第15話 刺青の女子大生


 本庁を後にした時也は、西港区にある〈立浜女子短期大学〉を訪れた。一礼司から情報を得た刺青の女子大生を探すためだ。

 今年で創立五十周年を迎える立浜女子短期大学は、古くから教育学に力を入れていて現在の文部科学省大臣の母校でもある。学部棟を含む本校舎、食堂や図書館などを併設した管理棟、体育館やグラウンド、学生寮が敷地内にコンパクトに収まっていて、その中でも劣化が激しかった本校舎は三年前に全面改築。真新しさを取り入れながらも、趣ある煉瓦造りの外壁や創立当初からある時計塔はそのまま残しながら、歴史を感じられる新キャンパスが誕生していた。

 時也はリネン素材のテーラードジャケットの襟を正し、鞄から〈立浜女子短期大学初等教育学部研究員 新田時人〉と印字された職員証を取り出す。本物そっくりの模造品で一時しのぎくらいにはなるだろうが、長居はできない。職員証を首から下げ、迷いのない足取りで正門を通過した。

 ターゲットは毎週金曜日のみ午前で講義を終えて、午後には自宅マンションに帰宅。その後、夕方から夜の十時までは喫茶店でアルバイトをしている。バイト先の店から行確する方法も考えたが、大学からの帰り道で組織の人間と接触しないとも限らない。確実な証拠を掴むためには、学校から尾行するほうが安全牌だ。

 女子学生ばかりが往来する学内は、共学制の学校にはないある種の異質な空気に満ちていた。時也が卒業した学校はすべて共学だったし、警察世界は未だに男社会だ。周囲からの好奇な視線がどうにも落ち着かず、周りに素早く目を配りながら〈m〉の姿を探す。探偵から入手した写真で顔は把握済みだ。

 意外にも、目当ての人物はあっさり見つかった。管理棟二階、図書閲覧室の本棚の一角で熱心に探し物をしていたのだ。桜色のシャツにクリーム色のニットカーディガン、花柄のロングスカートという春らしいファッションに身を包んでいる。緩くウェーブのかかった柔らかそうな髪、丸く形のよい額、控えめながら上品な顔立ち。一定の距離からでも目を引く容貌である。

「可憐な女子大生が犯罪組織の一員とは、世も末だな」

 独り言ち、動向を注視する。国内の古典文学の本棚を十分ほど行ったり来たりした後、〈m〉は二冊の本を棚から抜き取って閲覧テーブルへと向かった。数人の学生が本を読んだりレポートと格闘したりしている中、窓際の日当たりが良い席を確保する。白いトートバックと数冊のテキストを机上に置くと、先ほど探した本を開いて熱心に読み始めた。

 時也は席を探すふりをしながら、ターゲットが坐るテーブルの横を通過する。そのとき、机上から僅かにはみ出したテキストにさりげなく触れて床に落とした。すっかり読書に熱中していた相手は、驚いたようにびくりと肩を上げる。

「ああ、これはすみません。手が当たってしまいました」

〈m〉が立ち上がるより先に素早くしゃがみ込む。裏表紙に小さな字で〈初等教育学部 一色乙葉〉と名前が書きこまれているのを目視してから、テキストを拾い上げ軽く埃を払った。

「申し訳ありません。ぼんやりしていて」

 一色乙葉は数秒ほど時也の顔を凝視してから、ぱっと目を伏せてテキストを受け取る。蚊の鳴くような声で「いえ、こちらこそ」とだけ言うと、なぜか物凄い勢いで荷物をまとめ脱兎のごとく席を離れた。

 予想外の反応に内心焦ったものの、すぐに思考を切り替え後を追いかける。管理棟から外へ出ると、正面広場の大きな噴水とその周りに屯する学生たちが視界に入った。集団の中に対象の姿はなく、円形の広場を道なりに歩いてみる。花壇に咲き誇る鮮やかな花々と真っ赤な煉瓦の小道はヨーロッパの庭園を彷彿とさせ、うっかり任務を忘れ見とれてしまうほど美しい。

 正門付近まで進んだところで足を止める。百メートルほど前方に、女性と立ち話に興じる対象の姿があった。距離感を見る限り、相手は学内の友人かサークル仲間といったところか。対象が時也に気付いた様子はなく、二人はそのまま門を出て西港区方面へ歩き出す。職員証を首から外し、距離を保ちつつ尾行を開始した。

