第40話 追悼


 三人が店を出た後、時也は一人で居酒屋Q兵衛に居残った。テーブルからカウンターへと席を移し、長机に空のグラスを二人分並べる。

「オヤジさん、ひとつ伺ってもよろしいですか」

 時也の呼びかけに、カウンターの奥から胡麻塩頭がひょこりと飛び出す。

「何だい兄ちゃん」

「オヤジさん、交通機動隊にいましたよね」

 バンダナを頭から外した店主が、カウンター越しに時也を見下ろした。額の汗を腕で拭い、にやりと笑う。

「知ってたのか。けど、あんたこの前は土方だって言ったじゃねえか」

「ヘルメットを被る仕事は土方だけではありません。警察なら、交通機動隊は毎日ヘルメットを装着して一日中外を走り回りますから」

「なるほど。だから今日はお仲間を連れてきたわけか。同業者なら話を聞かれても安心だと」

「それもありますが、あなたが元警官という理由だけではそうはしません。我々公安課の仕事は特殊ですから、不用意に外で仕事の話はできない」

「それじゃ、なんで」

「あなた、葉桐部長のスジですね」

 逞しい両腕を組み、元白バイ隊員は時也を睨みつける。スピード違反者を取り締まるときのような、鋭い光を宿した目だ。

「どうしてそう思う」

「彼はすぐ近くにあるMERCURYというパチンコ屋を内偵していました。この店であればMERCURYで一儲けした客が流れで訪れる可能性が高い。だから、この店にスジをつくろうと考えたはずです。もちろん、あなたが元警官だと知った上でね。私が彼なら同じことをしますから」

「ふん。さすがは葉桐が認めた同僚だな」

 カウンターの奥からジョッキを取り出し、サーバーからビールを並々と注ぎ入れる。落合たちが店を出た時点で暖簾を下ろし、表には「準備中」の立て看板を置いているのだ。

「彼の殉職はいつ知ったのですか」

「一昨日だよ。葉桐とよくコンビで動いていたっていう中年の刑事が来てな。あいつが使っていた携帯電話が見つかって、そこに俺との通話記録が残されていたらしい……なあ、葉桐殺しを指示したマルBの幹部は捕まっていないんだってな」

「残念ながら」

 葉桐殺しの捜査状況は、大迫刑事から耳に入れていた。実行犯の真澄湊はすべてを包み隠さずに証言したが、彼の供述だけでは本当に中陣豊が殺害指示を出したかどうかは確定できない。肝心の中陣本人は知らぬ存ぜぬを決め込んでおり、なかなか自白を引き出せないようだ。

「やり切れねえなあ。殺人教唆は正犯と同罪だろ。殺人犯が野放しになっているのと同じじゃねえか。一課や組対の奴らも歯痒いだろうな」

「殺人教唆の罪は立証が難しいですからね。葉桐の件については俺たちも別ルートで探っています。必ず奴らの尻尾を掴んで引きずり出しますから」

 力強く言い切った時也に、店主は「頼もしいな、兄ちゃん」と微笑んだ。

「葉桐部長は、よくこちらに来ていたのですか」

「いや、滅多に顔を出さなかった。そうだな……二、三度ってところじゃないか。つれねえ奴だろ、オフでも店に来てくりゃいいのにってぼやいたら、『悪いが俺の仕事にオフはないんだ』だとさ。かっこつけやがって」

 一息でジョッキを空にすると、今度は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルタブを開くと「プシュ」と小気味よい音がする。

「あんた、葉桐とは長いのか」

「いえ、今回の件で初めて一緒に仕事をしました」

「そうかい。随分あんたの腕を買っていたから、てっきり古い付き合いなのかと思っていたよ」

「葉桐部長が、ですか」

「意外そうだな」

 目を丸くする店主に、時也は素直に「ええ」と頷く。

「彼は何というか……昔の俺を見ているみたいでした」

「兄ちゃん、やんちゃしてたのかい」

「いえ、そういう意味ではなく。他人を信じない一匹狼というか。例え仲間であっても、心の内を決して晒そうとしないし隙も見せない。自分以外は誰も信用できない。だから、俺のことも邪険に感じているものとばかり」

