chapter1-3 十年越しの日々

 目を醒ました。

 何もない、窓のない部屋のなか。なんの光もささない。寝具のみの部屋の中。

 ナナはじっと暗い部屋の中で表情を変えないま天井をみていた。

 そうしてただぼんやりとするのが習慣なのだ。これはずっと。

 ただ、今日はいつもと様子が違う。

 ふと、聞きなれない音と嗅ぎなれない匂いがする。

 ナナはのっそりと立ち上がり、自室を出る。

 いつもは酷くひんやりと体を蝕む廊下がなんだか今朝は暖かい。

 

 ぺたぺたと階段を下りる。

 よく見ると積もっていた埃が綺麗になくなっている。

 窓辺から差し込むあかり。

 ずっと曇っているか雨が降っているかな『東京』においては珍しいことに、雲の切れ間から日が差しているのだろう。

 ふと、誰かの後姿が見えた。

 細身で長身の女性だった。

 見慣れない背中でありながら、それはあまりにも懐かしい背中。

 ふと、その女性ヒトが気づく。

「おはようございますナナ様。今、朝食が完成しますから、腰かけてしばらくお待ちくださいね」

「……ええ、おはよう。エス」

 昨日までとは違う一日。一人きりの屋敷の中に大切な人が一人増えた日。

 穏やかな日差しの中で、ナナはエスが朝食(パンを軽く焼いたものにベーコンエッグを乗せたものと、コーンアンドグリンピース)を用意するのを待つことにした。

「しかし驚きましたよ。冷蔵庫に何も入っていなかったので。普段何を食べていらしたのですか?」

「普段。……何食べてたっけ? うん……付き合いでもらった何かしらとかパーティとか、学校とかで食事はほぼ済ませていたから。あんまり意識したことはなかったわ」

「……なるほど、あんまりよろしい食生活はしていなかったということで……やっぱり朝一に買い込んでおいて良かったですね。と、できましたよ。簡単なものですがどうぞ」

「うん。ありがとう」

 二人でリビングについた。

 朝食というものをきちんとるのは、一体どれくらいぶりだっただろうかと考えて、もしかしたら初めてのことかもしれないと考える。

「美味しいわエス」

「ありがとうございます。どちらかといえば料理は苦手とするほうだったのですが……喜んでいただけたならうれしいです。ところでナナ様、、先ほど学校とおっしゃっていましたが、通っていらっしゃるのですか?」

「たまに通っていたわ。もうすぐ卒業でね……結局、勉強らしい勉強はしてこなかったわね……」

「そうなのですか。それはもったいないかもしれないですね」

「そう? そういうものかしら?」

「はい。結局わたしは学校に行くことが出来ませんでしたから。無論、最低限の学は治めているつもりですけれど」

「そう」

 ベーコンエッグを口に含む。黄身が固くなっているのは手や口が汚れなくてよいなと思う。フィンが用意させるものはあんまりにもトロトロすぎて困るから。

 窓の外を見る。

 雲の切れ間から差し込む日光は既にふさがってしまい、すでにいつもの曇天が『東京』を覆っていた。

 少し、ナナは考えてから。

「じゃあ、今日は学校へ行きましょう?」

 そうきまぐれに提案した。



 学校の中に入る。

『東京』にはいくつかの大きな学校が存在しており、そのなかでも特に上流階級の人間が集う学校にナナは通っていた。

 凪色家の令嬢なのだからそれは当たり前なのだけれど。

「久しぶり、学校くるの」

「いいのですか、わたしまできてしまって」

「いいの、エスは私の従者なのだから、私の所有物ということ。私の傍にずっといてくれればなんの問題もないわ」

 アンティーク調の装飾が壁や天井を彩る廊下を歩く。

 カツカツと鳴る、大理石でできた床は『東京』の貴族たちの、実用性よりも見栄や張ったりを重要視する傾向がよく現れていた。

 

