第16話 お別れのとき。


「さ、最初はね……ただの私のわがままだったの」


 サワメがぽつりぽつりと語り出す。


「……去年の文月の頃に、ぼーっと空からいろいろなところを見渡していたら、ふと……とある海岸が目に入って」


 そこの砂浜では、たくさんの遊んでいる人たちが居て。砂でお城を作っていたり、海で泳いでいたり、カニやヤドカリを子供が追いかけていたり。


「すっごく、楽しそうだったの。みんな、キラキラした笑顔でね。私には、あんなに笑えるのが羨ましくて……だって、私、笑えなかったから」


 文月。月の異名のひとつで、七月のことだ。日本に古くから居るサワメにとっては、単に数字で表すより、ずっと使われてきた呼び名のほうが使いやすいのだろう。


 そして彼女は今、「空からいろいろなところを見渡していたら」と言った。


 ――サワメはやっぱり人間じゃない。

 神様、だから。


「サワメ、その」

 俺は乾ききった口を開く。

「笑えなかったって」


 どういうことだよ。


 声がかすれる。――だってお前は、弾けるような笑顔を見せてくれていたじゃないか。


「うん、笑えなかったの、ホントだよ。だって私は『泣沢女神なきさわめのかみ』だから。泣く、神様だから……笑顔、なんて知らなくて」


 人間の世界に居たら、笑えるのかなって。


「あとは普通に、人間と過ごすのに興味があったから……って、わがまま言ってね、この体にしてもらえたんだ」

「してもらえたって、誰に?」

「うーん、人間の太地くんには言っても分からないと思うけど……『大神さま』っては呼んでるかな。神様の上の神様って感じの」 


 人間である俺にはわからない、大神さまという存在。今サワメが「私たち」という言葉で指したのは、俺とサワメっていう意味じゃなくて、人間とは違う「神様たち」のこと。


「それでね、この期間だけは自由だって言われたから――太地くんに、声をかけた」


「俺を選んで声をかけたってこと? なんで」


「古典が苦手って言ってたから」


「は!?」


 俺の脳裏に、夏休み前の授業――「係り結び」を「枕詞」と間違えて哀翔たちに笑われた日が蘇る。確かその日の放課後だった筈だ、俺とサワメが出会ったのは。


「古典が苦手なら、古事記とか日本書紀とか、他のいわゆる『神話』が記されているものを知らないかなって、思って」


 サワメという名を聞いて、「泣沢女神」だとバレてしまうのが怖かった。そうサワメは言った。


 確かに俺は、気づかなかった。


 彼女が名字を名乗らなかったのも、なにか事情があるのかな、なんて考えていた。まあ……神様だから名字なんてなかったっていう事情があったわけだけれど。


「だから、ひとりの人間として、太地くんと関わって、いっぱい話して、たくさん色んなところに行けて。私ね……凄く楽しかったんだ」


 本当に、ありがとう。


 そう言って無理やり笑顔を作る彼女の眼尻から、一筋の涙がこぼれ落ちる。


「あの日、勝手に太地くんに着いていってさ、ストーカーまがいのことをしていた私に、『俺に何かできることがあれば』って、声をかけてくれて、ありがとう」


 あの夏の夕方、目の前で見知らぬ美少女に泣かれた俺が、困った末に打ち出した解決策。それに対するサワメの答えが、「夏休みをください」だった。


「アイスおごってくれて、ありがとう。人間の子たちがよく食べてる、スイカバーを食べるの初めてだったから……嬉しかった」


 コンビニ前のベンチに座りながら、美味しそうにアイスを食べる彼女の姿が瞼の裏に蘇る。


「太地くん!」


 サワメが叫んだ。


「まだまだありがとうって言いたいこと、たくさんあるよ! お社を素敵な場所って言ってくれてありがとう! 図書館に連れて行ってくれてありがとう! 一緒に買い物に行けて楽しかったし、トランプランドも、本当にすごく、すっっごく、楽しかった!」


 他にも、たくさんの思い出がある。


 サワメが勝手に俺の部活を見に来たこと。

 一緒にタピオカを飲みに行ったこと。

 お社で他愛のない話をしたこと。

 

