第20話 事務所荒らし
庁舎の階段を下りながら次の作業を算段していると、刑事部捜査一課の伍代警部補に呼び止められた。鷲を彷彿とさせる鋭い目つきは相変わらずで、東海林警部とは違った意味で相手を竦ませるような迫力がある。
「お前、森野一裕を追っていただろ」
挨拶も抜きに直球を投げられ、時也は「ええ」とだけ返し相手の出方を窺う。
「森野一裕の遺体発見現場について、いくつか興味深いことが判った。まずはこれだが」
伍代刑事は懐から一枚の写真を取り出し、時也に寄越す。平行棒に逆さづりされていた森野一裕の遺体写真だ。ただし全身のショットではなく、平行棒に縛られていた両足首部分を拡大したものである。
「その写真の結び方だが、コンストリクターノットと呼ばれているらしい。手順は簡単だがかなり頑丈で、きつく締め上げると自力で解くのは困難だ。鑑識も遺体を下すのに一苦労でな」
「コンストリクターノット……特定の職業で使われる方法ですか」
「いや、広く使われる結び方で特別珍しくもない。ただ、使用目的のひとつとして土のう袋の口を縛るために適しているんだと」
「土のう袋ですか。しかし、なぜ私にこれを」
写真を返す時也に、刑事部きっての腕利き警部補は口をへの字に曲げる。
「もともと森野一裕がハムの標的だって聞いたからさ。それから、森野の前に発生した小林誠和の殺しもそうだろ」
「友枝雅樹の件ですね」
「ああ。友枝も森野も小林誠和の社員だったから、連続殺人の可能性もあるってことでこちとら大盛り上がりさ。ハムが絡んでるってのは解せないがな」
友枝雅樹が公安のスジであることまで知り及んでいるのか――時也は迷った末に問わずにおいた。公安の関与を知っている時点で、およその事情は感知しているのだろう。あるいは東海林警部から内々に伝わっているのかもしれない。
「それから友枝雅樹の失踪当日の足取りだが、普段の通勤で利用するK駅を下車したところまでは掴めている。だが、K駅を降りてからは自宅へ向かわず別の目的地を目指した。自宅付近の防犯カメラには友枝の姿が映っていたんだが、現状で把握できているのはそこまでだ」
「失踪当時に自宅近くまで行ったのですね。なのに家へは帰らなかった」
「友枝雅樹は己の死期を悟っていて、最期に家族の顔を見たくて家の近くまで行ったのではないか……なんて考えている奴もいてな。お涙ちょうだいの感動的な話だろ」
「スーツケースを遺棄した河川敷が殺害現場である可能性はないのですか」
「それはない。現場をくまなく調べ上げたが、河川敷に犯行を匂わせる物証や痕跡は何も残っていなかった。唯一の手掛かりはスーツケースのそばに残されていたゲソ痕だが、市場に流通しているミリタリーブーツと判明している」
「軍隊用の履物ですか」
「ああ。コンバットブーツと呼ばれるオーソドックスな種類のもので、ミリタリー専門店やメンズ衣料品店、ネット通販でも販売されているから入手ルートを辿るのは難しいだろう。ゲソ痕といえば、森野一裕の現場で採取されたゲソ痕も友枝の現場にあったものと同じだった」
「コンバットブーツですか」
「そう。連続殺人を視野に入れているのはその証拠もあるからだ。二人を殺害したホシが別人で、たまたま同じブーツを履いていた可能性もゼロではないが」
「流行り物のスニーカーであればまだしも、軍事用の商品ですからね。二件の殺人が同一犯によるものかは断定しかねますが、同じ人物がそれぞれの殺害現場及び遺体遺棄現場にいたことは間違いないでしょう」
「靴のサイズは明らかに男のものだから、第一および第二の事件の現場付近で怪しげな男を見ていないか虱潰しに聞き込んでいるところだ」
「そうですか……こちらでも色々調べてみます。貴重な情報をありがとうございました」
一礼して去ろうとする時也の背中に、「おい」と伍代刑事が声を投げる。
「友枝と森野殺しのホシは、こっちのホシでもある。ワッパは半分だからな」
凄みを利かせる捜査のプロに無言で微笑み返し、階段を駆け下りた。
庁舎を出ると、一礼司から着信が入っていた。折り返しかけると珍しく急いた声で、
『仕事中に悪いが、時間があれば事務所まで来てくれないか』
何事かと車を走らせると、探偵事務所が入っているビルの下に八月一日青年が立っていた。落ち着かない素振りで辺りを見回している。
「あっ、時也さん! こっちです、急いでください」
道路に車を横づけし、階段を上がる。八月一日青年に続いて事務所へ足を踏み入れると、予想外の光景が目に飛び込んだ。
「どうしたんだ、この惨状は」
机の中やキャビネットにあったと思われる書類やバインダーが床中に散らばっている。足の踏み場もない有様は空き巣にでもあったかのようだ。カウンターに置かれていたノートパソコンも床に落ち、画面にはヒビが入っている。ケーブルも無残に引きちぎられていた。
「僕も何が何だか……つい一時間ほど前、僕は事務所に鍵をかけて昼食に出たんです。そのとき所長は仕事でいなかったので、ここは無人でした。もちろん、僕が出て行く時点で部屋には何の異常もありません。五分くらい前に偶然所長と一緒になって、帰ってみたらこの状態だったんです」
「ここの鍵は本当に掛けたのかい。うっかり忘れていたなんてことは」
「ありません! ちゃんと憶えています、たしかに鍵は掛けました」
出入口の扉の鍵は、シリンダーにキーを差し込み施錠するごく普通のタイプのものだ。レバーを下げて開け閉めするようになっていて、室内からはサムターンを回しロックする。見たところ錠前が壊されたり細工されたりした痕跡はない。