 K県第二の学園都市と謳われるだけあって、表通りには学生らしき姿が多い。二人はしきりに喋りながら、時には笑い声を上げながら、学生街をのんびりした足取りで進む。頭上には刷毛で塗ったような青空が広がり、柔らかな陽光が降り注ぐ春麗らかな昼下がり。鉄の箱に乗って家路に着くにはもったいない気候だ。

 二人組の女子大生は、新立浜駅西口を通り抜けて〈プロムナード通り〉に入る。フランス語で遊歩道の意味を持つことに由来するこのメインストリートは、新立浜駅西口から丘野町まで突き抜ける繁華街だ。繁華街といっても、いわゆる夜の街らしい雰囲気が漂うのは駅近辺だけで、丘野町方面へ近づくほどカフェやブティックが立ち並んだハイソな景色に移り変わる。

 尾行を始めて三十分。二人はプロムナード通りの一角にある喫茶店〈repos〉に立ち寄った。オープンテラスを併設した小ぢんまりとした店で、開店祝いの花輪が出入口に立てられている。全面ガラス張りの窓からは客でにぎわう店内の様子が観察でき、一色乙葉とその友人はメニューを注文してからテラス席へと移動した。

 時也は少し考え込んでから、店の向かいにあるメンズショップに入る。窓側のキャビネットに並んだ服を物色しながら、さりげなく眼鏡の丁番に指先を押し当てた。

 実は時也がかけているこの眼鏡、ヨロイ部分に超小型のビデオカメラが内蔵されていて丁番の内側にあるボタンを押すと録画ができる仕組みなのだ。現代のカメラ事情は驚くほどの進化を遂げていて、カメラ本体が超小型化しているのみならずボールペンやネクタイピン、車のスマートキーや置時計などにも内蔵され出回っている。こうした日常使いのアイテムに仕込まれたカメラをスパイカメラとも呼び、時也が普段使いでかけている黒縁眼鏡もまさにその一種なのだ。

 メンズ服を選ぶふりをしながら、時折ふと顔を上げて窓の外に視線を投じる。眼鏡に仕込まれたカメラレンズで対象を上手く撮影することは口で言うほど簡単ではない。時也は公安警察になってから何千という映像を眼鏡型スパイカメラで記録し、撮影技術を磨いてきた。今では意識せずとも感覚的に、まるでカメラ自体が自分の視覚であるかのごとく対象を正確にフレームインできる。

 店のテラス席は蔦のアーチに覆われ、談笑する客たちの肩に木漏れ日が揺れる。席周辺には色鮮やかな花の植木鉢が並び、外国映画のワンシーンを思わせる優雅な空間だ。若い男性スタッフが店の中と外をひっきりなしに往復し、客のテーブルへティーカップを運んだり注文を受けたりと忙しそうに動き回っている。

 対象は三十分ほどアフタヌーンティーを堪能してから、店の前で友人と別れた。以降はどこにも寄り道せず、プロムナード通りを真っ直ぐ突き抜けて西港区丘野二丁目にあるマンションへ帰途に着く。マンションとは言っても、四階建てのコンパクトな物件で駐車場も併設されていない。建物自体は真新しく、築五年未満といったところか。

 マンションの周りをぐるりと偵察した時也は、建物の向かいにある〈丘野バラ公園〉に目をつけた。バラ園と小プール、広場に野球用のグラウンドまであり平日の真っ昼間でも子どもや家族連れの姿が多い。道路を挟んでマンションに面しているのはバラ園だけのようだ。

 艶やかな花々で彩られた園内を散策しながら、指先に乗るほどの超小型カメラを一本の樹木にセットする。眼鏡のスパイカメラもこの超小型カメラも、スマホの専用アプリと連動させ録画映像を確認できる優れものだ。

 バラの茂みを離れてアプリで映像チェックをしていると、ジャケットの内ポケットに入れていたもう一台のスマホが震えた。森野の行確を担当する内海巡査長からのコールだ。

「内海か。森野の様子はどうだ」

『今日で行確四日目ですが、これといって目立った動きはありません。誰かと密会している様子もなく、社外での怪しい動きもなし。森野が定期的に立ち寄る居酒屋があって、そちらも注視しているのですが目ぼしい収穫はないです』