「相変わらず素直じゃねえな、あいつは……まあ、葉桐も昔は色々あったみたいでな。安易に他人を信頼するとろくなことがねえって痛感したんだと。詳しい話は聞いちゃいねえが」

「オヤジさんは、葉桐部長に信頼されていたようですね」

「俺か? まさか。口が堅いからスジに適任だったって、それだけだ。おっと、ここまで喋っておいて口が堅いはねえな」

 見た目は武骨だが、案外話し好きのようだ。アルコールも手伝っているのかもしれない。

「オヤジさん、ひとつ頼み事をいいですか」

「何だよ」

「彼がここに来たとき飲んでいたお酒、出してもらえますか」

 空のグラスにちらと目を向ける店主。それですべてを察したようで、時也に背を向けると「そうだな」と冷蔵庫を開ける。カウンターの棚の上に二つのグラスを置くと、やがてカクテルシェーカーを振るリズミカルな音が店の中に鳴り響いた。

 BGMのような心地よさに、思わず目をつむる。しばらくしてふっと顔を上げると、カクテルグラスが二つ、カウンターの上で静かに佇んでいた。右側のグラスの中身ははっとするほど鮮やかな黄金色で、つい視線が釘付けになる。

「向かって右は、ジプシーっていうウォッカベースのカクテルだ。フランス製のベネディクティンをベースにしている。葉桐は店に来た際、必ずこの一杯を引っかけていたよ」

「ジプシーか……放浪好きな彼らしい。こちらの、白いお酒は?」

「ジンをベースにグレナデンシロップと生クリームを加えた、ベルモントってカクテルだ。ヨーグルト風味で飲みやすいが、ジンの量は多いからしっかりとした酒の味も楽しめる」

「ベルモントか、初めての一杯です」

 グラスぎりぎりまで注がれたジプシーと乾杯して、ベルモントを呷る。生クリームにシロップと聞いて甘ったるい味を想像していたが、ベースとなるジンとの割合が絶妙で甘さが主張しすぎていない。脳の奥が微かに痺れるような感覚は、久しく味わっていないものだった。

「凄く美味いです。正直、こんな店でカクテルがいただけるとは思わなかった」

「もともとは引退後にバーを開こうとしていたんだ。けど、諸々の事情があって断念せざるを得なくてな。で、代わりに始めたのがこのおんぼろ居酒屋さ」

 一瞬だけバーテンダーの顔をのぞかせていた店主は、すぐに居酒屋の精悍なオヤジに戻った。

「おんぼろなんてとんでもない。また飲みに来てもいいですか――今度はオフのときにでも」

「歓迎するよ。そのときは新作のカクテルでも奢ってやる」

「楽しみにしています」

 にこりと笑って、ジプシーのグラスに目を転じる。

「そういえば、カクテルにも花言葉ならぬカクテル言葉というものがあるそうですね」

「ああそうさ。兄ちゃん、酒に詳しいのか」

「いえ。ただ、そういう言葉があると聞いただけです。この二つにも何か意味が?」

 ジプシーのグラスを指さした店主は、

「そいつのカクテル言葉は〈しばしの別れ〉だ。あいつがその意味を知って飲んでいたかは、今となっては永遠の謎だがな」

 ただの偶然だろう。葉桐が自らの死を予言していたなど、そんなお伽噺を信じるほど酔ってはいない。

「こちらの、ベルモントは?」

「それは……何だったかな、ど忘れしちまったよ」

 ぼりぼりと頭を掻き、店主は缶ビールをぐいと呷る。時也は無言で微笑むと、黄金色のグラスをぼんやり眺めながらベルモントを最後の一滴まで味わい尽くした。その一杯に秘められた意味が〈優しい慰め〉だと知るのは、数日後、酒に詳しい田端警部補からカクテルのレクチャーを受けたときだった。



――To be continued.

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パラダイス・ロスト【改訂版】 真波馨 @camel-7

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