 ナナが廊下を歩くとき、ちらちらとこちらを見る視線がある。

 学校の下級生たちなのだろう。その視線は好奇を感じさせるものでもあるが、同時に尊敬や畏怖と近しい、高嶺の花を見るような視線だった。

 そう、この人は歩いているだけでそういう視線を向けられる人なのだとエスは改めて意識を引き締める。

「じゃあ帰りましょうか」

「え⁉ 来たばかりですよ⁉」

「だって学校でやることなんてないもの。もうすぐ卒業だし、卒業資格は申請済みよ。それに私、あんまり外って好きじゃないし」

「ご学友とお逢いしたりはなさらないのですか?」

「私、友達っていないの」

 しれりとそんなことをいうナナ。

「あ、でもエスは別よ。貴女は、友達……とは違うわね――。うん。私の大切な人」

「あ、ありがとうございます」

 うれしい。

 それはそれとして。

「ですが、ナナ様とお話したい方は思いのほかいらっしゃるようですよ」

「?」

 ちらりと視線をよこす。

 何人かの女生徒グループがこちらをちらちら、話しかけたそうに見ていた。

「ね?」

「……そうみたい。初めて気づいたわ」



 何人かの同級生、ないし後輩たちとナナは初めて話すことになる。

「凪色さん、その、私たちずっと貴女とお話してみたくて」

「凪色さんって、すごく高貴なお方で、でもなんだかあんまりにも憂いを帯びたような表情が印象的で、なんだか話しかけてはいけないような耽美さがあって……」

「ですから凪色センパイって私たちの憧れで」

「でもきっとお話しする機会なんてないと思っていたから」

「こうしてナナ様からお声がけいただけて嬉しい」



「……そう」

 少しばかりたじろぐナナ。

 自分が他人からどう思われているかなんて興味もなかったから、少しばかり話しかけてだけでこうも反応がいいと驚く。

「どうでしたナナ様。ご学友とのご歓談は?」

「卒業パーティに出席することになってしまったわ」

 別に予定があるわけでもないし、それ自体は構わないのではあるけれど。

「私はエスに学校という場所を楽しんでもらいたくて来たのに、私ばかりが注目されて……これでは本末転倒……」

「いいえナナ様、わたしは十分楽しませてもらいました。貴女のそばにいられましたので」

「なにをいうの。これからはずっとそうなのに」

 ナナの言葉に嬉しそうに微笑むエス。

 彼女のそういう顔はなんだか年相応の少女のようだなと思う。もっとも、エスの実年齢の詳しいところをナナはしらないのではあるけれど。

「行きましょう。今日はなんだか一年分くらい人と話した気がするわ。普段、まともに話すのなんてフィンくらいなものなのだもの」

「かしこまりました」

 ナナの口からでた、いけ好かない婚約者の名前に少々のもにょりを感じつつも恭しく言うことを聞いてナナをエスコートするエスである。

 二人、やたらと豪奢な学校を門に向かって歩く。

 学校の外に差し掛かったところで足を止める。

「ね。エス」

 語り掛けるようにナナは言う。

 す、と手を彼女の手に近づける。

 手の甲が触れる。

 肩口が触れ合う。

 この距離にまた彼女がいてくれる。

「私が、社交的だと、うれしいの?」

「ええ。ナナ様、貴女が誰かと笑っている。その相手がわたしではなくとも、わたしは嬉しく思います」

「そう」

 社交的な事はあんまり得意ではないけれど、あなたが嬉しいなら、いいなと思う。

 昔から察しの悪いエスは手をつないではくれないみたいだけれど、運命的に再開を果たせた貴女と私、まだそれでもいいなと思うのだ。



 学校と凪色家の屋敷はほど近いところにあり、登校する際も二人は歩いてきていた。

 普段だったら、フィスクが別途ボディガード――サキという筋肉質で高身長な女性、フィンフィスクの秘書の一人でもある――がついてきていたのだけれど、これからはエスが一緒だ。そう思うと、心が躍るし、帰りにデパートでいくらかの食材を買い込むだけの道程がなんだか、心地よい。歩くのはあまり好きではないのだけれど。