 一旦公園を出て、昼下がりの住宅街をそぞろ歩く。ランドセルを背負った小学生が時折物凄いスピードで走り去るのを横目に見ながら、

「友枝が殺されてから一週間も経っていない。仮に友枝殺害の犯人と森野が繋がっていたとしても、接触には最大限警戒するだろう。尻尾を掴むのは容易ではないさ」

『そうですね……ところで、森野の素性について少し気になることがあるのですが』

 内海によれば、隣の県にある森野の生家を調べた際に親族が一人死亡していることが判ったのだという。

『名前は森野浩二。森野一裕の実の弟です。高校を卒業してから地元であるS県のパチンコ店で働いていたのですが、五年前に二十八歳で亡くなっています』

「病気か事故か?」

『当時の捜査資料では、自殺ということになっています』

「含みのある言い方だな。事件性を疑っているのか」

 数秒の間を置き、「そうですね」と曖昧な声が返ってくる。

『実は昨日、行確を代わってもらい森野浩二の件を処理した警察署へ行ったんです。当時の担当者がまだ在勤していたので話を聞いたのですが、事故か自殺か際どい判断だったそうです』

「と、いうと」

『森野浩二は、山道を一人で運転しているときに崖から車ごと転落して死亡しているんです』

「ハンドル操作を誤った事故、という見方が強かったのか」

『最初はそうだったようですが、疑問も残っていたみたいです。現場はたしかに山道ではありますが、カーブは緩やかで見晴らしも悪くありませんでした。よほど運転に慣れていないか酩酊でもしていない限り、事故に遭うような場所ではないかと』

「対物や対車による事故でもないのか」

『そこは間違いありません。森野浩二の車にはドライブレコーダーが搭載されていたのですが、奇跡的に損壊を免れて映像が残っていたんです。当時の現場付近の様子が撮影されていましたが、道の状態は良好で岩などの落下物もなく、現場付近には人も車も通っていなかったようです。森野浩二の車は山道のカーブにさしかかり、スピードを緩めることなく崖から真っ逆さまに落ちたみたいですね』

「現場にはブレーキ跡も残っていなかったんだな」

『ええ。ただ、当時の警察が森野浩二の死を自殺と判断したのには他にも理由があるんです。当時、森野浩二は県内のあるパチンコ店に勤務していたのですが、その店は彼が亡くなる直前に行政処分を受けていたんです』

「パチンコ店、か」

 MERCURYの一件を思い出し、ため息交じりに呟く。偶然の一致にしても妙に気にかかる。

「行政処分ということは、違法行為があったのか」

『遊技機の違法改造です。県の公安委員会に届け出を出さず、基板の交換やくぎ曲げといった行為を日常的に繰り返していました。ところがあるとき、客の一人を名乗る人物が警察に匿名で密告して違法行為が明らかになったんです』

「その違法行為に森野浩二が関与していたのか」

『お察しの通りです。違法行為が判明した後、森野浩二は店を辞めています。そして例の事故が起きた』

「まさか、パチンコ店の関係者が口封じのために森野浩二を?」

『可能性はあるかと。少なくとも、森野浩二の死と今回の事件には関連性があると私は見ています。森野の実家にその根拠があるんです』

 警察署を訪れた際、内海は森野の生家にも足を運んでいた。そのとき、母親の許可を得て森野浩二の部屋を見せてもらったという。

『彼はもともとインドア派で趣味もあまり多くなかったようなのですが、そんな彼の部屋でひと際目立つ物がありました……望遠鏡です』

「望遠鏡って、天体観測に使うあれか」

『はい。かなり立派なもので、母親によればバイト代を注ぎ込んで購入したものだそうです。森野浩二は星空観察が好きで、実家の周りが山や田畑に囲まれていたこともあり夜はよく外で星を見ていたと』

「星空……星座か」

 呟いた時也の耳元で、後輩の熱っぽい声がする。

『そうなんです。これで、森野一裕と星座がつながると思いませんか』

「森野一裕が、刺青の組織の一員かもしれないということか」

『そこまではまだ断言できませんが、バラバラだったピースが少しずつ嵌っていくような手応えはあります』

 たしかに、森野一裕が今回の事件と決して無関係ではないことは内海の収穫によりはっきりとした。だが、パズルを完成させるには欠けているピースがまだまだ多い。

「森野一裕の素性をもっと詳しく調べたほうがいいな。弟の事故から小林誠和に入社した経緯まで徹底的に」

 通話を終え視線を上げると、いつの間にかバラ園の周囲をぐるりと巡ったらしく、公園の入り口が目の前に見えていた。再び園内に足を踏み入れ、一足早く花開いたバラを眺めながらさりげなくカメラの位置を確かめる。

 ふと、違和感を覚えた。

「位置がずれているな」

 アプリの映像を確認すると、途中でほんの一瞬だけ映像が揺れていた。カメラを設置した直後には子連れの家族もいたが、子どもが手を伸ばして届くような高さではない。カメラの底には粘着テープが貼られ葉に固定されていたし、花と花の間に上手く隠していたつもりだったのだが。

