前ではあるが彼女は自分よりも早く『東京』の最高権力者に面会を果たしていたのだ。

 とても、当たり前のことだ。

 ティーカップにかかる指に力が入るのをフィスクは感じていた。


「ところで、彼ももう年齢だ。次の『御前様』が誰になるのか、きみは知っているのか?」

 ふと、以前から疑問だったことが口を出た。

 それがわかればその人物に取り入ればいい。

 そんなことを考えて、知らべたことがあるが、驚くほどに綺麗にその人物に関する記録が抹消されていた。

 おそらく深入りすれば命もないだろうと直感で感じ、それ以降掘り下げることはしなかった。


「さあ。知らないわ」

「ま、そうだよな。現『御前様』のご子息がなるのだろうが、いったいどこのドイツなのか、そもそも存在しているのか――」


「フィン」

 どこか、冷たい真冬の枯れた風のような声だった。


 その声の人物が目の前のナナであることに一瞬、フィスクは気づけなかった。


「深入りは、禁物よ」

「……」

「私、貴方のこと、好きよ。だから、忠告しておく。あんまり、妙な欲は出さないことね」

「……ありがたく受け取っておこう」

 そういってフィンはあまりにも不味い紅茶を飲み干すと。

「美味かったよ、じゃあな」

 そういって凪色邸を後にした。



「あの女は知っている」

 そう、確信した。

 凪色ナナは『御前様』についての重大な情報――おそらくは次の――を知っている。

 凪色家の秘密が何なのか、なぜ『御前会議』は凪色家に失脚してほしいのか、その秘密の真髄はそこにある。

 証拠はないが、確証を、フィスクは得ていた。

 伊達に長い付き合いではない。


 フィン・フィスクはすぐに部下たちを集めた。

「病院へ行って、白騎エスを襲撃する」


 あの女――なんにも執着を持とうとしないあの女を動かすのに一番いい手段がそれであると、フィスクは確信していた。


 端的に――フィン・フィスクは愚かな男でしかなかった。

 


 

 

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