 随分と買い込んだ食材を抱えるエス、帰路に就くふたり。

 体の前側がほとんど埋まってしまうくらいの量を抱え込んでいるエス。だというのにその体幹は揺らがないあたり、ちゃんと鍛えてるのだろう。

 実際、この『東京』でひったくりや誘拐に出くわしていないのは――ここが比較的治安がましな場所だというのもあるが――彼女が発する気配によるものが大きいのだろう。

「冷蔵庫に何も入っていない状態は、やっぱり落ち着かないと思うのです。たまには美味しいい食事がないと人は生きていけないのだと、わたしの師も言っていました」

「師? 先生?」

「はい。十年前、お屋敷を離れることになった後、アーサー・チューズデイからわたしを預かり育ててくれたものです。今頃、隠居している身のはずです」

「ふーん。そう? でも其の人が言ってたこと、私はそんなに気にならないわ。いつもそうだったし、別に今、死んでいないでしょう?」

「死んでいないのと生きているのとは違うとも師は言っていましたが……」

「……」

「ごめんなさい。出過ぎた口答えをしてしまいました」

「いいえ。それはその通りだとも思うわ」

 顎に指先を当てて、少し思考しながらの様子でナナは首肯した。

 すこし、考える。

「ナナ様」

「うん? あら、もうついてしまったのね」

「ええ。しかし少々ここでお待ちください……何奴」

 きっ、と凪色屋敷の玄関先で佇む黒いスーツで長身の女を睨みつける。

 ちなみに、食材を抱え込んだままなので今一つ迫力はない。

「あら、誰かと思ったらサキ。なにかよう?」

「サキ……フィスク殿の秘書の方でしたか」

「ええ。凪色ナナさまとは顔なじみのモノですので、そちらの方も剣呑な雰囲気を治めていただけると幸いです。正直、玉ねぎの隙間から睨まれても反応に困ります」

 長身で筋肉質なその女性はエスに対し、表情を変えないままでそう反応した。

「で、何かよう? フィンはいない様子だけど」

「はい。フィスクは現在はずせない会議の最中です。本日、私はナナ様をお尋ねしたのは貴女にお渡しするものがあるからです」

「それはなに?」

「招待状です」



「警視総監の葬儀ですか?」

「ええ、招待されたの」

 カチャカチャと食器を並べながら、エスは話を聞く。

「この間の襲撃のときの方ですよね」

「ええ、私とエスが再会したあの時よ……夕食のこれは何?」

「シチューです。魚介や牛乳が入っていないビーフシチューです。本当はホワイトシチューにしたかったのですが、『東京』は魚介がなかなか手に入らなくて」

「あるところでは一局集中で取り扱っているそうよ。もっとも、私もあんまり食べたことはないのだけれど」

「そうなのですか? パーティ会場等ではあるものかと考えていたのですが」

「私の食事はいつもフィンがとってきていたわ。そして彼は魚介が嫌いなの」

「なるほど……」

 手作りのシチューを互いのお椀に盛り付けながら、エスは相槌をうつ。そして、二人は食卓に着いた。

「いただきます」

「いただきます」

 ついでに買ってきた市販のバケットパンとともにシチューを食べるエス。

 シチューだけをスプーンですくって口に含むナナ。

 黙々と夕食が進んでいる。

 ふと、エスは食事を止めて、言葉を発した。

「ナナ様にとって、フィン・フィスク殿という方はどのような方なのですか?」

「どうしたの藪から棒に。只の婚約者よ」

「いえ、ただ少しばかり気になってしまったのです。彼の御仁はわたしが知らないナナ様のことをよく知っていそうだったので……」

「そんなことないわ。彼との出会いはほんの二、三年ほど前のことだもの。アーサーから連絡があったのよ、彼が私の婚約者だって。それからほどなくして彼が現れて、私の世話を焼くようになったの……そういう付き合い」

「では、……ナナ様は彼のことはどのように思っていらすのですか?」

「別に――ただの婚約者よ。それ以上の感情は特にないわ」

「…………そうでしたか――」

「?」

 少しうれしそうな、どこか安心したような、そして寂しそうな哀しそうな顔をエスはする。

 彼女の感情の起因がどこから来るのか、今一つ測りかねるけれど、まあいいかとナナは流した。

 気が付けば夕食が終わってしまっていることに気が付いた。

「シチューってまだあるの?」

「いえ。これで終わりです、たくさん作っても余らせてしまうので――足りませんでしたか?」

「いいえ、もとより少食だもの。これで十分よ。ただ、エスと食事をする時間が終わってしまうから少し寂しいわ」

「食後にコーヒーを淹れます。まだもう少しお話はできますよ」

「そう。それはいいね」

 それからエスはコーヒーを二人分淹れた。

 あまりなれてはいなかったけれど、それなりにうまくいったと思う。

 こうして屋敷に中で夜が更けていく。

 凪色屋敷によるまで明かりが灯るのは、いったいどれほど久方ぶりだっただろうか。


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