 疑念を拭えないまま、カメラの位置を調整しなおす。バラ園内には横長のベンチが二つ設置されていて、そのうち一つを居眠り中の老人が占拠していた。時也は残りのベンチに腰掛けると、本を開いてスマホのアプリを起動させたままページの間に挟む。たまの休みに公園で読書に勤しむ物静かな青年――を演出しているつもりだ。

 そのまま過ごすこと三十分。ターゲットがマンションの玄関から姿を現した。白と紺のボーダーシャツにカーキ色のトレンチコートを羽織り、バラ園の横を足早に通り過ぎていく。周囲を警戒するそぶりがないことから、尾行には気づいていないらしいと察する。本を閉じ、徒歩で追跡を開始した。

 プロムナード通りを真っ直ぐ進み、立浜駅の構内を突っ切って駅外へ出るとすぐ目の前の歩道橋を渡る。片側四車線の大きな道路を挟んで対象が向かった先は、立浜港に面するK県最大級の都市開発地域〈立浜みなとフロンティア〉だった。

 立浜みなとフロンティア――通称〈新未来都市〉は、かつては片平川を挟んで東側の区域のみを指した呼び名だった。ところが、十五年前に当時の立浜市長が新たな都市開発計画を大々的に打ち出す。その内容は、「片平川に橋をかけて西側の区域も立浜みなとフロンティアに含め、かつてない新未来都市を誕生させよう」というものだった。

 十五年前も充分過ぎるほど発展していた立浜みなとフロンティアは、旧市長の大胆な提案によって更なる進化を遂げた。商業施設や大手企業のオフィスをはじめ、テーマパークや美術館、コンサートホール、宿泊施設、歴史建造物といった観光資源の開発が急ピッチで進められた。のみならず、病院や警察署、小学校をはじめとする各教育施設など、区域の中にすべてが揃うようになるのに十年もかからなかっただろう。そうして、関東どころか日本を代表する近未来都市として世界にもその名を轟かせるところとなったのだ。現在では、毎年恒例の「日本国内で住みたい街ランキング」で三年連続トップを独走し、近年は県内外からの移住者も増加傾向にあるという。さらには立浜みなとフロンティアの中でのみ適用される条例も制定され、立浜市の中でも独立国家のように扱われているきらいがあった。

 その近未来都市のエリアへと、対象は迷いのない足取りで突き進む。やがてその姿は、立浜市随一の規模を誇る大型デパート〈ふごう立浜〉の中へと消えた。

 ふごう立浜は、多くの飲食店や雑貨店、ファッション店、さらには美術館やちょっとした劇場まで設けている複合施設だ。屋上には家族やカップルの憩いの場である〈ふごうパーク〉が併設されていて、平日でも客足が途絶えず賑わいを見せている。屋内の〈ふごう美術館〉では過去、フランスの代表的作家ヴィクトル・ユーゴーをテーマにした展覧会が開催されたが、それはユーゴーのスペルがふごうと同じHugoであるという単純明快な理由によるものだ。

 尾行の最終目的地は、ふごう立浜六階にある〈きっさ椿〉。紅色の暖簾がかかったレトロな外観の喫茶店で、ソファと椅子は暖簾と同じ色、テーブルはベージュで統一されている。若い女性やカップルの客が目立つ中、時也は窓際の小さなテーブル席に坐り鞄からスマホと数冊のテキストを取り出した。大学に潜入したとき万一職員に間違われても言い逃れできるよう、教育関係の書籍を数冊紛れ込ませていたのだ。

 ボーダーシャツに黒のエプロンを身につけた一色乙葉は、バイトを始めてまだ日が浅いのだろう。どこかあどけなさが残る顔に精一杯の営業スマイルを浮かべ、「かしこまりました、しばらくお待ちくださいませ」と発する敬語もたどたどしい。

 レジに目を転じると、スキンヘッドにたっぷりと髭を蓄えた初老の男が会計をしている。貫禄たっぷりの彼が店のマスターに違いない。少し離れた位置からでもはっきり耳に届く、ハリのあるバリトンボイスが印象的だ。

 ナポリタンとコーヒーで早めの夕飯を済ませてからは、持参したテキストを開き勉学に励む研究員――を演じながら閉店の三十分前まで監視を続けた。その後はふごう立浜の外で時間を潰し、ターゲットが退勤しビルから出てきたところを再度追跡する。しかし、真面目なバイト生はどこにも立ち寄らずそのまま十一時には帰宅。結局、監視初日に女子大生が組織のメンバーと接触することはなかった。

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