 夏休みは、長いようで短かった。

 サワメと過ごした日々も、数え切れないというほどの日数ではないはずだ。


 ――それでも、俺にとっては。


「俺も、楽しかった!」


 ――サワメと一緒に居る時間は、充実していて。


「こんなに終わってほしくないって思った夏休みは、初めてだったんだよ!」


 ――ずっと一緒に居たせいで、サワメとは長い付き合いのような心地がしているんだ。


「俺だってまだまだまだまだ、サワメと一緒に居たいんだよ! この夏休みだけだなんて、嫌だよ! 今日でお別れだなんて、あんまりだよ!」


 ――こんなにも。


 人を大切に想ったことはなかった。


 もっと一緒に居たい、だなんて。

 共に過ごす時間が終わってほしくない、なんて。


 そんな、他者への気持ちが、

 こんなにも自分の心を侵すなんて。


 前の俺だったら、想像もしなかったはずだ。


「サワメ」


 その名前を、口にする。

 泣沢女神――。もしそれが本当の名前であったとしても、俺は絶対にそうは呼ばない。


 俺の目の前に立っている彼女は間違いなくサワメであり、俺が「サワメ」であってほしいと願う存在だから。


「消えないでくれ! 行かないでくれ! 本当に……俺を置いて行かないで……」


 生あたたかい雫が、頬を伝ったのが分かる。久しぶりに泣いたな、なんて。どこか客観的に考えながら、俺は想いをただ叫ぶ。


「好きなんだよ! いつも俺の隣で楽しそうに笑ってくれているサワメが、好きなんだ! 夏休みだけじゃなくて、俺の人生全部あげるから!」


 だから頼む、まだ、俺と。


「一緒に居てくれ……」


「たい、ち、くん」


 サワメがしゃくりあげながら、こっちを見た。彼女の潤んだ瞳の奥に、やわらかな光がふわりと宿る。



「ありが、とう。そう言ってくれて、ありがとう。好きになってくれて……ありがとう」



 私も、太地くんのことが。


 ――そう言いかけて、やめる。


 サワメと太地くんの間には、決して越えてはいけない線が引かれているから。



「でも、太地くんの人生全部は、もらえないよ」


 

 サワメがはっきりと言う。



「太地くんは、太地くんの人生を生きなきゃ。私のものじゃない、それは太地くんがこれから選ぶべき未来であって、太地くんだけの道だから」


 ――最後まで、ワガママでごめん、太地くん。


「ごめんね、一緒に居られなくて」


「だから」


 俺は言う。


「謝らないでって、言ってんじゃん」


 彼女の髪に、手を伸ばす。そっと、触れる。


「……サワメはさ、確かに最初、夏休みをくださいってお願いしてきたけどさ」


 俺が、サワメに夏休みを献上した。

 でも今は、それだけじゃない。


 俺は、この楽しかった夏休み。


「俺は、サワメからも、たくさんもらったんだ」 

 

 そう思ってる。

 泣き虫な美少女と過ごした、かけがえのない時間。


 それは、紛うことなく俺の大切な思い出で、どうしようもないくらい愛おしい記憶。


 間違いなくこれは、神様サワメが俺にくれた、最高で唯一無二の夏休みだ。


「ありがとう」


 優しく頬に触れる。

 彼女の涙が俺の手を濡らす。

 目と目が合う。

 そっと、顔を近づける。


 夏の終わりの黄昏時。

 

 唇が、重なる。 





「太地くん、お別れの時間、来たみたい」


 サワメが囁いた。見ると、彼女の体が、少し揺らいでいる。竹と竹の間から差し込む夕日が、彼女の淡く光る体を照らす。


「そっか、もう、か」


「神様の世界に戻るって感じ?」


「うん、たぶん。そうなるんだと思う」


 サワメの全身が透けて、だんだんとその色が薄くなっていく。


「サワメ、ありがとう」


 何度目か分からないその言葉を、ただひたすらに。


 伝える。


「ううん、私の方こそ」


 伝われ、言葉。


「太地くん、ありがとう。ほんとに」


 ほんとに。

 ほんとうに。

 本当に。


「楽しかったね」



 ――その瞬間は、驚くほど静かに訪れた。


「じゃあ、またね」


 ぱちん、と弾けるように。

 サワメの姿が見えなくなった。


 まるで空気に溶けていくみたいに。

 

 俺は、サワメの居なくなった虚空をただ抱きしめていた。竹林を、夕方の夏の風が吹きぬける。その風を感じながら、それでも俺はまだそこにサワメのぬくもりが残っている気がして。


「サワメ……」


 彼女の居ないお社に、長い間立ち尽くしていた。

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