第1話 古典は苦手です。
教室の窓は閉められているというのに、蝉の声がうるさい。ミーンミーン、時折シャカシャカシャカと、夏恒例の大合唱は鳴り止むことを知らないみたいだ。
「いいですかー、ここの『む』は意志を表す助動詞ですからねー。テストでは助動詞や動詞の文法的説明問題も出ますよー、きちんと復習しておくことー」
外の景色は蒸し暑いけれど、教室の中はクーラーの恩恵を受けて冷蔵庫並みに涼しい。今は古典の授業中。「ですからねー」と、語尾を伸ばすのが特徴の、
「はいー、じゃあ次の段落に行ってー、木曽義仲と巴御前のシーンからですねー」
今日も、語尾の伸び具合は絶好調のようだ。俺はそう思いながら、ナカセンの言う次の段落へと目を向けた。「キソノヨシナカ」っていうやつと「トモエゴゼン」のシーンということだが、正直古文は初見じゃ、よくわからない。授業の説明を受けて、なんだか上辺だけ理解するような、そんな教科だ。そして怠惰な俺はそのままテストに臨むもんだから、これは酷い。古典の点数だけは、誰にも見せられなかった。
「じゃあー、とりあえず音読しましょうかー」
ナカセンが皆を見渡して言っている。
「平家物語は琵琶法師によって語られてきた口伝の軍記物ですからー、やっぱり声に出すとリズムが良くてー、理解が深まると思いますよー。これは全部の古典に言えることだと思いますけどねー」
音読しても古典が身につかないやつがここにいるんだけど、と心の中で悪態をつきながらも、俺は教科書を手に取った。
さんはい、というナカセンの声に合わせて生徒たちは口を開く。
「「それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎ほどにぞなりにける。五騎がうちまで巴は討たれざれけり」」
全く意味は分かっていないが、とりあえず教科書に振ってあるルビを頼りに、言葉を発してみる。あ、でも最後はわかるかも。「巴は討たれざりけり」って、巴って人が討たれなかったってことだよな。
そこだけで理解した気になり、一人でうんうんと頷いていると……おっと、授業は先に進んでいたようだ。
「えー、『主従五騎ほどにぞなりにける』のところに何か修辞法が使われてるんですけどー、それは何でしょうか、
ナカセンの口から俺の名前が飛び出した。そうだった、ナカセンは授業の日の日付の、出席番号の人を当てる先生なのだ。今日は七月二十日、二十番の俺が、指名される日。
「えっと……」
とりあえず喋りだしてみるが、なんだって?使われている修辞法?古典が全くわからない俺にそんなの聞いても無駄だぞ!
「わかりません」
正直に答えると、ナカセンは少しため息をついてこう言ってきた。
「大丈夫よー、これは前回の授業でも出てきたやつですからー、ほら古典でよく出てくるアレですよー」
前回の授業……?よく出てくる……?俺の頭は更に混乱するばかりだった。
――――そのとき。
俺の脳内で何かが弾けた。そしてそれは、言葉の形を成して俺の意識に浮かび上がってくる。ああこれが、ヒラメキというものなのだな……。
そう自覚しながら、俺は自信満々に答えた。
前回の授業で出てきたかは知らんが、昔の歌とかによく出てくるやつ。絶対、これだろ……!
「
次の瞬間、教室は爆笑に包まれた。
「え、え、なんか違う?」
「宗田くんー、しっかりしてくださいー。枕詞は和歌によく出てくるやつでしょー」
ナカセンまでも笑っていた。俺、そんなにおかしい間違いしたのか?
「正解は係り結び、ですー。ほら、ここに『ぞ』があって『ける』ってほら、連体形になってるでしょー?詳しくは教科書八十ページを見てくださいねー」
最後の一言は、たぶん俺に向けてだ。なんだよ、係り結びって。まったく、だから古文は嫌いなんだよ……よくわからん文法の専門用語ばっかり出てきやがって。
俺の右手がパラパラと八十ページを開きかけたとき、授業終了を知らせるチャイムが鳴った。ナカセンが、号令をかけるように言う。
「ありがとうございましたー」
最後も、お決まりの語尾伸ばし挨拶をして、ナカセンは教室を出ていった。今終わったのが四時間目だから、同時に昼休みが始まったことになる。
さっさと弁当食べちまうか。そう考えたときだった。
「たーいちーーーー!」
背後から誰かが、俺の名前を呼びながら目を塞いだ。
「僕は誰でしょーうか?」
明るくて、軽い声が後ろから聞こえる。俺は、この声をもちろん知っていた。何年も聞き続けてきた、ヤツの声だ。
「
「大正解っ!」
振り向くと、爽やかな笑顔でこちらを見ている友達の姿が目に映った。黒髪に、分厚い黒縁眼鏡をかけているヤツの名は
「なー、一緒に弁当食べようぜー?」
「まあ、いいけど」
「よっしゃー、じゃあ僕弁当持ってくるわ」
「え、屋上とかに行くんじゃないのかよ」
「違うよ、
俺は手に持っていた弁当包みを危うく落っことしそうになった。
「この狭いところで?」
「そうだけど、何か問題でも?」
……いや、ここに男子高校生二人分の弁当が入るかっつーの!
しかし俺のそんなツッコミも、哀翔の前では虚しく消えていく。
「なんだか、身体距離近くていいね!恋人みたい」
「いや、良くねえよ!」
気持ち悪く体をくねらせながら近寄ってくる哀翔を、俺はシッシッと手で追い払う仕草をする。
「もっと離れろ、食べづらい」
「ええ〜、いいじゃんちょっとくらい」
「お前のちょっと、は限度を超えてんだよ」
「そんなんだから年齢イコール彼女いない歴なんでしょ?」
「うるせぇ」
また今日も、日常の繰り返しだ。
好きな数学と化学の授業をニヤニヤしながら受けて、嫌いな英語と古典を眠くなりながらも学んで、昼休みは哀翔に絡まれて終わる。午後もそれなりに授業を受けて、放課後はテニス部の活動をして。
そして、家に帰るんだろう。
予測できてしまう毎日に、そろそろ飽きてきていた。でも、この繰り返しを変えることは難しいと、そうも思っていた。
そんなことを考えながら、隣で卵焼きを頬張っている哀翔の話に付き合う。
「てか太地さ、さっきの古典の授業でさ」
「いや、あれはまじで分からなかった」
「いやいや、係り結びくらい覚えとけよ」
哀翔につられて笑っていた、昼休み。
――――このときは、知らなかった。
この日の放課後に、俺の日常をひっくり返す出会いがあることを――――。
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