床の書類を踏まないようにつま先立ちで部屋に入る。窓もしっかり二重ロックされていてガラスも割れていない。事務所への侵入経路は窓か出入口の扉のみで、いずれも無理にこじ開けた様子はなかった。
「二人が帰ったとき、出入口の鍵は?」
「掛かっていませんでした。掛けたはずの鍵が開けられていたんです」
「今は十三時五分か……八月一日くんが事務所を出た正確な時間は記憶しているかい」
「ええと――十二時ちょっと前でした。四十五分か五十分か、それくらいです」
「それまではずっと事務所にいた?」
「はい。九時に出勤してからずっと仕事をしていました」
「一は朝からいたのか」
「僕が事務所を開けてから三十分後くらいに来ました。十一時くらいまでは事務作業とか電話とかしていて、その後は出て行かれましたけど」
簡易的な聞き取りをしていると、倉庫として使っている奥の小部屋から事務所の主がひょこりと姿を見せた。
「すげえ状態だろ。パソコンは二台ともぶっ壊されていて電話線まで切られていた。一体誰がこんなことを」
手には業務用のノートパソコンを抱えている。データを復元しようと悪戦苦闘していたようだ。
「ここの鍵を所持しているのは?」
「鍵は三本で、俺と八月一日と助手が一本ずつ持っている。予備はない。特別な仕様でもないし、合鍵を作ることは簡単だろうな」
「出入口の鍵も窓も破壊された跡はなかった。つまり可能性は三つに絞られる。犯人は鍵を使って出入りした。鍵が開いたままの出入り口から侵入した。中から誰かが招き入れた」
「鍵はたしかに掛けました! 神に誓って嘘はついていません」
切実な声で訴える青年に、探偵の男は「判ってるよ、誰も疑っちゃいないさ」と優しく宥める。
「しかし、だとすると面倒なことになるぞ。犯人は鍵を持っている俺たち三人の中にいるか、共犯が潜んでいるかだ」
「隙を見て第三者がこっそり合鍵を作った可能性はないんですか?」
八月一日青年の問いに、所長は「なくもないが」と顔を顰める。
「その場合の可能性は二つだな。俺らのうち誰かが犯人に鍵を渡したか、犯人が鍵をこっそり盗み出し複製した」
「誰か鍵を紛失したり一時的にどこかへ放置していたりしたことはないのか」
時也の質問には、二人とも無言で首を振る。
「そういえば、助手という人物にまだ話を聞いていないな。今日は休みなのか」
「体調不良で休みを取っている。昨日から風邪気味で調子が悪そうだったから、半分俺が勧めたようなものだが」
「それじゃあ、今日は姿を見ていないと」
「俺は見てないな。八月一日は見たか」
「いいえ、僕も見ていません。シフト管理のアプリにも欠勤届が出ていましたよ」
腕組みをする時也に、一が「おいおい、待てよ」と詰め寄る。
「ミヨシのことを疑ってんのか? まだ入所して三か月も経っていないあいつが事務所荒らしなんてする理由がねえだろ」
「そのミヨシという助手の履歴書データはあるのか」
探偵は書類だらけの床を往来し、程なくして一枚の書類をつまみ上げた。
「これが履歴書だ。念のため印刷しておいてよかったぜ」
文書の電子化が進歩しているとはいえ、業界によってはまだまだ紙保管のスタイルを続行しているところもある。ニノマエ探偵事務所では八月一日青年が文書の電子移行を少しずつ進めているようだが、キャビネットには過去扱った事件や依頼者情報をまとめた紙の書類が多く保管されていた。
「三好友希、二十六歳か。思っていたよりも若いな」
「八月一日の一つ下で物静かな青年だよ。大学を卒業してからすぐ県内の探偵事務所にアルバイトで入所している。うちは二度目の就職先ってところだな。大学時代はろくに就活をしていなかったらしく、理由を訊ねると『最初から探偵事務所で働くと決めていた。いきなり正社員として雇ってはくれないと思いまずはバイトから始めようと考えていた』だと。ちょいと変わった奴ではあるが、四年間の下積みのお陰が仕事の基礎は身についているしセンスも悪くない。鍛えがいがある、というのが俺の見込みだ」
「この三好というバイト生に連絡を取ってくれないか。休みとはいえ事情は早めに共有しておいたほうがいいだろうし、場合によっては話を聞かなければならないかもしれない」
一は「わかった」と頷き、スマホで電話をかける。ところがどれだけ待っても応答がなく、二度、三度と掛けなおしついに諦めて電話を切った。
「具合が悪くて寝込んでいるのか、出かけているのか……とにかく電話には出ないぜ。呼び出し音は鳴っているから電源は入っているだろうが」
妙な胸騒ぎがする。根拠はないが、警察官としての直感が「何かある」と警鐘を鳴らしていた。
「助手の住んでいるところへ行ってみよう。嫌な予感がする」
「刑事の勘ってやつか。俺らはどうすればいい」
「一はここにいて警察に通報してくれ。できれば部屋の外にいて室内は極力そのままの状態にしておくほうがいい。八月一日くんは俺と一緒に来てくれないか。見知らぬ男が突然訪ねても戸惑うだろうから、きみから事情を説明してほしい」
「わかりました」
「余計な仕事を増やして悪いな」
しおらしい声で陳謝する探偵に、時也は片方の口角を持ち上げる。
「悪いも何も、こういう事態に対処することが俺らの仕事だ」
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